第22話  職曹司(しきぞうし) ~帰参~


 中宮様から「そなたのするべきこと、心ゆくまで草子を書いてから参上すればよい」とお手紙をいただいてからは、いつもとはちがって何の仰せ事もなく日が経っていきました。宮仕えのことばかりが思われて、かといって戻る決心もつかずぼんやりと過ごしていた午後に、長女おさめが手紙を持って参りました。なかなかよく気のつく長女は言いました。

「中宮様から直々に、こっそりとくださったものですよ」

 そのお手紙を私が忘れることができましょうか。中を開けてみると、紙には何もお書きにならずただ一枚の山吹の花びらをお包みになり、その花びらに「言はで思ふぞ」と書かれていたのです。あまりの嬉しさに頭がぼうっとなってしまったのでしょうか。このような有名な古歌の上の句がさっぱり思い出せず「どうしたことか」とつぶやくのを女童めわらわが聞いて、

「心には 下行く水のわきかへり 言はで思ふぞ言うにまされる、ですよ」

 と教えてくれたのもおもしろいことでございます。

「言葉にするより心の中であなたのことを案じていますよ」というお心をお包みになっておいでなのでした。

 私はもう、意地もなにもなく中宮様にお会いしたくて、居てもたってもいられなくなりました。私は中宮様お一人に信じていただいていれば、ただそれだけで良かったのです。難しく考える物事の答えは、本当はいつも簡単なことなのかも知れません。

 そうして一年余りも離れていた中宮様の御前へようやくもどったのでございます。久方ぶりに伺候した宮中でどぎまぎしながら隅に侍っておりますと、

「あそこにいるのは新参の者か」

 とお笑いになるお姿が、以前よりもやせてほっそりとしていらっしゃるのに、お心はいかばかりおおらかでいらっしゃることかと胸がいっぱいになりました。歌の上の句を女童に教えられたことをお話し申し上げると、たいそうお笑いあそばします。

「あまりにも知っていてばかにしている歌は、どうかすると思い出せないこともあるにちがいない。これは聞いたことだけれど」

 中宮様は、『なぞ合わせ』でわざと誰もが知っているなぞを出し、相手がばかにして「いっこうにわからないなあ」と言ったところで数を差して勝ったという人の話をしてくださいました。

「そなたの姿が見えないことには、ちょっとの間も気を晴らすことができそうもない」

 にこにことご機嫌でお変りもないご様子をお見上げすると、もう私の命など投げ出してでもこれからはお仕え申し上げようと思うのでした。

 それから間もなく、私は中宮様に従ってしき御曹司みぞうしへ入りました。主上様のお申し出をお受けになってお戻りになったのは、内裏から出て北東の方位にある御曹司という仮の居所でした。職の御曹司に入ったとき私はそこが内裏だいりの傍であるだけに、華やかかりし過去との比ぶべきもないお変わりようがおいたわしくて、悔しくてなりませんでした。が、他の女房たちは中宮様に呼応するかのように、どんな処遇にも心を惑わされることがなくなっているようでした。以前なら少しのことでも大げさに悲嘆にくれたり、泣いたりなどしていた女房も今では皆、中宮様と心をひとつにしているように見え、まぶしくさえ感じられます。

「少納言、私は主上様の宮殿の傍に今いるのですね。以前より少し離れたところではあっても、やはりうれしいものよ」

 主上様からはすぐにお手紙があり、ほぼ同じくしてお二人は手と手をしっかりと取り合っていらっしゃいました。一年と数カ月ぶりにお見上げする主上様は、すっかり男らしさと落ち着きをただよわせていらっしゃいます。脩子しゅうし様をいとおしそうにお抱きになり、初めての御子様ご誕生の喜びをようやく噛みしめておいでのようでした。主上様のお渡りは日を空けることもなく、お手紙の使者も参らぬ日はございません。

 主上様第一のご信任の女房、右近うこん内侍ないしも、中宮様を懐かしがってこちらへたびたび参上なさいました。中宮様の周りをにぎやかにして、少しでも中宮様をおなぐさめしたいという主上様のお計らいでもございましたのでしょう。

 八月十日過ぎの月の明るい夜、中宮様は右近の内侍に琵琶を弾かせて端近にいらっしゃいました。女房たちは話したり笑ったりしておりましたが、私は伊周これちか様のことを思い出してぼんやりしていると、中宮様が

「どうして物を言わないでいるのか。こちらまで寂しい」

 とおっしゃいます。

「ただ秋の月の風情をながめているのでございます」

「そうだったの。この場にはふさわしい様子ね」

 中宮様はにっこりと、私をご覧になりました。

「兄上は、戻ってきますよ」

 十二月、脩子様が内親王におなりあそばし、その数日後、伊周様が京にお入りになられ、しき御曹司みぞうしは明るい年を迎えたのでした。



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