第23話  遠近江 (とおつおうみ) ~藤原行成~


 しき御曹司みぞうしは庭の木立がうっそうと生い茂り、建物も気に入らないけれども、妙におもしろく感じられる住まいでございました。ここは内裏だいりから見れば鬼門の方位。母屋には鬼がいるというので、皆そちら側を仕切って隔て、南のひさしの間を中宮様の御座所とし、女房は又廂またびさしの間に伺候しています。殿上人てんじょうびと上達部かんだちめが、参内で左衛門の陣に入る折の前駆の声が次第に聞き分けられるようになって、女房たちで「あれは、誰それ」と当てる遊びも流行りました。

 このようなご境遇になられても、上達部や殿上人の訪れは昼も夜も絶えることがございません。ご政務の息抜きの場はこちらとお決めになっていらっしゃるように、よほどの忙しさでもない限りはご挨拶にお見えになりました。中宮というお立場でありながら主上様から一番離れたところにある後宮の華やぎは、式部のおもとの意欲にかなったものでした。私たちは逆境の中で、かえって風雅を磨いていったのです。

 蔵人くろうどとうで、左忠弁を兼ねていらっしゃった藤原行成様は、私を中宮様お取次ぎの女房と決めておいでのようでした。たまたま最初に取次ぎを頼んだのが私であったというだけなのに、決して心を変えるまいとでもお思いのようでございました。私が局に下がっているときは呼んででも上がって来させ、里にいるときには手紙を書いてでも、またご自分でお見えになってまで、

「もし、あなたが遅く参上するのなら、『こう頭の弁が申しております』と、中宮様にあなたから人をってください」

 などと仰います。

「それなら、その人に。私でなくても代わりの人がちゃんと控えておりますよ」

 そう申し上げても承知しないといったふうです。

「もうちょっと融通のあるところをお持ちの方を良しとしておりますのに」

 ご忠告がましく申し上げれば、

「これは私の性格ですから。性格は改まらないものです」

 と頑なに仰います。

「でも、改めるのに遠慮はいらないっていうじゃありませんか」

 などと私も減らず口を言ううちに親しくなっていきました。

 ある日、職の御曹司の立蔀たてじとみのもとで行成様が隣房の兵部ひょうぶの君と話し込んでいらっしゃいました。

 私はからかい心を起こしました。

「そこにいるのは誰ですか」

「弁がお伺いしているのです」

 行成様自ら仰います。

「何だってそんなに親しく話していらっしゃるのですか。大弁が見えたら、あなたはすぐに見捨てられておしまいになりますよ」

 思った通り、行成様はお笑いになりました。おおらかなお方です。「私は中弁。まったく、あなたのおっしゃる通りだなあ。いや、それを『どうかそうしないでくださいよ』と頼み込んでいるのです」

 私と一緒にいた式部のおもとまで笑い出しました。

 行成様は、風流な面などをわざわざ表に出されるようなことはなく仏頂面をしていらっしゃるので、女房たちは「なんだかとっつきにくいお方。普通のようにお話かけにもならず」と申します。ですが、私はもっと深みのあるお心を知っています。行成様のお父様は二十一歳でこの世を去られた義孝少将です。一つ違いのお兄様の挙賢たかかた少将と、流行り病で同じ日にお亡くなりになったそうです。義孝様はご容貌がたいへんお美しくて、若い頃からご熱心な仏へのご信仰をお持ちでいらっしゃったという話を耳にしたことがございます。女人も、北の方様以外とはどなたともお付き合いにならず、とてもまじめなお方でしたとか。阿闍梨あじゃりと申す僧が義孝さまの夢をご覧になってたいへんご愉快にしていらっしゃるのを不思議に思い夢の中で尋ねたそうです。

「あなたはどうして、そんなに愉快そうにしていらっしゃるのですか。母君の方は、あなたを、ほんとうに深く恋しがっていらっしゃるのですよ」

 すると、


 しぐれとは はちすの花ぞ散りまがふ なにふるさとに袖濡らすらむ


 と、歌をお詠みになったそうです。「現世ではしぐれの雨の頃でしょうが、こちらは蓮の花がしぐれのように散り咲いて美しい限りです。私がこのようにしあわせでいるのに、どうしてふるさとの母上がお嘆きなのでしょうか」という、ため息の出るような美しいお歌だったとか。行成様が浮いたようなところがおありでないのは、そうした信仰心の篤い父君の血を引いていらっしゃるのでしょうか。私も一度だけおたずねしたことがあります。

「主上様もお認めのほど、すばらしく風流な方でいらっしゃるのに、どうしていつも地味にしていらっしゃるのですか」

 ひどくお若いのにも似合わず、この方の御装束は、草子にも褒められないほどに色合いが寂しいのでございます。

「怨霊に見つからないようにしているのだよ」

 行成様は、お笑いになりながら仰いました。確かにご一族に祟って幾人も命を奪ったと言われる物の怪のお噂は有名でした。それはご冗談としても、めったに人を寄せ付けないようなきまじめさと冷静さは、あの実方さねかた君には無いものでした。実方君がご自分よりも年若い行成様に思わず熱くなっておしまいになったのもわからないでもありません。

 他の女房たちが、行成様のことを「世の中を捨てたお方」などと、中宮様に悪く申し上げても私は庇いたくなってしまいます。

「どこにでもいるような人物ではありません」 

 私が中宮様に行成様のことを申し上げると、

「私もよく知っています」

 とご存知あそばしています。私と行成様はお互いに「遠つ近江の浜柳」と言い交して友情を育てておりました。

 ある時、行成様は私に「お顔を見せてください」と仰いました。

「友情に顔など関係ないではありませんか」

 扇を強く握りしめて申し上げると、不意に下から覗き込まれてしまったのです。

行成様は澄ましたお声で仰いました。

「女の顔は、目が縦につき眉は額まで生えていて鼻は横向きにあるとしても、ただ口元に愛嬌があり、あごや首がすっきりとしていて、声がにくらしくない人が好きになれそうだから、あなたはよろしい。やはり顔は大事だ」

「ええ、私は上半分の顔はとてもにくらしくしておりますので」

「それならやはり、全ては見せてはくださるな。嫌いになるかもしれないから」

 それからは、本当に私の顔を自然と見るような機会があっても目をふさぎなどしてご覧になろうとしないので、仰ったことは本当なのだなと思って過ごしておりました。

 晩春の頃、遅くまで式部のおもとと廂の間で寝ていると、奥の引き戸が開いて、主上様と中宮様が突然お出ましあそばされました。私と式部のおもとがあわてふためくのをご覧になってたいへんお笑いあそばします。置いてある夜具などにお隠れになりながら私たちのそばにおいでになり、陣から出入りする者をご覧あそばそうというご趣向なのでした。ここ、職の御曹司は左衛門の陣に近いので、中宮様がそのようなおいたずらを思いつきあそばしたのでしょう。主上様がおいでなのを知らない殿上人がこちらに寄ってきて話かけなどいたします。主上様は、

「どうかわたくしたちが隠れているというそぶりを見せないでくれよ」

 と中宮様とお笑いあそばします。主上様と中宮様は、たとえ道長様でも神様でも引き離すことはおできになりますまい、と私はお見上げします。お立ちあそばされる時に、

「二人とも、さあ」 

 と、参上をお命じあそばしますので

「顔を整えましてから」

 とお答え申し上げ局に残りました。

 主上様と中宮様が奥にお入りあそばされて、私と式部のおもとは、お二人のすばらしいご様子を語り騒ぐのでした。その時、簾の少し開いているところから人影が見えていたのを、てっきり則光の弟の則隆であろうと思って油断しておりましたら、あろうことか行成様だったのです。ようやく、にこにことしながら顔をお出しになったのを、

「則隆でしょう。さっきから、わかっているのよ」

 と、目をやって初めて別人だったことがわかりました。あまりのことに、笑いまどって隠れます。せっかく顔を見られないようにしていたのに、見られたのはとても残念です。

「今さらお隠れになってもだめですよ。もう、あますところなく見てしまったのですから」

「なんで、あのように仰っていたにもかかわらずご覧になったのですか」

「『女は寝起きの顔がとてもいい』というから、ある人の局へ行ってのぞき見をして、もしかしたらあなたの顔もみられるかもしれないと来てみたのです。まだ主上様がおいでになっているときからここに居たのに、ちっともお気づきになりませんでしたね」

 その後、行成様は平気で局のすだれをおくぐりになられるようになりました。




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