第21話  承香殿 (しょうきょうでん) ~中宮の出産~


 それから間もなくの十月半ば。中宮様の母君貴子きし様がこの世を去られました。父君道隆様がお亡くなりになってから一年半の間に、兄君伊周これちか様と弟君隆家様が遠国へ行かれ、母君まで失われた中宮様。それでも少しもお取り乱しになることはございませんでした。播磨にお留めおきになっていらっしゃった伊周様が、貴子様に今一目会いたいと、ひそかに入京されたのが密告により露見し、本当に大宰府へ行かれることとなったのは重ねて痛ましい出来事でした。私は、ご兄弟君の左遷の命が下って中宮様が御髪をお下ろしになったと聞いたとき、もうこれ以上のお悲しみやお苦しみは有りはしまいと涙も枯れたつもりでした。なのに、ほんとうに人の涙というものは清水のように湧いてくるのですね。私は、涙の止まっている間に草子を書いているようでもございました。

 中宮様は、ご自分と主上うえ様にお誓いあそばしているのでしょう。どのような事が起きようとも、良い御子を安らかに産みまいらそう、とそれだけを。中宮様のご決意や精一杯の明るいお振る舞いを思いながら筆を執っていると、自然とおもしろいことや風流な事だけが、まるで中宮様のご意志であるかのように草子となっていくのです。そして、ふと気づかされるのでした。「あはれ」も「おかし」も別のところにあるのではない、ひとつながらのことであることを。

 中宮様は、けっして誰にもお負けになりますまい。道長様にも主上様の他の女御にょうごにも、ご自身にも。私にとって中宮様はもう御仏に近い存在なのでした。

 十一月半ば、藤原顕光ふじわらのあきみつ様の姫君、元子げんし様が承香殿しょうきょうでんの女御として入内じゅだいなさいました。もう、主上様のご意思ではどうにもならないこともあるのでしょう。道長様は、恐れていらっしゃるかのようでした。中宮様に男御子がお生まれになることを。

 翌月十二月十六日、幾度もの修羅場をくぐり抜けながら産声をお上げになったのは、美しい女御子様でした。脩子しゅうし様と名付けられた御子様は、長かった冬を背負ってお生まれになり、母君になられた中宮様に春をもたらしあそばしたのでございました。

 年の明けた長徳三年四月のはじめ、伊周様、隆家様は罪を解かれ京へお戻りになることが決まりました。それから間もなく、中宮様はご出家の身にも関わらず主上様のたってのご催促で、宮廷に再びお入りあそばすことになったのです。

 中宮様に、脩子様ご誕生のおよろこびを申し上げた私の手紙のお返事には、こうございました。

「宮が生まれてから、多くのことがわかるようになりました。そなたには、そなたのするべきこともあるでしょう」

 中宮様の気高さ、お心ばえをすばらしいと思いながら、ひと安心もし、また寂しくも思ったことでありました。

 中宮様のお手紙と同じころ、私は式部のおもとから意外な手紙をもらいました。おもとには居場所を知らせていないため、経房つねふさ君に手渡されたのでした。それは長い手紙でございました。宮中から人づてに聞いた誰かれの噂話をひとしきり並べたあと、私の出仕を強く促したものだったのです。

「・・・先ごろ入内あそばした承香殿の女御元子様は、あの美男と名高い重家さまの妹君ですよ。もちろん、お見かけしたわけではありませんが、美しさは今の内裏では並ぶ女人がいないのですって。主上様も、弘徽殿こきでんの女御へはあまりお渡りがないようだけれども、承香殿の女御に対してはちがうようだとか、うるさいようにこの辺りでも噂するものがいるのです。脩子しゅうし様がお生まれになってから、これまでにも増して主上様から帰内きだいのお勧めがあるので、中宮様もお考えのご様子。内裏だいりに戻ったら、私たちは雅さであちらの後宮を抑えようとはりきっているけれど、そこにあなたの姿がないのは、なんとも物足りなく寂しい気がします。早く戻っていらっしゃい。物わかりの悪い女房は、私がとりなしましょう。  清少納言様へ    御父君の縁より」

 中宮様は他の女御方とお比べ申し上げるべくもないのです。ましてや、中宮様ご自身は他の方と競い合うだの、思いもおかけになりますまい。前代にも類の無いような雅な後宮をおつくりになったのも、他ならぬ中宮様。私たち女房ではないのです。式部のおもとの手紙には、少々呆れさせられてしまいましたが、もう一つ私を呆れさせたのは、おもとが父の縁と書いたことでした。私は父元輔の五十九歳の時の子ですから、私とひと回りも歳の変わらぬおもとは父と五十近くも歳が離れていたはずです。私は驚きを超えて、おかしくなってしまいました。和歌寄人として、梨壺の五人と呼ばれたわりにはちっとも官位の上がらなかった父。それでもいつも冗談ばかり言っていて、八十三の歳まで肥後の国の守を務めて死んだ父。私の興味の向くままに、学問というものを教えてくれたのも父でした。そんな父に、若々しく華やげる時代があったのかと思うと、うれしくて涙が出て、おもとに感謝したいくらいでした。この頃の私は、全ての感覚が心ひとつに集中しているような涙もろさでした。


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