第20話  明順邸 ~中宮様想う~


 私は里に下がったまま、夏を迎えました。六月、二条邸が火事になり、中宮様は叔父君、明順あきのぶ様のお邸へお移りあそばしたとのこと。なぜこんなにも嫌なことが続くのでしょうか。七月に藤原公季ふじわらのきんすえ様の姫君、義子ぎし様が弘徽殿こきでん女御にょうごとして入内じゅだいなさったのは、その日、左大臣におなりになった道長様のさしがねに違いありません。

 中宮様は今頃どうしておいででしょうか。

 ちょっとした物忌ものいみでも、お側を離れるとお手紙をくださっていた中宮様が思い出されます。

 宮仕えを始めて一年くらい経った三月のことです。物忌みのために人の家へ行ったところ、すぐに所在なくなってしまい、今すぐにでも参上したいと思っていたちょうどその時、中宮様がお手紙をくださったのでした。浅緑色の紙に宰相の君の手で美しい文字が書かれていました。


 いかにして過ぎにし方を過ごしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな


 そして宰相の君のお言葉として、「私も今日一日がすでに千年を過ごす気持ちがするので、この明け方には早くに参内なさるように」と添えてありました。宰相の君の仰っていることさえしみじみとしているのに、まして中宮様の「いったいどのようにして過去の月日を過ごしてきたのであったろうか。あなたがいない一日一日を暮らすのは難しいことよ」という仰せ言にはどのようにお返事をしたものでしょうか。私も歌は好きではあるのですが自分が詠むとなると得意なのとは違っているのです。実は、あまり則光のことを言えないのです。


 雲の上も暮らしかねける春の日を所がらともながめけるかな


 明け方に参上したところ中宮様はすぐにお起きあそばして、早速返歌について仰せになりました。

「きのうの返歌の『暮らしかねける』はよくない。ひどい。皆がひどく悪口を言っていたわよ」

 ほんとうに、ごもっともな事だと情けない限りです。余興で詠む歌はともかく、本格的な歌は悩むばかりです。

 またあの華やかだった積善寺供養の数日前、里に下がった時にも中宮様は「もう少し居てから下がってはどうか」とおっしゃったのを退出してしまったのですが、すぐにお手紙をくださいました。

「花の心ひらけたりや。いかが言ふ」

 これは白氏文集の句が用いられていて、「私のことを思って、春の日長に寂しい思いをしているでしょう。どう返事をするかしら」と仰せになっているのです。

「秋はこのようにまだ先のことでございますけれど、お手紙をいただいて魂は一晩に九度も御前に上る心地がいたしております」

 前回、歌を詠んで失敗しておりますので、そのまま書いたものだけでお返事申し上げました。

 積善寺供養のことで内裏から二条邸へ赴いたときも、中宮様はなかなか人に押されて乗り込めなかった私の到着を待ちわびておいでになり、順番通り乗せなかった係の役人にお腹立ちでした。我勝ちにと乗った女房たちへ珍しくもご説教あそばしました。

「早く乗って来るのがえらいというのでもない。規定通りにしてこそ、品位があるというものであろう」

 中宮様は、自分のことしか考えないような態度をお嫌いになるのでした。 


 私が思う、にくらしい人の態度とは、急用のあるときにやってきて長話をする客とか、話などをする時にでしゃばって一人話の先回りをするのとか、人をうらやましがり自分の身の上の愚痴を言ったりするのとか、こっそり忍んで来る人に向かってほえる犬。あ、これは犬の態度でございますね。生き物といえば、眠たいと思って横になっているときに蚊が顔の近くを飛び回って、小さいながらも羽風まで送ってくるのは叩き打ちにしたいけれども、夜などは闇にまぎれていっそうにくらしく思えます。

 そのようなことを思いつくままに紙に書きためては草子にして、季節はいつしか秋になっておりました。庭の薄の上などに張りめぐらしてある蜘蛛の巣がまだ残っていて、雨のしずくを玉のように貫き通してあるのは、しみじみと心にしみる風景です。

(夜露が中宮様のお身体に障りなどしませぬように。今さら、夜露などに負けられるような中宮様でもございませんでしょうか。幾度もの修羅場を中宮様とともにくぐり抜けた御子様はきっと、強く賢くお生きあそばしますよ)

 宮中を飛び出すように退出してしまった私は、戻るきっかけをなかなかつかめずにいたのでした。退出すればしたで、やはり左大臣道長側についているのだということになっているようです。中宮様のことは気になりながらも、女房たちの顔を見るのがいやで、宮仕えにうんざりしていたのでございます。

 こおろぎが、かすかに鳴いている九月末のころ、経房つねふさ君がお話しにいらっしゃいました。

「きょうは、中宮様のいらっしゃるお邸に参上したところ、たいへんしんみりとした感じを受けました。女房の衣装は、裳や唐衣などが季節に合っていて、ゆるんだ様子もなくきちんとした様子で伺候していましたよ。御簾の端からのぞき込んだところ、十人ほど座って、黄朽葉きくちば唐衣からぎぬ、薄紫の、紫苑や萩などを身に着け、けっこうな様子で並んで座っていらっしゃいました。中宮様の御前の草がとても高く茂っていたので、『どうしてこんなに茂っているのに、かき払わせないのですか』とおたずねしたところ、『露を置かせてご覧あそばそうと、わざわざそうさせていらっしゃるのですよ』とは、宰相の君のお声でした。なるほど、と感じ入りましたよ。女房たちが口々に言うのはあなたのことばかりでした。『あの方のお里住まいはたいそう情けないことですよ。こうした所にお住みになっているようなときには、どうしたことがあってもお側にいらっしゃるものと中宮様は思っていらっしゃったのに、その甲斐もなく』などと。それを私に言うのは、あなたに話してお聞かせ申し上げよ、ということなのでしょう。参上して、ご様子をご覧になるのもよいものですよ。露台に置かれた牡丹なども本当に風情のあることといったら・・・」

 それ以上言われてもつらくなるばかりで、私はとぼけた調子でお答えしました。

「さあ、どうでしょうか。皆さんが私のことをにくらしいと思って言われることを、私の方こそ聞きたくないと思ったのですから」

「そのように、おっとりと仰ることよ」

 経房君は笑いながら帰っていかれました。その夜を私はあまり眠れないままに過ごし、明け方近く外へ出てみると、あるかないかの心細げな姿の月が山の端辺りにありました。

 それから数日が経ったころ、すばらしい紙を二十包みにしたものが中宮様から届けられました。

「『枕草子』はいかに」

 という仰せ事が添えられてあります。宰相の君の私信として、「これはお聞きおきあそばした事があったので下さるのです。『あまり上等ではないので、寿命経も書けないでしょうけど』と中宮様は仰せのようです」と書いてあるのがやはりおもしろく思われます。

 私は以前中宮様の御前で申し上げたことがあったのでした。中宮様や女房たちと紙の品評をしていたついででした。

「世の中がわずらわしくて生きているのもいやになって、もうどこにでもいいから行って隠れてしまいたいと思うような時、普通の紙のとても白いのや上等の筆などを手に入れてしまうと、やはりもう少し生きていようという気になります。また、高麗縁の畳のむしろが青くてこまかに編んであって、へりの紋がくっきりと見えているようなのを目にすると、世を捨てることなどできそうにないと命までもが惜しくなります」

「ちょっとしたことで気が紛れるのね。そんなことなら、姥捨山の月はいったいどういう人がみるのかしらね」

 中宮様がお笑いあそばされました。

「お手軽な息災の祈りだこと」

 伺候していた女房たちも笑ったことでした。

 この度の白い紙の束はそのことのようです。


 かけまくもかしこき神のしるしには鶴のよはひになりぬべきかな


 本当に、この紙を草子に作っていると気がまぎれて嫌なことは忘れてしまいそうです。

 また、それから二日ほど経ったころ、風変りな男が「これを」と畳を置いていきました。下仕えの者がじろじろと見たせいか、男は送り主も告げず帰ってしまいました。取り入れて見ると、特別に御座という畳のようにしつらえてあって高麗縁こうらいべりなどがきれいです。文などはなく、先ほどの男をすぐに探させますがすっかり消え失せてしまっているのでした。心の中では中宮様からではないかと推測いたしますが、万一違っていたらきまりが悪いので、ひそかに人に問いただしてみました。

「ひた隠しになさったことなのです。私が申し上げたとはけっして言わないでくださいね」

 やはり思った通りでございました。おかしさとおもしろさで、胸がいっぱいになりました。

「すばらしい御座に座っておりますと高麗の方角にあるという浄土へ、今すぐ舞い上がってしまいそうでございます。鶴の姿となって」

 先日お送り申し上げた歌の続きとしてお手紙を書きました。

「誰にも見つからないように、これを中宮様の御前の高欄に置いていらっしゃい」

 よく言い含めて渡したのに、使いの者が落としてしまい、御階みはしの下にあるのを後で誰かが見つけたのでした。

 中宮様のお心遣いは言うまでもなく、宰相の君がこういう時にこそ皆を束ねて引き締めている様子を思い浮かべていると、かたくなな自分が小さく見えてくるのでした。

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