第19話  二条邸 ~長徳の変~


 則光や経房君から聞いていた伊周これちか様、隆家様のご処遇はあまりにもお痛わしいものでした。道長様は甥君たちを完全に政権から遠ざけておしまいになるおつもりでしょうか。そうとしか考えられないようななさりようでした。私が里へ退出した後、中宮様はご懐妊にお気づきになられ、二条邸へ遷御あそばしましたそうです。異変が起こったのは長徳二年四月二十四日の明け方でした。武装した検非違使けびいしが邸を取り囲み、中に押し入ってお二人を捕らえられたというのです。そのとき、身重の中宮様は伊周様の手をしっかりと握りしめていらっしゃったとか。どんなにか、つらく恐ろしくていらっしゃったことでしょう。母君貴子きし様はもちろんのこと、女房たちはなす術もなく泣き叫ぶばかりだったと。

 私は、中宮様のお身体を案じました。ただでさえ異常な出来事は、肉体をも精神を蝕むことがあるのに、ましてや普通ではないお身体なのです。伊周様、隆家様は一月に花山院に弓を引いたことを後悔してもしきれない思いでいらっしゃったにちがいありません。ですが、私は思いました。これほどまでに道長様が酷い仕打ちをなさるのは、伊周様や隆家様を恐れていらっしゃったからではないかと。いえ、一番には中宮様を帝であられる主上様から遠ざけたかったのではないかと。中宮様は取り乱さないよう気力を振り絞って、微動だにせず伊周様の眼を見つめていらっしゃったとか。弟君隆家様の方が潔く思い切られて先にご出立なさったということでした。中宮様の初めてのご懐妊とご兄弟の配流という、幸いと不幸が同時にやってきたようなただ中で、私は中宮様のお側についていることができなかったのでした。中宮様のご胸中を思いながらも、周囲の私に対する誤解が自然と解けるまでは、このまま遠くでお祈り申し上げるしかないのでございました。

 伊周様が内大臣から大宰権帥だざいのごんのそちへ、隆家様が中納言から出雲権守いずものごんのかみへという左遷のご処遇。あのお二人がもう京にいらっしゃらないことなど、信じられない気持ちです。伊周様は二十三歳でいらっしゃいます。花盛りの貴公子からこのような身になられるとは全く想像も及ばないことでした。

 私は世間に非難を受けようとも私の知っている伊周様を草子の中で描こう。そう心に決めて文机ふづくえに向かいました。


 伊周様が大納言でおありになった頃、主上うえ様に漢詩文をお教えに参上なさいました。ご講義やお話は夜更けまで続いたので、一人、二人といつの間にか皆隠れて寝てしまいました。私は眠いのを我慢して伺候しておりますと「丑四つ」と時刻を奏上するようです。

「夜が明けてしまったようでございます」

 口に出して言ってしまったのを、伊周様はお聞きになっておしまいでした。

「今更、お寝みになるのですか」

 寝るべきものとも思っていらっしゃいらないのに、つまらないことを言ってしまったと思いました。お相手の主上様は柱に寄りかかって、少しお眠りあそばしていらっしゃいます。伊周様は中宮様にそっと耳打ちなさいます。

「あちらをお見申しあげなさいませ。もう夜は明けてしまったのに、あんなに御寝あそばしてよいものでしょうか」

「いかにも」

 中宮様は優しいまなざしで、可愛い弟君をご覧になるかのように主上様をご覧になってお笑いあそばします。主上様が何も知らずに眠り続けておいでになると、突然けたたましい鳴き声を上げながら鶏が闖入してきました。童女が里に持っていこうとつかまえて隠しておいたのを、犬が見つけて追いかけてきたのでした。恐ろしい声で鳴き騒ぐので、皆起きてしまいました。主上様もお目をお覚ましになって、

「どうしたことか」とおたずねになります。

「声明王のねぶりをおどろかす」

 即座に伊周様が高らかに吟誦なさいます。「鶏人、暁ニ唱フ、声明王の眠リヲ驚カス」というものでしょうが、、まさにこの場にぴったりの漢詩の朗詠です。あまりにすばらしいので、私の目がぱっちりと開いてしまいました。中宮様も、興じあそばされます。

 次の日、夜中ごろに退出しようとして人を呼ぶと、伊周様がおっしゃいました。

「退出するのか。私が送ろう」

 もったいないことにも、私を月の光の下、局まで連れていってくださいました。

「転ぶなよ」

 緊張して歩く私の袖に手を添えて、道すがら吟誦なさいます。

遊子ゆうしなほ残りの月に行くは」

 月の夜に、並みならぬ高貴なお方と並んで歩き、そのお方の風流な様子を今自分だけが見ていると思うと感激で声もうわずります。

「大納言様は折に触れ詩がいつも即座に浮かんでいらっしゃるのですね。すばらしゅうございます」

「このようなことを大さわぎして感心するのだね」

 伊周様のお言葉の一つ一つは、いつまでもやわらかく私の胸に染みているのです。

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