第16話  里籠り (さとごもり) ~遠くて近いもの~


 里へ下がっても、いつも人がひっきりなしに訪ねてきたり、文を送ってきたりしますので、今回は住まいを替え、居場所を知らせたのは経房君と済政なりまさ君、それに元の夫則光のりみつだけでございました。今回の宿下がりは、女房たちからの仲間外れがきっかけではありましたが、中宮様に申し上げたように草子の執筆が目的でもありました。それにもう一つ、斉信様のお気持ちを知ったということも大きな理由の一つでした。幾つかの事が重なり、少し長くなりそうな里籠りでした。

殿上人が訪ねてくるのもまた噂になりかねないので、三人には、「私の居るところを他言しないでください。『私も知りません』とお答えしていればそれ以上聞かれることもないでしょう」とお約束していただきました。経房君と済政君は源氏、則光は橘氏で藤原氏のいざこざには巻き込まれない立場です。ようやく、私は一人静かに『枕草子』に向き合うことができました。

 改めて冷静に考えをめぐらしてみると、女房たちの鋭い視線は中宮様へのご忠誠心だけでなく、様々な感情も入り交じっているようでした。

 斉信様のお涙を見て中宮様へのお気持ちを察してからは、男女の仲といえなくもないような曖昧で心地の良い感情はしまいこんでしまいました。中宮様の謹慎中の身の上を思うと、私事の色恋などしている場合ではございません。斉信様とは、あの花山院不敬事件の夜以来、極力お顔を合わせないようにしておりました。

 あれからひと月あまり経った、二月二十五日のこと。中宮様が職の御曹司へお移りになるお供をせず、梅壺に残っていると、そこへ斉信様からのお手紙の使者が参りました。

「きのうの夜、鞍馬へ参詣していたが、今晩方角が塞がるので方違かたたがえによそへ行く。夜が明ける前には今日に帰り着くだろう。ぜひ話したいことがあるから、あまり局の戸をたたかせないで待っていてほしい」

 参詣の目的は中宮様を案じてのことなのだろうか、話があるというのは常套手段なのだろうか、とあれこれ思い煩っていると、今度は中宮様の末の妹君、御匣殿みくしげどのの使者が参りました。私をお召しだということで、今はそちらに従うまでと参上してしまいました。そちらで日が高く昇るまで寝ていて局に戻ると、下仕えの女が私に申しました。

「昨夜、どなたかがひどく局の戸を叩いていらっしゃいました。やっと目覚めて起きましたところ、『上においでか。ならば、これこれとお伝えせよ』とおっしゃいましたが、『もう、お起きにはなりますまい』とお断りして寝てしまいました」

 当人は気をきかしたつもりなのかも知れませんが、相手の名も聞かずに粗末なあしらいをしたことよ、と思って聞いているうちに、斉信様の使いの主殿司とのもづかさが来て言上いたします。

「頭中将が申し上げられます。『今すぐ退出するのだが申し上げたい事がある』とのことです」

 局では、戸をお引きあけになるかもしれないと、また胸がどきどきして面倒なので、梅壺の東に面した半蔀はじとみを上げて「こちらに」とお呼びします。斉信様は、桜のきよらかな直衣のうしに、葡萄色の地に豪華な藤模様が入った指貫さしぬき、色重ねした下着をたいへんすばらしく着こなしていらっしゃいました。狭い簀子すのこに腰掛けられて、上半身を簾の元に寄せながら片手で軽く柱におつかまりになっていらっしゃるご様子など、物語から抜け出て来たかと思わせるようなお姿でした。梅が少し散りかけているとはいっても紅白に咲き、うらうらと日の光がのどかな様子までも似つかわしくて、誰かに見せたいくらいです。それにひきかえ、私は道隆様の喪中なので鈍色にびいろの冴えないうちぎ姿の古びた女。せっかくの雰囲気を打ち壊しているようなものです。

「やあ、鞍馬の道はおもしろかったよ。つづら折の道は近く見えるところでもなかなか上までたどり着かないものだったな。木の根が幾重にも段を作っている道は、貴方にもお見せしたかったよ」

「そのお気持ちとお話を伺っただけで、すっかり見てしまったのと同じことですわ」

「確かに、あなたの想像力は千里眼より勝っているだろうね」

 斉信様は明るくお笑いになった後、声をひそめられました。

「話というのは、今の政権についてだ。いや、あなたにまつりごとのことをあれこれお話する気はない。ただ、言っておきたいのは、昨年の五月、道長に天下執政の宣旨が降りたのは、女院詮子せんし様の帝へのご嘆願があったためだ。帝はそのことでは随分お苦しみになった。今度の事件でもひどく頭を痛めておいでだよ。すべて中宮を思ってのこと。帝の中宮へのご情愛は、たとえ道長であろうとも崩せない。道長は、そのことをひどく恐れてもいるのだ。このようなことは、男が口にすべきでもないこと。中宮には、あなたからよく申し上げて、あまり深くご憂慮なさらぬようにお支えなさいませ。

 私は今から職の御曹司しきのみぞうしに行くが、何か伝言はないか。中宮はあなたを待っているであろうよ。いつ参上するのか」

 斉信様の真剣だった面持ちが少し和らいでまいりました。

「それにしても、昨日はあんなに言っておいたのに。ちゃんと待っていてくれているだろうと、月のすばらしい頃急いで帰ってきたのに、ひどく戸を叩いてしまったよ。出てきた女は少しも融通がきかないようだったが、どうしてあんな者を置いているのか。まったくばつが悪かったよ」

 お笑いになるのを見て、ほんとうにそうであっただろうと、申し訳なくも、なんとなくおかしくもありました。

 日が暮れて、斉信様も職の御曹司を退出された頃だろうと思い、私は参上いたしました。中宮様の御前には女房たちが大勢集まっていて物語のよしあしや登場人物の品定めを言い合っているのでした。

 私を見つけた女房の一人が言います。

「何をおいても、仲忠とすずしのどちらが優れているかお答えなさいませ。中宮様は、仲忠の生い立ちを良くないと強調あそばすのですよ」

「涼は、琴の音が天人を下界に降りてこさせるほどに弾いただけのことです。仲忠のように、帝の御むすめを手に入れてはおりません」

 私がすぐに答えますと、味方を得たと思った女房は中宮様に得意気に向き直ります。

「少納言の、仲忠びいきは今に始まったことではありませんよ。それより、斉信が参上していたのを、もしそなたが見たのだったら、それこそどんなにすばらしがって大さわぎしたかしらね」

 中宮様が私の方を見ておっしゃいました。女房たちも、皆口々に「非の打ちどころもなくすばらしかった」と言います。

「そうでした。何より先にそのことをこそ申し上げようと思って参上いたしましたのに、物語のことに紛れて忘れておりました」

 私がさきほど見た斉信様のご様子を細やかに申し上げますと、

「誰もかも見たけれども、こんなに縫ってある糸や針目までも見通してしまった者はいなかった」

 中宮様はお笑いあそばしました。

 女房の誰かが、

「宰相の君の受け応えを、斉信様が風流だとたいそうおほめになって、それにあった詩句を吟誦なさいました」

 とうるさいほどに言うのもおもしろく感じられました。

 中宮様の穏やかなご様子をお見上げしながら私は安心し、斉信様のご心配の事も払拭されていたのです。自分と斉信様との噂に気づかないでいた私も悪かったのでございます。中宮様や斉信様のような高貴なお方にこれほどまでに目をかけていただいている私は、他の人々には厄介な存在なのかもしれません。もしかすると女院詮子様も、中宮様が主上様のお心を独り占めなさっているのがお寂しいのかもしれません。

 私は墨をすり終えると筆をとりました。


 近くて遠きもの。情のないきょうだいや親族の仲。鞍馬のつづらおりという道。大晦日と元日と。


 遠くて近きもの。極楽。舟の道中。男女の仲。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る