第15話 花山院 ~道長の罠~
道隆様がお亡くなりになった後、関白をお継ぎになるのは
伊周様が呆然としておいでの中、猛威をふるっていた疫病に道兼様がお倒れになり、わずか七日間の関白職在任で、あっけなくお亡くなりになってしまいました。ですが、風向きはもうすっかり変わってしまったごとく、伊周様が関白職にお就きになることはなかったのです。その風向きを変えたのは主上様の母君、中宮様にとっては御姑となられる女院、
けれど、中宮様はそうなってからはかえって元通りにお振る舞いでした。この辛い状況を静かに受け入れ、今まで以上に主上様を頼みとしていらっしゃるようにお見受けいたしました。中宮様ご一族の家長とおなりになった伊周様はなにぶんまだ二十一歳。経験やしたたかさで、道長様と差があるのは無理もございますまい。事実、伊周様はそれ以降、若さゆえの大人げないふるまいがもとで自滅の坂を滑っていかれるかのように見えました。
いったい、伊周様や隆家様が女人のことで花山院に弓を引くとは、常軌を逸しているとしかいいようがありますまい。ご兄弟の失態はすぐにお身内の中宮様にも及びますものを。
事の起こりは、人違いによるものでした。伊周様はご自分の通っていらっしゃる姫のところへ、花山院が通われているとお聞きになってがまんができないことだとお思いになってしまったのです。それまでの伊周様ならば、それほどご執着にはおなりにならなかったでしょう。権力を失くし、その失意を癒してくれる人まで奪われるのかとお思いになったのではないでしょうか。
伊周様が弟君隆家様にそのことをお話になると、隆家様は家来に命じて花山院を弓で脅かしなさったのです。それが、運悪く花山院のお袖を矢が射てしまったのです。お二人は謹慎の御身となられ、中宮様は内裏におとどまりになることはありませんでした。実際は、花山院が通っていらっしゃったのは、伊周様の通われる女君の妹君だったとのこと。これは私の憶測にすぎませんが、今にしてみればこの不敬事件には策略を感じずにはいられません。伊周様は女君に妹君がいらっしゃることをご存知なかったのでは。仕組まれた罠だったとしたら。お二人の姫君は、花山院がご寵愛なさるも先立たれた衹子(きし)様の妹君たち。花山院と妹君をお引き合わせする者があって、そのことを伊周様に告げ口したならば…。伊周様はきっとそういうこともあるだろうとお思いでしょうが、姫君が二人いらっしゃることをご存知であれば、お確かめになることくらいはなさったのではないでしょうか。
この事件の起こった一月十六日の夜、梅壺の局に下がっていると頭中将斉信様が戸をおたたきになりました。ひどく心細い夜で物音にも敏感に反応してしまうのですけれど、叩き方で斉信様だとわかり、戸を開けました。斉信様のお顔が月にほの白く照らされたかと思うと、突然私の袖をお捕まえになり取りすがるようにして、お泣きになるではありませんか。
「どうなさったのですか」
最初わけがわかりませんでした。
「なぜ、内大臣をお止めできなかったのか」
まるで、ご自分を責めていらっしゃるかのようです。
「伊周様のことをおっしゃっているのですね」
確かに斉信様は、かのお二人の姉妹の兄君でいらっしゃいます。ですが、そこまで伊周様のことをおっしゃるのは意外な気がいたしました。
「私がもっと早く気がついていれば、このような出来事を起こさせはしなかったものを」
「まだ、伊周様、隆家様のご処遇が決まったわけではございません。あまりにお憂いになるのは縁起の良いことではありませんよ」
「中宮に申しわけない」
ああ、そうだったのだ。私は斉信様が慕っているお相手が本当は中宮様なのだとお胸の
不思議なことに、私の心は凪いでおりました。私にとっても中宮様は一番大切なお方です。斉信様に対し、かえって同志にも似た強い感情が新たに湧いてきたのです。私は自分の気持ちを静かに見つめておりました。中宮様がただ定子様でいらっしゃったならば、決して不釣り合いではない当代一の貴公子、斉信様。その夜、私は身分不相応であった斉信様との逢瀬のまねごとを、夢の中でのこととして閉じ込めてしまうことにいたしました。
女房たちの噂話が激しくなっていったのは、中宮様を取り囲む雰囲気がもの暗くなってきて不安が鬱積していくためでしょうか。私が道長派であるというとんでもない噂が流れたのです。今まで私が参上すると皆集まってきて話の相手をさせたがるようであったのが、急によそよそしい態度で話を変えたりするようなのです。式部のおもとにどうしたのかと聞いても「気のせいではないか」ときまり悪げにするだけです。斉信様と親しくおつきあいをしている私が、あれこれ情報を流しているという噂がある、というのを教えてくれたのは経房君でした。斉信様と道長様が従兄弟同士だという、ただそれだけの理由です。斉信様の本当のお気持ちなど、ひとは知る由もありません。ですが、こればかりは話すわけにもまいりませんし、私はただただ情けなくて弁解する気もおきず、宿下がりすることを心に決めました。
みちながき旅ぞと人の言ふなれど傘持たじとて今は
「濡れ衣でございますから」という歌を宰相の君に託して、退出いたしました。
中宮様にはご挨拶だけ申し上げれば、全てをご存知のこととわかっていた、と言うのは私の驕りと人に笑われてしまいましょうか。
「どうしても退出するのか」
お顔がよく見えなかったのはかえって幸いでした。
「こちらでは、人の気配で草子が思うように書けませんので」
「ならば」
中宮様は、それだけ仰せになりました。
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