第12話 伊勢守 (いせのかみ) ~春はあけぼの~


 私は、宮仕え以前から所在のない折に、ふと日頃思いつくこと、目に見えることを草子に書きしたためておりました。和歌のようでもないので、ひそかに自分の楽しみとして綴っていたのを、宿下がりしているとき伊勢守いせのかみ経房つねふさ君がおいでになって見つけてしまったのでした。なんとしても預からせてほしいといわれますので、仕方なくお渡しいたしました。もともと思いにまかせて書いたものなので順序など気にするつもりはございませんでしたが、そのとき一番はじめになるもの、それだけは思うところがあり、探り出して束の上に置きました。春、夏、秋、と平凡な家の女でいたときに見た、ひとから見れば平凡な風景。そして、宮中で見た新しい冬の世界を。


春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。


 それが草子のはじまりとなりました。

 経房君がお持ちになってから、草子は長い間返ってまいりませんでしたが、その間に多くの人が写本をなさっていたとのことです。木について、花について、草について、鳥、虫、日、月、星、雲…。ほんとうにとりとめのないことですのに、皆がおもしろがるのも非難の的としてかしら、などと胸が苦しくなってまいります。

 経房君は、醍醐帝のご子孫でいらっしゃいます。お父君源高明みなもとのたかあき様は謀反の罪に問われ、不運な境遇でいらっしゃったにも関わらず、経房君は明るいご性質で人の気持ちの奥深さをお悟りになる風流なお方でした。本来なら高貴なご身分のお方なのですが、私はこのお方といるときは、身構えたりもせずいつも楽な気持ちでいられるのでした。それからも折々によく私をお訪ねになっては草子についてあれこれとお話しになりました。もっともこの頃はまだ、宮中でのできごとや中宮様のことについては記しておりませんでしたが。

 年号が正暦から長徳に改められた春、伊周様が中宮様にたくさんの料紙りょうしを綴じた草子を献上なさりにいらっしゃいました。中宮様は真っさらな草子を私にお見せくださいました。

「これに何を書いたらいいかしら。主上様は、『史記』という書物を一部お書きになったのだけれど。『古今集』でも書こうかしら」

 こんなに美しい料紙を見ると、あれこれ書きたいことを思いつきそうな気がして、胸が高鳴ります。

「私ならば枕にいたしましょう」

「しきたへの」に掛けて、いつもの調子で口に出るまま申し上げたところ、中宮様は思いがけないことをお言いつけになりました。

「では、あなたにあげましょう。『枕草子』をお書きなさい。経房から聞きましたよ。たくさん書いて、私に見せてちょうだい」

 私は局へ下がると、いただいた草子を抱いて泣きました。宮仕えのこと、実方君との別れのこと、残してきた息子のこと、どこかにせきとめていた感情が、一度に流れ出ていくような気がしました。それと同時に中宮様のお側にいられる仕合わせは、何ものにも引き替えることのできない喜びであったとわかったのです。

 枕よりまた知る人もなき恋を 涙せきあへず もらしつるかな

平貞文の詠んだ歌は、この枕のことだったのでしょうか。

(そうだ、中宮様のことをお書きしよう。そして、中宮様を取り囲むこの後宮のすばらしさを)

 そう私は決めました。宮仕えする人を、世間では軽薄だなどとも言うようです。けれど、それはちがいます。素晴らしい人々の傍にいて、軽薄でいることがどうしてできましょう。軽薄だった人でさえも奥ゆかしくなるというものでしょう。

 早速、私はそのことなども『枕草子』に書き記そうと筆をとるのでした。



※しきたへの枕…『枕草子』書名の由来は諸説ある。「しきたへの」は「枕」にか         かる枕詞。『史記』(敷き)から発想して出た言葉とする。



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