第11話  淑景舎 (しげいさ) ~翳り~


 清涼殿にお越しになっていた道隆様が黒戸からお帰りあそばすとのことで、女房たちは廊下から戸口まで隙間なく並んで伺候しておりました。戸口からお出でになられる際には、大納言伊周様が道隆様の御沓おくつを取ってお履かせになります。そこから、登華殿とうかでんまでずらりと公達きんだちが並んでおいでの中に、道長様のお姿もございました。道長様は道隆様お弟君ですのでお立ちになったままでいらっしゃるだろうと思っていると道隆様がお進みになってこられたところで、すっとおひざまずきになったのです。やはり、関白様の前世からのご果報なのであろうとお見申し上げます。私の隣を見やると、中納言の君が数珠じゅずを持っておりました。

「その数珠をお貸しくださいませ。私も関白様を拝み申し上げてあやかりたいものです」

 私が言うと、皆が笑いながら、「私も、私も」と集まって参りました。中納言の君は顔を上げて、「身内の忌日だから数珠をもっているのですよ」という意味の歌をすばやく詠まれたので場がしらけてしまいました。

勤行ごんぎょうをして仏になろうこそ、関白よりは勝るでしょう」

 中宮様がとりなすように微笑んでおっしゃると、今度は中宮様が素晴らしく思えるのでした。

 私はかねてより道長様を「並々ならぬ資質をお隠しの方」などとおこがましくも評価し申し上げているので、この時のことを見逃すわけもございません。

「あの道長様が、関白様にお膝をおつきになっていらっしゃいますよ。あの道長様が」

 中宮様に興奮気味にお話すると、

「あなたのご贔屓ひいきさんだものね、よく見ていること」

 とお笑いあそばしました。

 中宮様がもし、その後の道長様のご栄華をご覧になることができたならば、私が申し上げたことも、なるほどだとお思いになったことでしょう。中宮様を踏みつけての、道長様のご栄華。中宮様や私が、悲しくもやがて感じ取ってしまった時の流れ。ただそこに立ち尽くして、抗えない運命を甘受するしか術がなかった日々。

 その始まりというのは、本当に御仏になっておしまいになった、道隆様の四十二歳という早過ぎるご逝去からでした。

 たった二か月前のあの日まで、いつものように女房たちを笑い転げさせていらっしゃったお方。死の気配などまるで感じさせずに、ご家族の前で明るく楽しげにお振る舞いでしたのに。

 それは、長徳元年の正月十九日、中宮様の妹君、淑景舎しげいさとお呼び申し上げる原子様が、東宮の妃として入内なさったときのこと。ご姉妹の間でお手紙のやりとりは頻繁にあるものの、ようやくご対面あそばしたのは二月十日でございました。女房たちは、淑景舎様をお迎えするためお部屋を入念に磨き上げて待機しておりました。私は、中宮様の御身支度をお手伝い申し上げておりました。

「あなたは淑景舎をお見上げしたことはあるの」

 御髪を梳っている私におたずねあそばします。

「まだどうしてそのような機会がございましょう。昨年の積善寺供養の日にお後ろ姿をちらりと拝見しただけです」

「ならば私の後ろで、ほら、そこの柱と屏風との間に寄ってご覧なさい。とてもかわいい方よ」

 私は有頂天になり、その時が楽しみでなりません。中宮様はお召し物のことで、

「私の歳では紅梅はもうふさわしくないのだけれど、萌黄色はどうも好きではないし」

 と仰せになっていらっしゃいますが、今でもお若くてお美しくて申し分がないのに、もうお一方もこのようなのかしらと、早くお見上げしたい気持ちが募ります。

 その時が来て、中宮様のご指示の場所に控えておりました。女房どもはあつかましいことだと思って、中宮様に聞こえるように中傷するのですが、知らぬ顔を決め込んでおりました。おいでになった淑景舎様のご様子は、紅梅の色違いの衣をたくさん重ね着しておいでで、萌黄の表衣を打ちかけていらっしゃるせいか、中宮様とお比べすると年端は変わらないようにお見受けします。ほんとうにお美しくていらっしゃるご様子が、たいへんよく見えます。漂う雰囲気が淑景舎様が絵のようにかわいらしげなご様子であるのに対して、中宮様は落ち着いて少し大人びていらっしゃいます。やはり、中宮様に匹敵する方はいらっしゃらないと、改めて感じるのでした。

 父君道隆様と母君貴子様もお越しになり、お食事が始まると、今まで隔ててあった屏風が取り払われて几帳と御簾だけになってしまいました。

「誰だね。あんな、霞の間から見ているのは」

 道隆様が、几帳からこぼれている私の着物の裾をご覧になっておっしゃいます。

「少納言が、なんとかして拝見したがっているのでしょう」

 中宮様がお答えになります。

「ああ、恥ずかしいこと。あの人は古いおなじみさんだよ。困ったことに、みっともない娘たちを持っていると、きっと思っているだろう」

 そのようにおっしゃるのも得意げでご満足そうでした。

「姫君たちよ、早くお食事をお召しになって、じじ、ばばにせめてお下がりなりともくださいませ」

 などと、一日中ご冗談をおっしゃいます。

 そのうちに、伊周様がご子息の松君まつぎみをお連れになり、隆家様もごいっしょに参上なさいました。道隆様は待ち遠しげに松君をお抱き取りになってお膝の上にお坐らせになっていらっしゃいます。松君もたいへんかわいらしいご様子です。伊周様は、この頃少しお太りになりどっしりとしていらっしゃいますが、少しも鈍い感じがなくすっきりとしていらっしゃり、隆家様はきりりと引き締まったご様子で、どちらもすばらしくていらっしゃいます。このようなお子様方をお持ちとは、お産みになった北の方貴子様はどのようにご幸福なお方であろうとお見上げ申し上げるのでございました。

 内裏からは、主上様の中宮様へのお文や、東宮様の淑景舎様へのお文が先を争うかのように届けられました。中宮様はさっとお返事をお書きになりましたが、淑景舎様はなかなかお書きになりません。

 道隆様は、ご自分がお手紙を頂戴したかのようにそわそわしておいでのご様子です。

「わたしが見ておりますのでお書きにならないのでしょう。そうでない折には、こちらの方からひっきりなしにお手紙なさるということですが」

 道隆様のご冗談に淑景舎様は顔を少し赤くなさってほほえんでいらっしゃいました。才女北の方様がお手伝いなさるのが、余計お恥ずかしそうにお見受けいたしました。

 松君のかわいらしさは、すっかり場を独占なさっておしまいになりました。道隆様は、松君をご覧になっては、中宮様に一日も早く皇子がお生まれになることを待ち望んでおいでのようでした。主上様は中宮様のお返事の後、待ちきれぬというように衣ずれの音をさせてこちらへお渡りになり、中宮様とお二人になられました。その間、お酒好きの道隆様が皆にもおすすめになって、主上様が内裏へお戻りのころには、すっかり座が出来上がっておりました。お戻りになった主上様は、たった今お別れになった中宮様に今宵は清涼殿へ上がるようにとお使いをお寄こしあそばしました。中宮様は「今夜ばかりは」と、ためらいなさいますが、道隆様は主上様の中宮様へのご寵愛にとてもご満足のご様子で、

「早く参上しなさい」

 と、お急き立てになります。また、東宮様からも淑景舎様お供の使者が来て、たいへんさわがしくなります。

「先に、淑景舎の君をあちらへお行かせして、それから私が参りましょう」

 道隆様に中宮様がおっしゃいますと、

「いえ、私から先にはどうしても」

 淑景舎様は「姉上様から」と、お譲りなさいます。

「やはり、あなたをお見送りしてから」

 ご姉妹の心遣いがすばらしく思われます。

「では遠い方からお先に」

 道隆様はどんなにお酔いになっても、お考えはしっかりしておいででした。御自ら淑景舎様をお送りになり、またこちらへお戻りになられました。今度は中宮様のお供を私たちといっしょになさいますと、その間中おどけたことばかりおっしゃいますので、ほろ酔い加減の私たちは笑いすぎて、もう少しで打橋から転げ落ちてしまいそうでした。

 ご一家がお元気でお揃いになり、私たち女房が道隆様のお姿を拝見したのはそれが最後の夜となったのです。


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