第6話  淀の沢 (よどのさわ) ~せつなの恋~

 その夜、局に下がりましてから戸をたたく物音にはっとして出てみますと、実方さねかた君なのでした。昼間に思っていたのが通じたのであろうかと驚いているうちに、さっと御簾みすの中へ入っておいでになってしまいました。

 実方君は、私が宮仕えをはじめてすぐに、何の前ぶれもなく局へ自らおいでになり、あの小白川邸での出来事を懐かし気にお話になりました。その後、すばらしい和歌を何度も何度もいただき、私も心細さからか歳上の実方君を頼みに思うようになり情を通じる仲となってしまいました。もちろん、式部のおもとも知りません。なにしろ、公式な仲ではないのですから。

 この日は、本当に久しぶりの訪れであったのですが、今日の清涼殿でのことなど、中宮様の風流でいらっしゃることをお話した流れで、昨年十一月の五節ごせちへと話が展開していったのです。

「五節の舞で、慣例では舞姫だけが着る青摺あおずりの衣を、かしづきの女房や介添え役の童女わらわめ、下仕えの者にまでお着せになった中宮の御趣向は永く語り草となるだろうね」

 何気なく実方君は言い出されたのでしたが、そういえば憎らしいことがあったことよと、その悪気の無い表情を見ているうちに、なんだか、からかってやりたい気持ちが沸いてきたのです。

「中宮様は、私たちまで驚かそうと、当日まで極秘でご計画なさり、女房の分まであの衣装をお揃えあそばしたのですものね。それにしても青摺の衣の赤紐が解けた介添えの女房を介添えなさったのは、どなた様でしたでしょう」

「いや、何のことかな」

「私、あのとき几帳の中にいたのですよ。とぼけてもだめ。

 あしひきの 山井の水はこほれるを いかなる紐の解くるなるらむ

だったかしら」

 最初に知らぬふりをなさったのが、きまり悪さをおぼえさせられたようでした。

「もう、よいではないか」

 この辺りでやめておいてもよかったのですが、せっかくなので言ってしまおうと調子づいてしまいました。

「当の小弁こべんはのぼせてしまっているし、他の女房も聞き捨てにしているので私が返歌を詠むはめになったのですもの。腹をたてずにいられませんわ。結局誰もうまく取り次げなかったのは、たいした歌でもなかったからかえって良かったのですけれど」

 私は、本当にからかう程度の嫌みのつもりだったのですが、実方君は私が本当に嫉妬心から言っていることとひどく興ざめにお思いになったのでしょうか、

「何であなたと契りを交わしたりしたのだろう。いまさら言ってもしようがないが。今はもう…」

 と、お帰りになってしまいました。私がお返しに詠んだという歌も聞かずに。私があの時、気分を害しながらも知らぬ顔ができなかったのは、実方君の和歌があまりにもあでやかで、趣があったからなのです。返歌もしないなんてそれこそ実方君の興を覚ましてしまうというもの。

(実方君は時折、激情にかられておしまいになるようなところがあるのだわ。もともと藪をつついて蛇をお出しになったのはそちらの方なのに)と思い、ふて寝をいたしますが、やはり後朝きぬぎぬの手紙は気になるのでした。翌日は、ついに何の音沙汰もなく過ぎてゆきました。

「それにしてもまあ、きっぱりとけじめのあるお心だったこと」

 傍にいた式部のおもとに、

「今、何か申されましたか」

 と言われて、思わず口に出てしまったのだと気づきました。

 翌々日は、雨がたいそう降りました。

(もうほんとうに私のこと、嫌いになっておしまいになったのだわ)と思っていると、夕暮れに傘をさしているわらわがやってまいりました。文を急いで開けてみると、「水増す雨の」とだけあります。すっかりとは思い出せませんが、「淀の沢水雨降れば…常よりことにまさるわが恋」が『古今集』の紀貫之の歌にあったとすぐに浮かんでまいりました。

 これは、和歌を何百首とお詠みになっている実方君の、何百首の歌よりおもしろく感じられました。どしゃ降りの中のお使いの童には悪いけれど。このような実方君のお心遣いが忘れられません。後に、行成ゆきなり様とのいざこざで主上様のご不興を買い、遠く陸奥むつの国へ行っておしまいになっても。


 はるかなるもの。陸奥へ行く人が、逢坂おうさかの関を越えるころ。


 草子のこの段には、他にいろいろ取り交ぜて偽装したつもりだったのですが、後に草子をお読みになった中宮様には簡単に見破られてしまいました。

「実方との噂は本当だったのね、少納言」

 中宮様には隠し事もできません。私は、しどろもどろになりながらお答え申し上げました。

「今は、遠くの人でございますれば。皆には、あいまいにしておりました」

「知っていれば、主上様に取り成しもしたものを」

「そのようなこと、とんでもございません。あちらにとっても私とはれごとのようなものでございますから」

「戯れごとのできる御身がうらやましいこと」

 中宮様は、朗らかにお笑いになりました。そのお言葉は主上様の御寵愛を一身にお受けあそばした余裕から生まれるご冗談だったのでしょうか。それとも、その身一つでご一族のご運を背負われたことを意味していたのでしょうか。

 こんな中宮様とのやりとりから一年も過ぎない十二月、実方様が任国陸奥でご逝去されたとの報が届けられました。今となっては、実方君の歌集に収められていた私との贈答歌が刹那の恋の証となってしまいました。


 五節…五節の舞を中心とする宮中行事。





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