第5話  清涼殿(せいりょうでん)~春爛漫~


 主上しゅじょう、一条天皇様は中宮様よりも御歳三つ下であられましたが、中宮様を愛しお慕いしていらっしゃり、ご夫婦というよりもまだ恋人や姉弟のように楽しげで仲睦まじゅうございました。 

 私が宮仕えを始めて一年が過ぎた正暦五年のうららかな春の日のこと。

 清涼殿の北東うしとらの隅の障子には、手長足長の怪しき物が描いてあって私たちは気味悪がっておりましたら、いつのまにかその前に青磁の瓶が、たくさんの桜を挿して置かれていました。そこへお訪ねになった伊周これちか様は、桜重ねの直衣のうし姿で花にも劣らぬ華やかなご風情。また、御簾の中には女房達が、桜の唐衣からぎぬ藤襲ふじがさね山吹襲やまぶきがさねなどの色合いの袖を御簾からこぼしているのも絵のようです。

 主上うえ様は、お食事の間中宮様と離れているのも落ち着かないというふうで、すぐに昼の御座所おましどころからお戻りになられました。中宮様が私に「墨をすりなさい」とお命じなさいましたが、私は主上様のいらっしゃるご様子にひたすら気をとられているので、墨ばさみから危うく墨を取り落としてしまいそうです。

 中宮様が、白い色紙を押したたんで、

「これに、今思いつく古歌をひとつずつ書いてごらん」

と、私にお命じになられます。

「これは、いかがいたしたものでしょうか」

 私が御簾の外に座っていらっしゃる伊周様に小声でお伺いすると、

「早く書いて差し上げなさい。男子は口を出すべきでもありません」

 差し出した色紙をお戻しになられます。

 ふと、私は青磁の瓶の桜が目に留まり、大納言様が先ほど口ずさんでいらっしゃった和歌、「月日もかはりゆけども久に経るみむろの山の」に気づいたのです。桜の演出は中宮様のご趣向であり、女房たちにも桜の唐衣を着せておいでなのでした。大納言様は、その意味をいち早くご理解なさって「中宮様がゆく久しくお栄えあそばすように」とうたっていらっしゃったのを、私はそれまでただすばらしいとだけ見つめていたのでした。

 中宮様は御硯おんすずりの墨をおさげになって、

「早く早く。あまり思いめぐらさないで、難波津でも何でも思いついたものを」

 と、急ぎはやされるのに、皆どうしたことかおろおろとするばかり。いつもの夜の語らいとは場が違うためでしょうか。それだけではありません。主上様の御前でございます。それに大納言伊周様もいらっしゃる、その中での中宮様のご命令にだれもが気後れしてしまっているのです。上臈じょうろう宰相さいしょうの君や中納言の君あたりが、春や花についての歌をいくつかお書きになり、やがて私のところへ色紙がまいりました。


 年経ればよはいは老いぬしかはあれど君をし見れば物思ひもなし


これは、前の太政大臣藤原良房ふじわらのよしふさ様がお詠みになった歌の「花」の一字を、「君」としたのでした。文徳天皇后となった御娘明子めいしさまの御前に、桜を挿した花瓶を見て詠まれたという古歌で、明子さまのご立后により一族繁栄のめでたさを思い、姫君を花になぞらえてお詠みになったものです。

 私は本当に、千年もこのままであってほしいことよ、と中宮様をお見上げするのでした。

「こういう機転が見たかったのよ」

 中宮様は仰せになるついでにお話をなさいました。

「主上様のお父君円融院が『この草子に歌をひとつ書け』と殿上人てんじょうびとにお命じになったけれども、おそれ多くてお断り申し上げる人が多いので、『字の上手下手などかまわぬ。季節に合わないものでもよいことにしよう』と仰せになったの。そこに、今の関白、当時三位の中将だった父上が、

 しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふやわれ

 という歌の末の句を『たのむやはわれ』とお書きになっていたのを、院がたいへんおほめになったということなのよ」

 また、中宮様は『古今集』の綴じ本をお置きになって、いろいろな歌の上の句を仰せになり、

「これの下の句はどう」

 と次々とご質問あそばされました。ところがいつもは自然と浮かんでくるはずの歌がまるっきり浮かんでこず、皆そのような事態の中で、宰相の君がなんとか十首ほどかろうじてお答えなさいます。

「思い浮かびません、なんて正直に言ってしまうのも中宮様の仰せ言を無駄にするようでそのように簡単には扱えませんわ」

 式部のおもとが悔しそうにため息をつくのもおもしろうございます。

 中宮様はお笑いになって、今度は主上様の祖父君であられる村上天皇のお話をなさいました。

「村上帝の時代に、帝のお側にいらっしゃった宣揚殿せんようでん女御にょうごと申し上げた方はみな知っているでしょう」

 はっとして顔を上げると、中宮様と目が合ってしまいました。宣耀殿の女御とは芳子ほうし様のことで、あの実方さねかた君の叔母君にあたるお方です。芳子様は、とてもご器量がかわいらしく村上帝に寵愛されたということで、実方君にお話を聞いたことがありました。私はすっきりと整った顔立ちの実方君を見ながら、芳子様のお顔を想像したものです。そのことを中宮様に悟られぬよう、少し顔を伏せるようにして頷きました。中宮様は、今度は主上様のお顔もお見つめになりながら丁寧にお話なさいました。

「女御がまだ姫君でいらっしゃったとき父君の左大臣師尹もろただ殿がお教え申し上げたのは『第一にお習字、第二にお琴、第三に古今集の和歌二十巻をそらんずること』だというのを帝がかねてよりお聞きになっていて、宮中の物忌みであった日に古今集を隠し持って来させられたそうです。いつもと違って、几帳が帝との間に立てられたのを女御が妙だとお思いになっていると、『何の年、何の月、何の折、だれだれが詠んだ歌はどうか』とおたずねになるのです。帝は和歌に通じた女房を二、三人ほど御前にお呼び寄せになって、碁石で誤りの数を置かせあそばされようというご趣向なのでした。けれど女御がお答えなさるのには少しも間違いがなく、帝は次第にむきになられて、少しでもまちがいがあればそれでおしまいにしようと思っていらっしゃるうちに十巻まで進んでしまい、『まったくむだであったなぁ』としおりを挟んで、お二人仲良くおやすみになったということです」

 その御有様は本当にすばらしかったであろうと、私はその場にいた女房がうらやましく思えました。そして、そのことをお聞きつけになった芳子様の父君、師尹様が内裏だいりの方に向かって、祈祷までなさったというのも趣深いことだとおっしゃる中宮様のお話を、もっともなことだとお聞き申し上げました。

「そんなことがあったのか。それにしても、村上の帝はよくそんなにたくさんお詠みになったものだなぁ。わたしなら三巻か四巻よむのでさえ、疲れてしまうだろう」

 中宮様と目を合わせながら仰せになる主上様のお顔が、とても和やかでいらっしゃいました。


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