第30話 香木の香り

「いつまでそこに座っているつもりだ?」

 ラダンは呆れたようにノギの背に問いかけた。

 お堂での邂逅かいこうから数週間、アウタクル王国へ向かう道すがら、ノギはこうして度々山道脇に生えている草か花かも知れぬ植物をじっと見つめては立ち止まることを繰り返していた。

 最初の頃は、体力が無く細々こまごまと休息を取っているのかと思っていたが、どうやら違うらしい。

 何度目か分からぬその道草にラダンはついにごうやしてため息をついた。

「全くもって無駄な時間だ」

 ぼそりと呟いたラダンの小言にノギはむっとした表情で振り返った。

「どうして僕の時間をラダンが勘定するんですか?」

「……?」

 ラダンは眉根を寄せた。

「無駄かどうか、僕の時間に価値をつけていいのは僕だけのはずです。ラダンは僕ではないでしょう?」

 分かるような、いまひとつ分からないような、そんな奇妙な言い回しだった。

 加えて、先程までむっとしていたはずの顔があっという間に幼子をさとすような真剣な表情に変わっており、つくづく妙な男だとも思った。

「……紡謡の民オルガ・ヤシュとやらに会いに行くんじゃないのか?」

「ええ、行きますよ」

「では、なぜこんな所で道草を食っているんだ?」

 ラダンの問いにノギは首をかしげて瞬きをした。

「駄目ですか?」

 心底不思議そうな顔で見つめてきたノギの顔を見て、ラダンは開きかけた口を閉じ、もう何も言うまいと思った。

「分かった、好きにしてくれ。気が済んだら声を掛けろ」

 呆れたようにそう言いながら片手をひらひらと振って、近くの岩に腰かけた。

 もう互いに口は開かなかった。

 ラダンは静かに首を上げ、頭上から降り注ぐ木漏れ日を顔で受けた。

 風で葉が揺れる度にチカチカと見え隠れする陽光が、昼間の光に不慣れなラダンの目をつ、つっと焼いていく。

 暫くして、ノギは探し当てた珍しい植物にぐっと顔を近づけながらあっさりと言った。

「僕を置いて行ってもいいですよ?」

「ああ、そのことなんだが……」

 ラダンは言いかけて、咄嗟に叫んだ。

「伏せろ!」

 瞬発的に飛び込み、ノギを引き寄せながら横に転がったと同時に、今までノギのいた場所に鋭い矢が突き刺さった。

 続けざまに、木の上から弓弦ゆづるを引き絞る音が聞こえる。

 ラダンは素早くノギを引き起こしながら、周囲の気配を探った。

 一、 二……三人。

(囲まれているな……)

 ラダンはちらとノギを見やった。

 ノギは何が起こったのか分からない様子で、ぼうっと地面に深く突き刺さった矢を見つめている。

 ラダンはぐっと顔をしかめた。

(身体が全快してない今、こいつをかばいながらはきつい)

 あれから、熱は数日で引いたが、ひびが入っていた肋骨はまだ完全に治りきっていなかった。

 ラダンは小さく舌を鳴らすと、ノギの手を引いてぱっと駆けだした。

 背後から一斉に飛んでくる矢を刃で弾き飛ばしながら、山道を駆け下りる。

 身を隠す場所がない分こちらが圧倒的に不利だ。ラダンはノギをぐっと引き寄せ、素早く右の森に飛び込んだ。

 木々の合間を縫うようにして駆け、頭上で迫りくる敵の気配と動きに集中しながら考えた。

(こいつを隠す場所さえあれば)

 しかし、逡巡しゅんじゅんしている内に防ぎ切れなかった矢が腕をかすめ、焼けつくような痛みが走った。

(いっそ捨ておくか……いや……)

 お堂で向けられたノギの笑顔が脳裏に浮かび、ラダンはぎりっと奥歯を噛んだ。

 その時、嗅ぎ慣れた香りがラダンの鼻をふわりと撫でた。

 ラダンは咄嗟に叫んで、ノギを突き飛ばした。

「そいつを守れ!」

「御意」

 一言、一縷いちるの乱れもない落ち着いた声が何処からともなく響いた。

 ラダンはその声を聞き終えると、きびすを返して跳躍した。

 木の上にいた敵は、いつの間にか目の前に現れたラダンの顔にたじろいで、慌てて弓を捨て短刀を抜こうとしたが、ラダンはそれを許さなかった。

 血しぶきを上げながら地面に落ちていく敵を尻目に、ラダンは敵のいた太い枝をだんっと力強く蹴った。

 足から伝わってきた衝撃で、一瞬肋骨が鋭く痛んだが、ラダンはぐっと歯を食いしばった。

 放物線を描いて宙を舞いながら、別の敵が放った矢を頬すれすれで避ける。

 矢の飛んできた方向に仕込んでいた飛び道具を素早く投げつけると、うめき声と共に敵の腕が跳ね上がるのが見えた。

 それを見るや、ラダンは素早く空中で身体をねじり、別の枝を蹴り込んで再び宙を舞った。

 カランとラダンの投げた飛び道具が地面に投げ捨てられた音が聞こえたと同時に、ラダンは隙の出来た敵の脇腹に思い切り蹴りを叩き込んだ。

 鈍く唸りながら落ちていく敵を追い、落下する勢いそのままに地面に叩き付ける。

 叩き付けた衝撃が全身を打ったのと、敵の首から生温かいものが勢いよく噴き上がったのはほぼ同時だった。

 目を見開いて痙攣している敵を一瞥し、ラダンはゆっくりと後ろを振り返った。

 血だまりの上に横たわっている敵を呆然と見つめるノギと、片膝をつき腕で両目を覆っている人物が目に入った。

「合流が遅くなり申し訳ございません」

 ラダンに表敬ひょうけいしている人物は静かにそう言った。

 女にしては随分と低い、腹に響くような声の持ち主で、ころもからは独特な香木こうぼくの香りを漂わせる人物だった。

 この香りをラダンはよく知っている。

「感謝する、リジェン」

 ラダンは顔にかかった敵の血を手でぬぐいながらゆっくりとリジェンに歩み寄った。

「アッカの話は耳に入っているか?」

 ラダンは静かにリジェンに問うた。

「はい」

「では、お前がでないとどう証明する」

 とたんに、ラダンを纏う空気が変わった。

 リジェンを射るその眼光は、知っている者に向けられるそれとはかけ離れた、恐ろしく冷たいものだった。

 また、一切の動きを許さぬような、ひりついた空気が二人の間に流れた。

 しかし、リジェンは顔を上げると、真っ直ぐラダンの目を見据えて静かに答えた。

「仕えるあるじが分からぬほど、愚者ぐしゃではありません」

 その言葉を最後に、暫くの間沈黙だけがその場をじわじわと凍らせていく。

 ノギはそんな二人を交互に見ながら、はらはらと視線を漂わせた。

 先に動いたのはラダンだった。ふっと口元を緩めると小さく肩をすくめてみせた。

「お前はいつも危ない橋を渡るな」

 その瞬間、ようやく何かから解放されたような安堵感がその場を包み込んだ。

 リジェンはラダンの言葉を聞き、張っていた緊張をゆっくりと吐き出すと、小さく肩の力を抜いた。

「ラダン様ほどでは御座いません」

 薄く笑みを漏らしたリジェンを横目に、ノギは訳の分からぬまま、ほっと胸を撫で下ろした。

「……何が起こったんですか?」

 暫くして、ノギは恐る恐るラダンに訊ねた。

「悪いが、お前を置いていくことが出来なくなった」

「……?」

「どうやら俺と居たことで、お前も目を付けられたらしい」

「誰に、ですか?」

 ノギは困惑したように訊ねた。

「俺の首を狙っている奴に」

 ラダンは自身の首をとんとんと指で叩きながら、真顔で言った。

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