第29話 死駒の型

 ユホウはオムサ帝の寝殿へと続く長い回廊を歩きながら、ふと、自分を見つめる視線に気が付いて立ち止まった。

 形式的に振り返ってはみたものの、そこには壁に等間隔にしつえられた燭台の灯りがずっと奥まで続いているだけだった。

 隣接する中庭は夜の静けさに包まれ、木々や草花だけが風にこすられて、さわさわと音を奏でている。

「用があるなら手短にしてくれ」

 ユホウは再び前を向き、ゆっくりと歩きだした。

「ラダンを発見いたしました。奇跡的に生き長らえたようです。現在は素性の知れぬ男と共にアウタクル王国へ向かっております」

 その声はよく知っているユホウの部下のものだった。

 部下の知らせを聞いた瞬間、ユホウは誰にも悟られぬほどのごくわずかな動きで背を強張こわばらせた。

「……生きているのか」

 一言そう呟くと、小さく眉根を寄せた。

「アッカに任せると伝えろ」

「御意」

 部下の気配は一瞬にして闇の中へ消えていった。

 ユホウは立ち止まり、中庭に目をやった。

 春から初夏に移り変わろうとしている生温なまぬるい風が頬を撫でながら通り過ぎていく。

 回廊を照らす燭台の灯りが薄ぼんやりと庭全体を橙色に染め上げ、庭師が造り上げたであろうと思われるおごそかな雰囲気を存分にかもし出していた。

(そうか、お前は濁流に飲まれて尚、生きているのか……)

 ユホウはふと、内に秘めた怒りを必死に隠しながら真正面から視線を返してきたラダンの顔を思い出した。

 あの時、ラダンは決して表情を崩さなかった。しかし、その分厚い仮面の下からにじみ出る苛立ちをユホウはしっかりと感じ取っていた。――腹の内に渦巻く激情をぎょせぬお前ではなかろうに。

 一方で、ユホウの腹の内は常にいでいた。それは大きな波を立てるでもなく、また、急激に引くようなこともなく、常に一定を保ってそこにあった。

 せいの領域として、ただ己の内側に当然の如くあるものだった。

 ユホウは細く息を吐いた。

(ラダンよ、お前はそうではなかったというのか……?)

 問うたところで、今となってはもう、それを知るすべはない。

「考え事か?」

 ユホウは、はっとして声の方を振り返った。

 暗がりの中、燭台の灯りに照らされて浮かび上がった人物は、思ったよりもずっと近くにたたずんでいた。

 灯りの炎が風に揺れる度に、その人物に落ちた影がちらちらと踊っている。

 ユホウはさっと片膝をついて敬意の姿勢を取った。

「オムサ帝、大変失礼いたしました」

 薄い寝衣しんいまとったオムサがゆっくりと片手を上げた。

「よい、しかし、お前が俺に気付かぬとは珍しいな」

 ユホウは心の内で顔をしかめた。そして、暫く黙っていたが、観念したように静かに答えた。

「タル(盤上ばんじょうで駒を動かす遊戯ゆうぎ)の駒が思わぬ形で動いたので、考えていた次の手を変更せざるを得なくなりました。先の先、更にその先の手を練っているところでした」

 オムサは面白そうに、ほう、と呟いた。

「タルの名手であるお前がてこずるとは、なかなか見込みのある相手だな」

 オムサは興味深そうに顎を撫でながら、更に問うた。

「強いツィオ(どの方位にも動けるつるぎの駒)がいるのか?」

 ユホウは静かに首を振った。

「いいえ、言うなれば、死駒しごまの一手でしょうか」

「ほう、なるほど、それは名手では見抜けぬわけだな」

 オムサは目を細めながら、幼い頃に兄とやったタルを思い出した。

 兄はタルが下手だった。目の前の駒にしか目がいかず、相手の先を読む余裕もなく、手の内の駒を一方的に取られるばかりのタルだった。

 兄を負かす事が可笑おかしく、毎夜兄をタルに誘ったのを覚えている。

 しかし、一度だけオムサが兄に負けてしまった一局があった。それは、タルをよく知る者ならば絶対に打たない手であった。

 タルには必勝の妙手みょうしゅ――〈死駒しごまかた〉がある。

 自身の駒と相手の駒が盤上で決められた型に並んだ時、最後の一手を打ったものが勝利を収めるというものだ。

 しかし、それは容易く出来るものではない。

 どの駒から始めるか、また、どの駒で終わらせるのかを考えながら、更に相手の駒を思い通りの位置に誘い出さなければならない。

 それには、相手に〈死駒の型〉を悟られぬように常に危機的状況を作り出す駒を打たなければならなかった。

 相手はその駒をなおざりに出来ず、必然的に注意がその駒にしかいかないようになる。

 しかし、タルを知れば知るほど、先が読めるようになればなるほど、そんな常に神経を使うような厄介な打ち方はしない。

 それに、どう転ぶか分からぬようなそんな不安定な駒を勝負の場に置くことは決してしないのだ。

 謂わば、一種の博打ばくちである。

 自身の駒と相手の駒が盤上で決まった型になることなど、ほぼ有り得ない。そんな奇跡に近いような型など、あってないようなものだった。

 だからあの時、オムサは心底驚いた。

――ばんは常に見ていたのだ。自身の駒も、兄の駒もしっかりと見ていた。

 にもかかわらず、兄が最後の一手を打つまで〈死駒の型〉に気付かなかった。

 兄は偶然だと苦笑いを浮かべていたが、いつも負かしている相手に、あろうことか〈死駒の型〉で負けるなど悔しくてたまらなかったのをよく覚えている。

 兄にタルで負けたのはその時だけだった。

「死駒の型は気付いたらはまっている恐ろしい手だ……」

 独り言のようにぼそりと呟いたオムサに、ユホウは静かに告げた。

「ご安心ください。取るに足らない一手です。必ずルモル(王の駒)はこちらが取ります」

 ユホウの言葉にオムサは納得したように頷くと、話題を変えるように問うた。

「それよりも、俺に何か用があったのか?」

 この回廊にユホウがいること事態が珍しかったのだ。

「少しばかりお傍を離れますので、そのご報告です」

「何処かへ行くのか?」

「はい、狩人かりびとおさとして動かねばならない状況になりました」

「そうか……」

 オムサは少し残念そうに呟いた。

「オムサ帝のお傍には、わたくしが信を置く部下を配置しますのでご安心ください。わたくしと比べても遜色ない者です」

「お前の代わりなどいまい。しかし、狩人の事情なら仕方あるまいな、すぐにかたをつけて戻ってこい」

「御意」

 ユホウは深く頭を下げて、黙って床を見つめていた。

「父が何故、お前たちを使わなかったのか未だに不思議でならぬ」

 オムサはそう言うと、ユホウの肩にぽんと手を置いて、やがて、静かに横を通り過ぎていった。

 ユホウは立ち上がると、オムサの背を一瞥いちべつし、王宮を後にした。


(使わなかった、か……)

 ユホウは先ほどのオムサの言葉を思い返して小さく鼻を鳴らした。

 打ち手になるか、駒になるか……オムサよ、旧帝はもう少しさとい方だったぞ。

 何故、我らが未だに駒に成り下がっているのか分からぬようでは〈死駒の型〉うんぬんの問題ではない

 例え勝利を確信した一局であっても、最後の最後まで気は抜かぬものだ。

 たった一手、そのたった一手を打ちたがえれば、ルモル(王の駒)はいとも簡単にすくい取られるぞ。

――お前が打ち手でもなく、旧帝の一手でもなく、私の駒である限りは。

 オムサは心の内でそう呟くと、静かに闇に紛れていった。

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