第36話 守るべきもの

 「失礼いたします」の一言とともに入室した母に続き、ブロンドの少女が私たち三人の前に立ち、優雅な振る舞いでこうべを垂れ、近頃の社交界でもすっかり見掛けなくなった古風なドレスのスカートを両手で持ち、裾を上げて片足を引く。

 フィル様も母も、一体どういう了見でここにお連れしたのだろうか? 悪い予感の通り、シャーロットお嬢様だ。


「メリル子爵のご令嬢だね?」


 ヴィクター様はうやうやしくお辞儀をするシャーロットお嬢様に優しい口調で問いかけられた後、フィル様の方に振り返って鋭く睨みつける。


「はい。お初にお目にかかります。グレンタレット侯爵閣下。メリル子爵家の長女、シャーロット・メリルと申します」


 鈴の鳴るような澄んだソプラノで挨拶の言葉を述べたお嬢様は顔を上げ、強い意志の籠もった瞳を真っ直ぐにヴィクター様に向ける。スカートから手を離し、まっすぐに下ろした指先はかすかに震えているようだ。


「侯爵か。公式にはそうではあるが、グレンタレットの爵位は歴史的に辺境伯と呼ばれている。 ……改めて名乗ろう。グレンタレット辺境伯にしてグレンタレット領主、ヴィクター・クロムウェルだ。以後お見知りおきを。シャーロット・メリル嬢」


 ヴィクター様はどうなさるおつもりなのか、シャーロットお嬢様に挨拶を返すように右手を胸に添えてお辞儀をされる。


「……とは言うものの。ここに君がいて私と顔を合わせることは、あってはならないこととは理解しているね?」

「ヴィクター様、これには訳がありまして……」

「フィル。お前から話を聞くのは後だ。覚悟しておけ」


 シャーロットお嬢様への問いかけに恐る恐る口を挟んだフィル様はヴィクター様の静かな一喝に慌てて姿勢を正して口を閉じる。その様子を見たお嬢様はヴィクター様に返答の意思を伝えるように一歩踏み出してゆっくりと頷かれた。


「はい。全て存じ上げたうえで私から閣下との面会を願い、フィリップ様はそれを聞き届けて下さいました。ですので、全ての責任は私にあります。どうかフィリップ様をお責めにならないでください」

「残念ながら君は責任を負える立場にない。悪いことは言わないから、今すぐにこの部屋から出ていきなさい」


 その言葉にシャーロットお嬢様は目を潤ませてスカートをぎゅっと握りしめる。お嬢様には申し訳ないけれど、これはヴィクター様の優しさと気遣いであり正しい判断だ。

 シャーロットお嬢様はうなだれ、一歩下がろうとしたとき。


「……僭越ながら申し上げます。クロムウェル閣下」


 ずっと様子を見守っていた母がシャーロットお嬢様を擁護するように隣に立ってヴィクター様に申し出た。


「ケイト殿。貴女とルーシーがついていながらなぜこのようなことが……?」

「はい、この場の責任はエドワーズ家のハウスキーパーである私、ケイト・ミラーが全て負います。 ご存じの通り、現在メリル領では多くの領民たちが貧困と流行り病に苦しめられています。シャーロット嬢はメリル子爵家の長女であり、将来はメリル領主婦人になられるお方。そして領主夫人は全ての領民に対して慈愛を持ち、喜びも悲しみも共にしなければなりません。この場で困窮を極めるメリル領の支援計画についての話し合いがなされるのであれば、それを知ることは当然の責務であると庶民である私は考えます」

「それには一理ありますが、ケイト殿……」


 困ったことにヴィクター様は私のことへの負い目もあって母には全く頭が上がらず、いともたやすく丸め込まれてしまう。フィル様はそれを見越して母にこの役目を頼んだのだろう。


「……この場でメリル子爵のご令嬢と会ったことが公になればシャーロット嬢の名誉にも私の名誉にも傷がつく。今日のことは他言無用とするように。いいね?」

「クロムウェル閣下…… 感謝いたします!」

「ありがとうございます。ヴィクター様」

「お前を許すとは一言も言っていない」

「あはは…… はい。覚悟しています」


 私は全く納得できないけれど、それを表明しても今更どうなるわけでもない。何事も起きないよう祈りながら、無言で私に視線を合わせるヴィクター様に頷く。


「それではヴィクター様、メリル領への支援計画をお伝えします。どうぞこちらへ」


 ひとまず場が収まったところで、気持ちを切り替えるようにフィル様が一段大きな声で本題を切り出し、ヴィクター様を執務机に招かれた。


「まずはメリル領についてお話しします。メリル領はこのエドワーズ領からロンドンを離れる方角に馬の脚で二時間ほどの場所にあって面積は五十平方マイル程度で人口は1万人に満たないくらいですね。領地の三分の一が丘陵地で、そのうちの半分がメリル子爵のお屋敷と上流階級の邸宅が並ぶ古くからの市街地になっています。次の三分の一が平地でほぼ無産階級の住宅地と農場に使われていますが近代化はあまり進んでおらず生産性は低水準。残りの三分の一が山林で人里に近い所では管理が行き届いているものの殆どは自然のまま…… といったところでしょうか」


 そして、机の上に並べられた写真を写した硝子板を一枚一枚ヴィクター様に手渡し、それを受け取ったヴィクター様はそれを窓からの光にかざして目を細め、じっくりと眺められる。


「自然豊かで美しい場所だ。幼いころの故郷の風景を思い出す……」

「はい、メリル子爵家は代々イングランドの古くからの伝統を守り領地改革に消極的で、船舶建造のために木材が高騰して多くの山林が失われる中でもその景観を保ってきました」

「なるほど。だからこそか」

「現領主であるメリル子爵はお優しく慈悲深い方で、領民の飢えや病に気を病んで領民救済に多くの財を割いておられたのですが、そのために領民の死亡率が下がり無産階級の人口が急激に増えて財政を圧迫し、領地改革ができずに農作物の生産性が上がらず、都市部に出稼ぎに出た労働者が流行り病を持ち帰って領内に蔓延するといった状況です」


 フィル様が状況説明を終えると、ヴィクター様は硝子板の最後の一枚を机に置き、一呼吸おいてシャーロットお嬢様に視線を向けられた。


「メリル子爵の苦しい心中は察するに余りある…… 確かにそれは金の力だけでなんとかなる状況にないな。シャーロット嬢、君の見立て通りだ。深窓のご令嬢の立場ながら、よく領地の窮状を理解し、勇気を出して助けを求めたね」

「勇気ではなく、これは私の義務です。私はメリル領の母として領民を守らねばなりません。そのためには、領民の意思を我が想いとし、幸せを我が幸せとする必要があります。私自身の抱く想いや幸せを捨ててでも…… メリル領に残った山林から木を売り、そのお金で山を拓き、農地を広げ近代化すれば多くの領民が救われます。メリル家の古い考えを捨てさせるために父の説得が必要なら私が説得し、お金が足りなければ私が名のある家に嫁ぎます。ですので、どうか、メリルの領民を助けてください……!」


 シャーロットお嬢様は瞳を潤ませ、震えながらも意思の込もった声で覚悟を伝えられた後、その目尻から大きな雫がこぼれ落ちた。


「ふむ…… フィル、お前を許す。シャーロット嬢に感謝することだ。シャーロット嬢、涙をお拭きなさい。美しい顔が台無しだ」

「あり、がとう、ございます。閣下。このような、顔を、お見せするつもりは、なかったのですが……」


 ヴィクター様はフィル様に背中を向けたままそう仰ると、ゆっくりとシャーロットお嬢様に近づき、そっとハンカチーフを渡された。


「さて、フィル。お前はメリル領の状況をどうする?」

「はい、今しがたシャーロット嬢の話された方法は正当ではあるのですが、僕がそのように提案すれば、きっとヴィクター様に殴り飛ばされるでしょう」

「ふっ、よくわかっているな」


 フィル様は先程より少し軽い口調で仰ると、ヴィクター様はにやりと笑い、その顔をシャーロットお嬢様にも見せられる。すると、シャーロットお嬢様のこわばった表情が少し緩んだ。


「メリル子爵が守ってこられた伝統や自然環境は、今やイングランドでも失われつつある貴重なもので、その価値は計り知れません。今ある農地の近代化と無産階級の領民たちの住む場所の整備は必要ですが、メリル子爵の意思を尊重し、環境への影響を最小限に抑えつつそれをなすべきでしょう」

「そうだ。我がグレンタレット領でも近代化を推し進めるに当たって多くのものを失ってしまった。そもそも貴族というものは古き伝統を守り、良き文化を後の世代に受け継ぐことを美徳とするべきで、どこかのお坊ちゃんのように貴族としての領分をわきまえず御婦人方をたぶらかして服飾品を売って金を稼ぐような真似をすることは厳に慎むべきなのだ」

「あはは、どこの誰でしょうね…… というわけで、つまり、シャーロット嬢。君のお父上、メリル子爵は決して間違ったことはしていないし、古い考えに固執する愚かな領主でもない。英国が誇るべき伝統と格式を守る貴族そのものなんだよ」

「……はい!」


 優しい笑顔で仰るフィル様の言葉に、シャーロットお嬢様は輝くような笑みを浮かべ、力強い返事とともに蒼玉サファイアの瞳から再び大きな雫がこぼれ落ちた。

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ロマンスは移ろいゆく時代とともに 藤屋順一 @TouyaJunichi

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