第35話 原因と予感

 ティーセットをワゴンに乗せて執務室へ運ぶと、ヴィクター様はソファにどっしりと腰掛けてくつろぎ、フィル様は執務机で作業をされていた。

「失礼いたします」とヴィクター様の座るソファの前のローテーブルにティーセットを並べ、ヴィクター様のカップにお茶を注ぐ間にフィル様はその向かいのソファに座られる。


「ところで、ルーシーがこちらに戻る日程が早まったのはどのような事情ですか?」


 フィル様はゆるい笑顔を浮かべて軽い口調で問われるが、その視線は責めるように真っ直ぐヴィクター様の視線を捉えている。

 対するヴィクター様はその視線を受け止め、にやりと薄笑いを浮かべて睨み返す。


「そうだな、日程の都合…… いや、私がルーシーと交わした約束をたがえたせいで主従関係を続けられなくなった。といったところか」

「それは、どのような約束ですか? 僕にはルーシーの主として知る権利があると思いますが」

「私とルーシーの間で交わした私的な約束なので君に伝える必要はない。エドワーズ家への謝礼は当初の約束通り、ルーシーへの給金は当初の金額に迷惑をかけた分上乗せするので心配無用だ」

「いえ、お金の問題ではなくてですね……」


 フィル様の反応を面白がって私との関係をほのめかすヴィクター様の大人気おとなげのなさには呆れてしまうが、それを知りながらもあえて二人の関係を探ろうとするフィル様もフィル様だ。

 ほのめかすばかりで何も言おうとしないヴィクター様に問うのを諦めたフィル様は視線を私に向けられるが、私もフィル様にお伝えできることはないので、何も言わずに首を横に振ってお答えする。


「はぁ…… もう良いです。メリル領への支援計画についてですが、なんとかうまくまとまりました。あとはヴィクター様に納得いただいてメリル子爵を説得するだけです」

「ほう。事前に聞いた限りではかなり厳しい状況に感じたが、随分と自信があるようだな」

「えーと、ヴィクター様に納得していただくのが一番難しい問題かと……」

「ははは、それは楽しみだ」


 わざとらしい大きなため息をついて話題を切り替えるフィル様に、ヴィクター様は上機嫌だ。


「さて、私の方の状況だが」

「ヴィクター様の、ということは政界のお話ですか?」

「ああ、そうだ。今後のことを考えると君に知らせておかねばならんからな」


 そう言ってコホンと一つ咳払いをされると、先程の上機嫌とは打って変わって真剣な眼差しをフィル様に向けられ、場の空気がガラリと一変する。


「昨年の末頃に発生した、香港沖を航行中の英国の貿易船が清国の官憲に海賊とみなされ臨検を受け、その際に英国への侮辱行為があったのではないかと騒動になった事件は知っているな?」

「はい、いくつかの新聞の記事を読んだ限りですが」

「ふむ、我々が集めた情報では臨検が行われた理由は正当なもので、行われたとされる英国への侮辱行為も証拠が曖昧なものばかりだ」

「ですが、それを口実に現地に駐留している海軍が広州に侵攻して、それに反抗する形で現地の反英運動が激化して広州の英国居留地が焼き払われ戦闘状態に発展していると」

「そもそも、本来ならば事実かどうかもわからない侮辱行為などで戦闘に至るはずなどないのだが、海軍の侵攻を手引し、清国の反英感情を煽り、英国の威信を揺るがす大問題だと政界で喧伝した者がいる」


 静かな口調で話されるヴィクター様はカップを手にとって少しぬるくなった紅茶に口をつけられる。その琥珀の瞳にはかすかな怒りの炎が宿っているようだ。


「……パーマストン首相ですね」


 それに応えるように、フィル様は声を抑えてヴィクター様の怒りの向く先の人物の名を口にされる。


「そうだ。パーマストン氏は先の義なき戦争、アヘン戦争などと不名誉な名で呼ばれているが、その当時に外務大臣を務めていて、不平等条約による貿易の利権を一手に握っている。その時に結んだ不平等条約では清国の五つの港を自由貿易港としたが、パーマストン氏はその利権を拡大するためにもう一度清国と戦争する機会を長く伺っていた」

「その機会が今回の事件というわけですか」

「ああ、これを機会と見たパーマストン氏は香港から広州へ進行するために本国から五千人規模の兵を派遣しようと議案を提出したが議会の猛烈な反対により否決された。すると、あろうことか今度は庶民院を解散し、総選挙に持ち込む暴挙に出たというわけだ」

「また、戦争になるのですか?」

「いや、そうはさせん。パーマストン氏の強硬な侵略的外交政策は彼の利権に群がる一部の者を富ませるだけで英国自体の経済も国民も疲弊し、世界中で反英の機運が高まっている。この戦争が阻止できなければ、あとは、君のお父上が予見した通りだよ」


 アーサー卿は生前に英国を中心とした世界の未来を予見する書物をしたためられていて、ヴィクター様がロンドンで定期的に開催されている『円卓』と呼ばれる懇親会ではよく議題として取り上げられていた。その中の言葉には……


「……次の百年は世界中を戦火に巻き込む戦争の世紀になる。ですか」

「そうだ。幸いなことに我らが王室は英国の威光をほしいままに振る舞い、その威信を貶めるパーマストン氏を忌み嫌っていて、英国の伝統と誇りを重んじる貴族達も今回の暴挙に怒りの声を上げている。そんな中で正義感が強く若い貴族たちの信頼も厚いリチャード卿がリーダーとなり貴族院の穏健保守派の結束を固め、財界や上流階級に顔が広いエドガー卿が中心となって庶民院の票集めを行っているところだ」

「それは…… パーマストン首相と全面対決しようということですか」


 ヴィクター様はフィル様の鋭い眼差しに黙ってうなずき、残った紅茶を一気に飲み干された。


「さて、私からの話はこんなところか。今度はお前の番だな。フィル」

「はい。それではこちらへ」


 フィル様もヴィクター様に合わせてカップを空けられ、ソファから立ち上がり執務机へと向かわれる。

 その途中、執務室の中央あたりで足を止められてくるりと身を翻し、執務机を背にヴィクター様と私を見据えられる。


「話をする前に、お目通り願いたい方がいます」

「ほう。どなたかね?」

「……お会いいただければわかります」


 怪訝な顔をするヴィクター様にフィル様の表情は硬い。

 まさか……

 今までもやに包まれたように曖昧だった胸騒ぎの原因が次第にその姿を表し、心臓が早鐘を打つ。


「ケイト! お通しして!」


 ――コン、コン、コン


 フィル様のよく通る声が執務室に響くと、それに応えるようにノックの音が返り、静かにドアが開かれた。

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