てれはんごーゔぁー

 目覚めと同時に感じる微かな不快。みぞおちの下あたりの、肉の奥の、なにかが、きゅーっとしているような感覚。いわゆる胸やけというのがそれだ。たぶん。この手の感覚に共通認識はなく、誰もがなんとなくで気分を共有している。

 はっきりと分かるのは、胃袋から喉を駆け上り鼻を抜けてくジュニパーベリーの香りだ。昨日の夜、スパークリングワイン二杯でできあがったミサキさんに付き合い飲んだ、ボンヴェイサファイヤの残り香である。もちろん、胃袋の中の残り香だ。


「……キモチワルっ」


 おれは冷たい寝床から這い上がり、洗面台で歯ブラシを手に取った。歯磨き粉が醸し出すメディカルミント≒チョコミントは深酒の苦悩から人類を解放する。いっそのこと一日中グラスホッパーを飲んでいれば二日酔いなんてこの世からなくなるんじゃないかと思いながら口中の不快を吐き捨てる。

 

「……ミサキさんは大丈夫なんだろうか」


 鏡のなかの生ける死人に言って、ノートPCの電源ボタンを押し、おれはオーブン・トースターに食パンを突っ込んだ。箱の内側に電熱器を配しただけという笑ってしまうほどシンプルな構造のくせに、学生時代から今までで最も重宝している家電だ。

 ジジジ、と死にかけのアブラゼミの鳴き声みたいな音を聞き流し、いつものように遠く離れた同居人を呼ぶ。


「ちっすー」

「……ちっすちっすッス」


 ミサキさんが突っ伏していた。


「えーっと……二日酔いです?」

「自己嫌悪ッス」

「なるほど」


 さもありなん。

 どこの誰だったか、深酒をすれば誰もが詩人になれると言った。同意する。吐き出す言葉のひとつひとつに重みが乗っかる。何の重みかと言えば自己憐憫と後悔で、そのふたつは思春期から今まで――ひょっとしたら死ぬまで囚われるかもしれない感情だ。

 

「えっと……別に気にすることないッスよ? 実害なかったし」


 ミサキさんはなにも口にせず、ゴン、ゴン、ゴン、と三度テーブルに額を打ちつけた。

 ニワトリが鳴いたら完璧だとか言いたかったが、知らなければ滑る。おれは時代の波に乗り遅れた令和のペテロの気持ちを慮って、優しく言った。


「いや、ほんと、ミサキさんの介抱するの初めてじゃないッスから――」

「だーかーらー!」


 ミサキさんは涙目プラス真っ赤な顔で言った。


「だから凹んでるッスよ! ワインッスよ!? ワイン一杯! ああ、もう!」

「や、初っぱなが梅酒のロック一杯なんで、それも別に」

「だから余計にッス……」


 ミサキさんは泣き疲れた子どもよろしく突っ伏した。へこんでいるにしても呼び出しにはちゃんと応じてくれるあたり律儀で可愛らしいのだが、それはともかく――


「お酒、美味しいですもんね」

「……ねー」


 ミサキさんはノロノロと顔をあげ、恨みがましい目をして言った。


「言っときマスけど、自分にお酒を教えたの、そっちデスからね?」

「……えっ、おれ?」

「デス。間違いなく」


 言い切り、ミサキさんはふたたびテーブルに沈んだ。追求拒否の姿勢だ。誰がなんと言おうと主観的にはあなたのせいですというやつ。


「……えーっと……あれ? もしかして、あのときの梅酒が初めて?」

「デスよー」

「なんと、すでにバージ――」


 おれは咄嗟に口を閉じた。


「――すんません。失言しそうになりました」

「お気遣いは嬉しいデスけど、そんな時期はもう一週間も前に通り過ぎたッスよ?」


 ミサキさんはテーブルにへたれたまま苦笑した。それこそ、お気遣いどうもという気分になった。注意しているつもりでも、モニターを隔てると緊張が失われる。冗談を言うにしてもボディランゲージが不足して細かなニュアンスが伝わらないし、声にしたってマイクで入力して変換して電線を通して再変換してスピーカーやらヘッドホンやらから出力するのだ。

 おれの声は、正確かつ完全な形では届かない。


「……おれって、良い声なんですか?」

「…………?」


 ふふ、と小さく背中を弾ませて、ミサキさんが顔をこちらに向けた。ガサゴソとテーブルの下を探って、前にも使っていた熊耳付きのヘッドホンを耳にかぶせた。


「ナウ、オン、ライン、一声ドーゾー」

「え? あ、えーと……本日も晴天なり――」

「外、どしゃ振りッスよ?」

「えっ? あっ」

「あとほら、例のいいマイクも使ってくれないと」

「あー、そっか。なるほど」


 いつも出してると邪魔くさいから普段はインカムにしていた。それだって新調したものなのだが、やはり高品質のマイクには及ばない――のだろう。

 だろう、というのは、おれにはおれの声の良さとやらはまったくわからないからだ。

 おれはマイクの準備をして囁くように言った。


「ミサキさん」

「――ぅぁっ」


 微かなうめき声とともに、ビクン、とミサキさんの背中が弾んだ。喜んでいるというより、大きくなった音に驚いているように思えた。

 ミサキさんはマウスをカチカチと動かし、目を閉じた。


「目を閉じるってのは、おれの顔が見えると邪魔とか?」


 パチッ、とミサキさんが目を見開いた。表情が固い。明らかに怒っている――というより、


「ちょっと卑屈すぎないッスか?」

「卑屈なのは認めます。というか、今のも失言でした。すんません」

「っていうか、いまの『が』失言ッスよ」


 ミサキさんは殊更に『が』を強調して言った。


「セクハラ発言は多目に見てもいいッスけど、そーいうのはダメッス」

「……えーと……え?」

「なんデス?」

「いや、室長のこととか……セクハラ発言とか嫌ってそうなのに」

「いまさらッスか?」


 ミサキさんはヘッドホンを萌え袖で押さえて目を閉じた。


「セクハラ発言も言う人によるッスよ」

「あー……おれが言うのはいいんですか?」

「イイ男ぶって言ってくれるとなおいいかもッス」

「なにそれ」


 今度は、おれが苦笑する番だった。

 ただしイケメンに限る。

 子どもの頃からしょっちゅう目にしてきた言説だ。おれには該当しないと思っていた。

 美女と野獣ではないが、いったん好きになってしまえば美醜なんて気にならない。それにはおれも同意する。だが、その前段階となると、どうにも。


「ミサキさんって、おれのことホントに好きなんですか?」

「好きッスよ?」


 待っていたかのような即答。おれは思春期の高校生かってくらいに顔が熱くなった。

 ミサキさんは目を閉じたまま、囀るような口ぶりで言った。


「いっちばん好きなとこはスルーぢからッスね」

「……ナニソレ?」

 

 聞いたこともない言葉に、おれは思わず吹き出した。

 つられたのか、ミサキさんも柔らかに微笑んだ。


「自分、変なヒトなのに、最初っから引かないでいてくれたから」

「……そうですか? ある意味で最初っから一歩引いてたようなもんだけど」

「他の人はドン引きだったッスよ」

「審査基準が甘いっすね」

「そこで、声が出てくるッス」


 ミサキさんは目を閉じたまま、ほんのり頬を色づかせて言った。


「ケッコーいろんなタイミングで、耳元で喋ってくるから」

「……へ?」

「ホラ、本人はまったく自覚ないパターンッスよ」


 ミサキさんはクスクス笑いつつ、昼寝でもするようにテーブルに伏せた。


「いつだったかなー……室長になんか言われて、言い返して……」

「何十回とありそうな出来事」

「デスデス。でも、あのときは違くて」

「違くて?」

「室長にフォロー入れるから口裏あわせてって、耳打ちしてきて」

「……あー……?」


 何度か心当たりがある。というか、もともと静かな職場だったのもあって、共有するような話題でもなければ隙をみて耳打ちなんて日常のひとつだった気がする。なんせ同期だし。


「自分ビックリしちゃって」

「へ?」

「自分の人生に、いきなり耳打ちしてくるヒトとかいなくて」

「……え?」

「またこう、低音がいい具合に刺さってくるっていうか。変な声出そうになったッスよ」


 目を閉じ、顔をこちらに向けていないのは、赤くなった顔を見られたくないからだろう。


「勘違いするな自分! って思って、最初はつっけんどんに押し返したりして」

「えっと……あったっけ?」

「あったッス。そしたら、すぐにまた顔近づけてきて『いいから聞いて』って」


 ミサキさんは照れと恨めしさの混じった目をこちらに向けた。


「自分、もう、うあー! って! 内心バクバクだったッスよ!」


 ぺちぺちとテーブルを叩き、ミサキさんは眼光を鋭くした。


「これ、他の人にやったらぶっ殺すッス」

「ぶっころ!?」


 とつぜん過激になるのは、どうかと思った。

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