15球目 野球は”バスケ”だ!

 七月。

西郷退盛にしさとひくもりは実家の近くの公園で、一人フリースローの練習をしていた。

眩いばかりの青空に、中古のバスケットボールが鮮やかな弧を描く。ボールはわずかに軌道を外れ、リングに当たって地面を転々と転がった。


「下手くそ!」

「うっせぇ!」


 コート外から仲間たちが囃し立てる。仁馬山高校の野球部の面々は、この夏、バスケットボールの練習に励んでいた。


 七月に入り、神奈川も甲子園の予選が始まった。仁馬山はまだ5人しかメンバーがいなかったが、他の部活から助っ人を頼み、半ば強引にエントリーした。こうして西郷らの夏は始まり、そして始まった瞬間に、終わった。


 1回戦。

西郷にとっては思い出したくもない、最悪の夏になった。

5回を1人で投げ抜き、球数は348球。

自責点156。

防御率は驚異の200・571を記録した。


 西郷の状態は万全だった。仲間たちに怪我も病気もなかった。ただ、チームメイトが野球と言うものを、根本的に勘違いしていただけだ。たとえば河南は、外野フライが飛んで来ているのにグローブを外していたり(「だって、手が痒かったんだもん」)、内野の北方が、西郷が振りかぶっている間に、マウンドにある滑り止めロジンバッグを触りに来たりした(「ちょっとどんな感触か気になってな、悪りぃ」)。上野は塾があるからと3回表で帰宅しようと試み、下園はベンチで寿司の出前を取ろうと企んでいた。恐ろしいことに、これは氷山の一角に過ぎなかった。試合は198-0でコールド負けを喫した。


 記念すべき仁馬山高校の初陣動画は、瞬く間にネットを通じて拡散し、西郷は一時期全国の笑いも……有名になった。あれほど勝ちにこだわっていた西郷も、さすがに涙ひとつ浮かべなかった。もちろん勝てるとは思っていなかった。むしろこれで勝てたら、野球に対する冒涜というものだ。


「しょうがないじゃない。話が急すぎて、何処とも合同チーム組めなかったんだから」


 試合後、東明未来は平然と言い放った。仁馬山高校野球部はまだ5人しかおらず、残りは他の部活から助っ人を頼んだのだった。


「試合に出ることが大事なのよ。何事も経験って言うでしょ。アレコレ考えてないで、とりあえずやってみたら、案外自分に足りないものが分かったりするものよ」

「あぁ……とにかく、野球を知ってる奴が足りないってのは分かったよ」


 西郷は苦々しげに吐き捨てた。やはり実戦不足は否めなかった。


 経験者が要る。

いや、この際野球をやったことがなくてもいい。他のスポーツの経験があるとか、日常的に野球を観ているとか、とりあえず何となくでも良いから、ルールを把握している奴が。どちらにしろもっと人数を揃えないと、練習試合もままならなかった。


 劇的な……何も間違ってはいない……試合が終わり、それから数日が経った。

西郷らは、公園にいた。

初戦敗退した彼らは、野球をすっぱりと諦め、面白そうだったから適当にゆる〜くバスケを始めた。今この瞬間、この物語は『熱血青春野球小説』から『日常系ゆるふわバスケット小説』へと生まれ変わった……訳ではない。これもれっきとした、野球部のための真剣な練習だった。


 紆余曲折あった。季節はもう、夏にさしかかろうとしていた。


「これも部員集めよ」


 未来が提案したのだった。

 彼女は一人コート脇のベンチに腰掛け、何やら難しそうな本を読んでいた。今日は休日なので、制服ではない。夏らしい淡いピンクのタンクトップに、ショートパンツ。それにつばの大きな麦わら帽子を被っている。日焼け対策をバッチリと施した白い肌が、キラキラと眩しかった。


「他校で燻ってる生徒を、引き抜くの」

「引き抜くったって……」


 西郷は首を傾げた。高校野球は、他校から転校して来た場合、一年間は試合に出られない。今からこっちに引き抜いても、試合に間に合わないんじゃないか……西郷の考えを見抜くかのように、未来が首を振った。


「違うの、野球部員じゃないの。サッカー部とか、バスケ部とか」

「野球部員じゃない?」

「つまりね。中学生まで野球部で、高校に入って進学とか色々都合があって、野球部に入らなかった人がいると思うの」

「あー……なるほど」

「規定では『転入学生であっても、前在籍校で野球部員として当該都道府県高等学校野球連盟に部員登録されていなかったものは、転入学した日から参加資格が認められる』のよ」

「はーん……」


 未来が読んでいた本を掲げて見せた。『日本学生野球憲章』だった。ゾッとした。いくら野球が好きだからって、そんなものをいちいち愛読するか? およそまともな高校生ではない。


「うるさいわね!」

「何も言ってねえよ」

「表情で分かんのよ、表情で!」

 とにかく、高校時点で野球部じゃなければ、転校生でも一年と待たずに試合に出られるようだった。


「それでサッカーとか、バスケって話か」

「贅沢言えば、ね。帰宅部でも良いけど、ブランクとか考えたら、できれば今でもスポーツしてる人が良いわ。中学で、野球部では万年補欠で、だから高校は別のスポーツに挑戦したなんて人も、きっといると思うの」


 あるいはその中で今でも、野球に未練がある高校生を。他校から引き抜いてしまおうと言うのだ。中学の時野球部で、高校では別のスポーツをやっていた奴ら。ウチの学校だけならそりゃ数は限られるだろうが、転校生もアリなら話は別だ。試合のたびに助っ人を呼ぶより、正式に入部してくれた方がこっちとしても心強い。それなら確かに、戦力は大幅に改善される。


「だけど……」

 西郷は食い下がった。果たして新生野球部のために、転校までしてくれる生徒が、一体何人いるだろうか?

「それに、向こうの部活は嫌がるんじゃないか? せっかく入部した貴重な一年をこっちに盗られる訳だろ?」

「だけど良い宣伝になったと思わない? この間の試合。全国ニュースだったわよ」

「そりゃ不滅の大会珍記録だったからな……」

「アレを見て、面白がって入ってくれる人がいれば、万々歳じゃない」


 未来がフッとほほ笑んだ。西郷は複雑な気持ちだった。アレを見て入ってくる奴らが、果たして、真剣に野球に取り組んでくれるだろうか?


「キャ〜! この条文、状況が目に浮かぶ〜!」

「…………」


 彼の心配を他所に、未来はひとり条文に興奮し始めた。

 西郷は諦めてバスケに戻った。とにかく、ここ数日、西郷たちは新たなチームメイトを探していた。今月から夏休みに入り、さらに合宿も始まる予定である。できるだけ人数は多い方がいい。それでこうして、わざわざ休日にサッカー場やバスケコートに乗り込んで、見どころのありそうな少年を物色スカウトしているのだった。


 雲間から太陽の光が差し込んで来た。フェンスの向こうを、虫取り網を持った子供たちが笑いながら駆け抜けていく。


「オイ、見ろよ」

 道行く少年少女たちが、西郷の顔を指差し、クスクス笑いを始める。

「『200点の男』だぜ」

 やめろ。人を防御率で呼ぶな。

「あ、知ってる。動画で見た」

「めっちゃ笑ったわ」

「ダッセェ」

「もう野球やめたの? 逃げたの?」

「おい、やめてやれよ」

 少年のひとりが大きな声を張り上げた。

「あの人はこないだの試合でひどくショックを受けて、野球をできない体にされてしまったんだ。それで仕方なくバスケをやってるんだよ」


 何言ってんだ、どいつもこいつも好き勝手言いやがって。西郷は無視して、フリースローに集中しようとした。だが手元が狂い、ボールは思いっきり違う方向へと飛んで行ってしまった。


 転々と転がるボールを、向かいのコートにいた青年が拾い上げる。

やたら背の高い、長髪の、ひょろっとした男だった。

青年は、ひとりでバスケの練習をしていた。あまりに背が違いすぎるので、西郷は最初、とても同い年とは思えなかった。だがよくよく近づいて見てみると、意外と自分と同じくらいだと気がついた。


「はい」

「あ……ども」

 ひょい、と渡されたボールを両手で受け取り、西郷が軽く頭を下げる。長髪の青年は、爽やかな笑みを浮かべ、軽い調子で西郷に話しかけてきた。


「バスケ初めて?」

「あ……はい。まぁ……」

 西郷は目の前の青年をマジマジと見つめた。

「楽しいよね、バスケ。だけど、仕方なくやるもんじゃないと思うけどな」

「え? いや……」

 会話を聞かれていたのだ。誤解だ、そう言おうとして、その瞬間、目の前から青年が消えた。


 西郷は目を見開いた。

消えた。

本当にそうとしか思えなかった。そもそも西郷は、両手でしっかりとボールを握っていたのだ。なのに、そのボールも無くなっていた。

「え?」

 青年に、ボールを取られていたのだ。いつの間に? 分からない。電光石火の早業だった。西郷が慌てて周囲を見回すと、青年は高々と空に舞い上がり、ダンクを決めているところだった。西郷は唖然として見上げることしかできなかった。


「うぉおおおッ!」

「かっけえ!」

「俺……俺バスケやりたい!」


 フェンスの向こうから、子供たちの歓声が上がる。青年は、拾ったボールを人差し指の先でくるくると回し、西郷を振り返ってニヤッと笑った。

 

「西郷くん」

「え?」

「頼みがある。君を見込んでここまで来た」

 どうして自分の名前を知ってるんだ。西郷は訝った。


「もっと君にバスケットの楽しさを知って欲しい……。そして、ウチのバスケ部に入部してくれないか?」

「え……え?」


 太陽が入道雲の間に隠れた。南風が、つかの間の涼しさを運んで来て、頬を撫でて行く。


 後から知ったのだが、彼は同じ仁馬山高校のバスケット部の一年生だった。同級生だったのだ。それが小祭帯刀こまつたてわきとの、初めての出会いだった。

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