14球目 野球は”合宿”だ!

 仁馬山高校の校長は、意気揚々とダグアウト裏を闊歩していた。

 先ほど試合は終了した。

 結果は惨敗だったが……校長の顔には、悔しさの一欠片も滲んではいなかった。むしろ彼はほくそ笑んでいた。


 これで心置きなく、野球部を廃止できる。


 校長にとって、大切なのは高校を全体で捉え、その存続・発展を考えることだ。生徒と一緒になって青春の汗を流すことではない。それは一見美談のようにも思えるが、校長と言う立場を捨てた、職権の放棄にもなりかねない。局所的な些末に囚われては、全体図を見損なう。それが彼の信条だった。ただでさえ少子化で、生徒の取り合いが始まっているのだ。注目度の高い高校野球など、万が一不祥事を起こしてしまえば、来年の入学生の数にも関わってくる。触らぬ神に祟りなし、だ。在校生には気の毒だが、この代には犠牲になってもらうしかない……。


「おや、校長先生」


 ベンチを目指して薄暗い廊下を歩いていると、目の前にぬっと大きな人影が現れた。縦浜高校の野球部監督・横山氏だった。横山監督は首にかかった黄色いタオルで汗を拭い、校長に近づいて来た。横山監督の、風船のように膨れ上がった巨体は、甲子園のテレビ中継などでもおなじみだった。横山監督と校長は、数十年来の付き合いがある。


「やぁ、これはこれは横山さん」

 校長はさっと表情を作り、手を差し出した。

「この度はわざわざ試合を組んでいただき、ありがとうございました。いやぁ〜……参りました! 手も足も出ないとはこのことです。序盤こそ、これはまさかと夢見ていましたが……」

 白い歯を浮かべ、美辞麗句を並べ立てる。本当は試合すらまともに見ていなかった。さも悔しがるような口振りだったが、本心では負けてよかったとすら思っている。とはいえ、一応の社交辞令は校長も当然心得ていた。


「流石、横山さんのチームですな。攻守ともに隙がなく……」

「いえいえ、こちらこそ勉強させていただきました」

「またまたご謙遜を……」


 横山監督が握手に応じた。監督とて、校長のお世辞を一々真に受けたりはしない。本題は別にあった。横山監督の目が鋭く光った。


「そういえば仁馬山高校の投手……西郷にしさとくんでしたかな? 彼は中々いい球を投げていた」

「は? はぁ……それはどうも」

 剥き出しのコンクリートに埋め込まれた蛍光灯が、最後の力を振り絞ってバチバチ鳴った。

「いやぁ、うちのチームにあれだけ投げれれば大したものですよ。特に一巡目は見事だった。正直言って、2桁得点は固いと思ってましたからね」


 横山監督が頬をプルプル震わせて笑った。校長は内心首をひねった。野球に関していえば、横山監督はお世辞を言う方ではない。2桁得点を狙っていたというのも、あながち嘘ではないだろう。事実、地方予選では縦浜に大量失点して負けて行く弱小校を何度も目にしている。ウチのチームを褒めに来たのか。監督の本題は一体何なのだろう?


「まだ一年生ですか。いやぁ、実に惜しいですな」

「はぁ……」

「西郷くん、縦浜に来てくれないかなぁ」

「え?」


 突然の申し出に、校長が面食らった。今何と言った? あの生意気な一年坊を、縦浜に……?


「聞きましたよ。おたくさん、今度三年間は野球部作らないんでしょ?」

「え? えぇ……どこでその話を?」

「だったらもったいない。せっかくの選手が、宝の持ち腐れだ。縦浜に転校してくればいい」


 横山監督は至極真面目な顔でそう言った。どうやら本気のようだった。


 高校球児の場合、転校したら一年の試合出場停止期間が設けられる。他の競技では約半年であり、これが長いか短いかの議論はともかく、

「……そうすれば少なくとも、一年後には試合に出られる訳だ」

「は、はぁ……」

「三年間棒に振るよりはずっといい。彼は中学時代、そこそこ名の知れた投手だったようですな。最後の夏は、一回戦負けだったようですが……生徒から聞きました。一年間うちでみっちり鍛えれば、彼は数年後、きっと全国で活躍する選手になりますよ」

「全国……?」


 監督の言葉に、校長の目が揺らいだ。


「本気ですか?」

「もちろん。優勝だって夢じゃない。今や甲子園じゃ、一人のエースが全試合投げるんじゃなく、複数の投手を上手く起用してる高校ところが勝ち上がってますから。時代ですなあ。ともかく、投手の確保は常に至上命題なんです。飼い殺しにしたり、他所に取られてしまうくらいなら、いっそ縦浜にくれませんか?」

「甲子園、優勝……」

 校長は唖然とした。途方も無い言葉に聞こえた。しかし他でもない縦浜の横山監督が言えば現実味がある。ウチのような弱小校と練習試合を組んだのも、最初から青田買いの算段だったのかもしれない。監督が含み笑いをした。


「えぇ。縦浜だって、ここ数年は優勝から遠ざかっていますからね。強豪校は何処も選手集めに必死だ。うちだって負けてられない。優勝すれば、当然全国からいい選手が集まってくる。なんせ全国的に、大々的な宣伝になりますから。すごいですよぉ……」

「全国的に、大々な宣伝……」

「如何ですかな? 校長」


 再び監督が目を光らせた。おっとりとした風貌に似合わず、その目の奥は、その頭脳は常連校を何度も優勝に導いた智将のそれだった。校長はその場に突っ立ったまま、しばらく無言で逡巡していた。彼の頭の中で、危険リスク報酬リターンの天秤がゆらゆら揺れ動いた。


□□□


 しばらくして、雨は上がった。どうやら通り雨だったようだ。

 西郷は俯いたまま、三塁側ベンチで黙々と道具を片付けていた。


 ベンチには沈黙が立ち込め、重たい空気が漂っていた。安前も、他のメンバーもしばらく無言だった。慰め合いはここでは役に立たない。練習試合とはいえ、絶対に負けてはいけない試合だったのだ。その重みは、ここにいる全員が一番分かっていた。これで西郷は、高校生活の三年間、野球をする術を失った……。


「おい……」


 不意に安前が西郷の肩を叩いた。西郷が顔を上げると、いつの間にかベンチ前に、校長が仁王立ちしていた。西郷たちに一気に緊張が走った。


「…………」


 校長と西郷は、しばらく黙って見つめ合った。雨に濡れた土の匂いが鼻をくすぐった。校長は腕組みをしたまま、長らく喋ろうとしなかったが、やがて重々しく口を開いた。


「……なかなかいい試合だったじゃないか」

「…………」

「一巡目は、良かったよ。うん……しっかり抑えられていた」

「…………」

「しかし……アレだな。負けは負けだ。君は負けたままでいいのか?」

「え?」


 西郷は思わず自分の耳を疑った。校長が何を言わんとしているのか、彼にはすぐには理解できなかった。校長は煩わしそうに眉を吊り上げた。


「だから君は、負けたままで満足なのかと聞いているんだ」

「それは……」

 西郷は口ごもった。てっきり校長は、野球部の廃止を通達しに来たとばかり思っていたのだ。しかし話を聞いていると、どうもそうではないらしい。


「悔しいだろう。一年間みっちり鍛えて、やり返したいとは思わんのか」

「え??」

「その……なんだ。今後一年の期間限定であれば、野球部の創設を

「え……」

 今やベンチの全員が動きを止め、校長の話に聞き耳を立てていた。

「それでもし、結果が出れば、あー……その後も部の存続を考えよう。結果が出れば、の話だ。結果がでなければ、もちろん部は廃止になる」

「それって……野球部を作ってもいいってことですか?」


 西郷はぽかんと口を開けた。にわかには信じられなかった。あれほど野球部に否定的だった校長が、自ら創設を申し出ている。一体どういう風の吹き回しなのだろうか。校長は咳払いを一つした。


「勘違いするな。弱い野球部に用はない。仁馬山ウチが欲しいのは、強い、勝てる野球部だ。君にできるかね?」

「そりゃ……」


 ついさっき、縦浜にコテンパンにやられたばかりである。自分たちが強いだとか、「勝てる」だなんて今すぐにはとても言えない。俯く西郷を、校長が睨んだ。


「どうなのかね? 君にはまだ勝つ気はあるのか? 甲子園で優勝すると言ったのは、あれは本気だったのかね? たかが一回負けたくらいで、もう君の野球人生は終わりか。君の野球にかける想いは、所詮その程度だったのか」

「そんなこと……! 俺だって、そりゃ悔しいですよ。このままじゃ終わりたくない。勝ちたいと思ってます!」

 校長の口ぶりに、西郷は思わず声を荒げた。

「だったら強くなることだな」


 校長は厳しい表情のままそれだけ言うと、踵を返した。


 西郷は、狐に摘まれたような気分だった。校長の台詞とは思えなかった。負けた部活生に対し「強くなれ」だなんて……まるで野球に情熱を燃やす熱血漢だ。この前と全くキャラが変わっている。


「良かったじゃねえか」

 しばらくして、安前が沈黙を破った。西郷はまだ戸惑ったままだった。

「なんなんだ……」

「さあ、な。俺たちの試合を見て、野球の面白さに目覚めたんじゃないか?」

「んな……有り得ねえ。あの校長だぞ」

「でもこれで、野球出来るんだろ?」

「…………」


 安前が白い歯を見せた。西郷は安前をじっと見つめた。彼の言葉に、西郷もようやく実感が湧いて来た。試合は負けた。だけど何とか、何とか校長の気まぐれで、部活動は続けられそうだった。徐々に胸の奥から喜びが湧き上がって来て、彼は思わず叫び出しそうになった。


「見ろよ」

 安前が一塁側ベンチを指差した。

 視線を向けると、そこではスコアブックを抱えた未来が、何やら楽しげに相手監督と会話していた。縦浜の、横山監督だ。西郷もテレビや雑誌でその顔は知っていた。そんな有名な監督と、早速仲良くなっている。横山監督は、まるで孫娘を相手にしているかのように表情を緩ませていた。西郷は舌を巻いた。


「ああ言うのって言うのか……彼女、そう言うの上手そうだよな」

 

 西郷と安前がヒソヒソ話をしていると、こちらの視線に気づいた未来が駆け寄って来た。


「どうしたの?」

 ジジイ殺しの現行犯が小首を傾げた。西郷は顔を綻ばせた。

「どうしたもこうしたも……聞いて驚くなよ。何とあの校長が、野球部の創設を認めた」

「へぇ!」


 未来は目を丸くした。西郷は首をひねった。


「何の話してたんだ? 縦浜の監督と。縦浜だぞ、お前。縦浜って言えば……」

「別にィ。私はただ、普通に監督と世間話してただけ」

「ふぅん……?」


 未来が含み笑いをしてはぐらかしたので、西郷はそれ以上尋ねなかった。

「それより……」

 今度は逆に未来が西郷に尋ねた。


「どうだった? 実際に縦浜と試合してみて」

「どうって……そりゃ、強かったよ」

 西郷は肩を落とした。疲れがどっと押し寄せて来た。


 試合に負けると、毎回荒れに荒れるのが西郷のお決まりだったが、今回は不思議と怒りも湧いて来なかった。怒る気にもなれない。それほどまでに、実力差を見せつけられたのだ。別に自分の状態が悪かったとかでもない、力を出し切って、それでもなお及ばなかった。


 初めて肌で感じた『全国』という壁に、西郷は正直無力感でいっぱいだった。野球部を創設できるのは確かに嬉しいが……校長の言うように、全国でちゃんと「勝てる」ようになるまで、あと何がどれだけ足りないかも分からない。道のりは険しいなんてものではなかった。たった三年では、とても短すぎるように思えた。

 

「そう。だったらさ」


 意気消沈する西郷を見て、未来がにっこりとほほ笑んだ。


「合宿をしましょう。これからもっと練習しなくちゃ。ね?」

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