五回表 縦浜 VS 仁馬山・東海大付属連合

 白球は曇天の中に吸い込まれ、そのまま軽々とフェンスを越えた。


 実に呆気ないものである。電光掲示板の数字が、すぐに『0』から『1』へと変わる。打った打者バッターは満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと二塁ベースを回っていた。ワンテンポ置いて、相手ベンチから、そして観客席から大歓声が巻き起こる。歓声はやがて唸りを上げて、グラウンド全体に容赦無く降り注いだ。勝者には祝福の賛美歌のように。そして敗者には、無慈悲な呪詛のように。


 西郷はマウンドで呆然としたまま、白球の行方を、どこか他人事のような気分で眺めていた。頭では理解していても、感情がまだ追いついていないのである。


 完璧に捉えられたホームラン。

 あれほど苦労して返した1点を、あっという間に、たった一球で取り返されてしまった。


「……っ」

 やがて。彼は唇を噛んだ。

 確かに不用意だったとはいえ、得意球のパワーカーブ。コースも決して甘くはなかった。なのに、結果はホームランである。相手の4番打者が、西郷より一枚も二枚も上手だったと言わざるを得ない。


 やっぱり、縦浜相手には俺の『パワー』は通用しないのか……。


 彼は顔を暗くした。西郷の中で、これまで保ってきた緊張の糸が、プツリと切れたような気がした。


「まだ試合終わってねーよ」

「安前……」

「カーブ待ってる相手に堂々とカーブ投げりゃあ、そりゃ打たれるわな」


 気がつくと、捕手キャッチャーの安前が西郷の元へと歩み寄っていた。安前は笑っていた。


「どうやらサインのパターンが読まれ出したみたいだな。さっすが強豪校だ」

「…………」

「これからは当初の作戦捨てて、フツーに、打者ごとに組み立てて行こうか。守ってる連中にもそっちのがいい守備練になんだろ」

「でも……」

「あんま気にしすぎんなよ。1点は1点だ」

 安前が西郷の肩をポンと叩いた。


「嬉しいだろ?」

「は……?」


 安前は白い歯を見せてニッと笑った。西郷には意味が分からなかった。ホームランを打たれて、嬉しい投手などいるはずもない。


「何言ってんだよ」

得意球パワーカーブが通用しなかった。自分より強い奴らが、まだまだこんなにいるんだぜ?」

 安前が縦浜ベンチを見渡して言った。相手ベンチはホームランを打った打者を祝福し、大騒ぎだった。

「全国には、多分もっと。そう言う奴らとさ、思いっきり戦える舞台なんだ、高校野球ってのは。こりゃ当然燃えるよな」

「……普段気取ってっけど、意外とそー言うとこロマンチストだよな。お前って……」


 西郷は呆れて、思わず吹き出してしまった。

 『自分より強い奴に会えて嬉しい』とは、安前の風貌には似合わない、何とも男臭い理屈である。西郷はだが、安前ほどまだ人ができていなかった。


 『強い奴に会えて嬉しい』だけではなく。

 『自分より強い奴に会えて、なおかつ、』のである。


 負けたら何にも面白くない。それは投手としてのさがだろうか。それとも、西郷自身の性分しょうぶんがそう思わせるのか……安前は、西郷の一度切れた緊張の糸を結び直すかのように、新しい白球をしっかりと握らせた。


「ここは切り替えよう。しまって行こうぜ、西郷サト


 ……しかし、安前の言葉とは裏腹に、試合はそれから一方的な展開となってしまった。



 強豪・縦浜相手に『足』で引っ掻き回すスピード勝負に出た連合チームだったが……単純な話、横綱はそれ以上に


 何が?


 それは単に足の、走る速さだけではない。


 たとえば、打球速度が。

 たとえば、試合の状況判断が。

 守備の一歩目が。

 捕ってから投げる球が、連携の動作が。


 何もかもが、縦浜はのである。


 攻守交代時には、縦浜の選手はベンチから脱兎の如く駆け出して行く。もちろん戻る時も全速力だ。平凡な内野ゴロでさえ、彼らは一塁まで手を抜かず走った。


 連合チームがやろうとしたことを、縦浜は至極当たり前のこととして、彼らの目の前でやってのけたのである。これには西郷も未来も、閉口するしかなかった。この日までに必死に準備してきた彼らの戦略カラーは、文字通り相手の下位互換でしか無かったのである。


 たとえば、守備。

 球が内野に飛んだ時。あるいは外野に飛んだ時。

 ポジション別に誰がどう動くか、

 どの選手がどこをカバーすればいいのか、

 打球が上がった瞬間、状況を選手全員が理解している。


 そう言う動きである。


 一球一球に対して、練習量に裏付けされた最適な反応がある。


 どの選手も、一連の動作がしなやかで、迷いもない。試合中に何度か、連合の選手たちは縦浜の動きに見惚れてしまうこともあった。経験者の西郷や安前でさえ呆気に取られる華麗なプレーが何度かあった。これでは『行けたら行くグリーンライト』どころか、常時『思考停止レッドライト』状態である。点差以上に実力差をまざまざと見せつけられたような形だ。こうなると試合は当然、そのままズルズルと縦浜ペースへと流れて行った。


「これが、全国の力……」


 8回の裏。


 点差が7−1に開いたところで、西郷はベンチに腰掛け、思わず呻いた。空はすっかり暗雲に覆われ、ポツポツと、細い小雨が降り始めていた。隣で未来が、西郷の顔を覗き込んだ。


?」

「……悔しいに決まってんだろ」


 西郷は下を向いたまま吐き捨てた。彼の顔から、まだ闘争心が失われていないのを見て、未来は一人満足げにほほ笑んだ。


 最後の打者は、皮肉にも西郷自身となった。

 相手の抑えは、同じ一年生投手。ほんの数ヶ月前まで中学生だった(西郷もそれは同じだが)あどけない顔とは裏腹に、胸元を抉る豪速球を何度も何度も投げ込んできた。それでも西郷は強引に振りに行き、大根切りのようにして内角球を叩きつけた。


「サードッ!」


 縦浜の4番・サードが、軽快な動きでイレギュラー・バウンドしたゴロを難なく捌き、矢のような送球を一塁に放り投げる。ゲーム・セット。それと同時に、大歓声がグラウンドを包んだ。スコアボードに、覆しようのない数字が刻まれる。


 縦浜 7−1 仁馬山・東海大付属連合


 文句のつけどころもない、西郷たちの完敗であった。


 番狂わせもない。西郷のパワーカーブも、通用したのは、結局一巡目までだった。


 敗因はいくらでも挙げられるだろう。


 準備不足。

 経験不足。

 単純な力量差……しかしそんなことは、誰に言われなくとも、西郷たち自身が身を以て痛感していた。


「負け、た……」


 西郷は一塁ベース付近に立ちすくみ、縦浜ベンチの盛り上がりを呆然と見つめていた。再び、の時間が始まった。理解と、感情の。頭では現状を理解している。しかし、心はまだ遠くの方で……。


「負け……」


 もう一度、西郷は己に言い聞かせるように喉を震わせた。

 雨脚が強まって来た。曇天の空には一筋の光さえ見えず、細やかな瑞雨ずいうがグラウンド全体に降り注いだ。ある者には勝利の美酒のように。またある者には、その頬を伝う、熱のこもった涙のように。



 問題はここからである。

 仁馬山高校の野球部が正式に発足するには、どうしてもこの試合に勝たなくてはならなかったのだ。


「さて、さて……」


 歓喜の輪に包まれるアルプス・スタンドで、先ほどからつまらなそうに試合展開を見ていた仁馬山の校長が、一人ほくそ笑んだ。


「約束は約束だ」


 校長がゆっくりと腰を上げた。それを見て、未来は素早く立ち上がり、踵を返した。

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