四回裏 縦浜 VS 仁馬山・東海大付属連合

 ピンチの後にチャンスあり。そしてこの試合、初めてと言えるチャンスが西郷たちに訪れた。


 先頭打者の三井が死球デッドボール


 元々小柄だった三井が、ホームベース上に被さるように、死球上等の構えで打席に立ったのだ。縦浜の2番手投手・湯川はそれに臆することなく内角を突き、結果は上記の通り。三井は少し痛そうに脇腹をさすりながら、それでも満足げに一塁ベースで白い歯を見せた。どんな形であれ、これでランナーが出たのだ。


 続く2番の捕手・安前がきっちり一塁側にバントを決め、ワンナウト2塁。

4回の裏にして、連合チームが初めて得点圏にランナーを進めた。


「ここよ」


 未来が静かに呟いた。西郷も黙って頷いた。握り拳の中に、自然と脂汗が滲む。序盤から中盤にかけての、一つのターニングポイントだ。この回、2塁ランナーを本塁ホームに帰せるかどうかで、試合の流れは大きく変わってくる。


 この一ヶ月、嫌と言うほど『走塁』に特化して練習してきたのは、まさにこう言う場面のためだ。弱いチームほど、連打は期待できない。ワンチャンスワンヒットをものにして得点しなければ、いつまで経っても無得点のままだろう。


「全力で振り切れよ!」


 先ほど見事送りバントを決めた安前が、ベンチから声を張り上げた。3番・田島は黙って深く頷いた。得点圏にランナーがたまると、基本的に外野手は前進守備を敷く。失点を防ぐためだ。ここでホームランなんて贅沢は言わなくても、上手いことフライで頭を越えれば、喉から手が出るほど欲しかった1点が手に入る。西郷たちも、自然とベンチの前に身を乗り出し、息を飲んで田島の打席を見守った。


 2番手にマウンドに上がった湯川は、

左のサイドスロー

、いわゆる変則型投手だった。脚をプレートの一塁側ギリギリに乗せ、腕を目一杯伸ばして横から放たれる白球は、右打者にとってはまるで真横から向かってくるようでだった。これが左打者になると、背中から突然にゅっ! と球が飛び出してくる感じだ。

残念なことに、田島は左打者だった。

視線は無意識に球の出どころを追い、開いた感じの打撃フォームになり、体勢を崩された。それでも田島は懸命にバットを振り抜いた。しかし、草刈り鎌のようにストンと弧を描く湯川のカーブに、彼のバットは虚しく空を切った。


「悪ぃ」

「ドンマイ」


 悔しそうに顔を歪める田島に、4番の野々原が小さく慰めの言葉をかける。真中かなめが急いでタオルを差し出した。

 これでツーアウトだが、まだチャンスは続く。2–0と2–1では、これから後半戦にかけての余裕も随分変わってくる。何よりあの縦浜相手に得点を挙げることができれば、チームの士気も大幅に上がるに違いなかった。


 しかし思えば、その時点で西郷たちは、精神的に負けていたのだった。相手は全国常連の強豪校。「負けて元々……」と言う意識は、プラスに働けば思い切りの良さに繋がるが、しかしマイナスに働けば諦めの早さにも変わってしまう。


 何より勝負事では、相手を畏れ見惚れているようでは、そもそも勝てるはずもない。これまでの一ヶ月で、未来と共に『勝ち』に行く戦略を練っていたはずの西郷たちだったが、ビハインドになった時点で相手を見上げ、追いすがるような形になってしまった。

確かに強豪ではある。

しかしどうしても勝たなければ、西郷たちは、部の創設さえ危うい立場にあるのだ。この「どうしても」の意識が、どうにも抜けてしまった。ましてや助っ人である東川大のメンバーに至っては、尚更である。


 連合チームに見えないミスが出たのは、そんな状況下である。


 4番の野々原が、湯川のスローカーブを強引に振り抜いた。芯を外された打球は、それでもフラフラと青空を彷徨い、三塁手の頭を越えレフト前にポテンと落ちた。3塁ベンチはたちまち爆発したように歓声が巻き起こった。待望のヒットである。2塁ランナーは迷うことなく3塁を蹴り、快足を飛ばしホームへと突っ込んだ。


 ポテンヒットでの走塁、打球判断。これは、西郷たちが猛練習した場面だった。

別名『テキサスヒット』と呼ばれる、内野手と外野手の間に落ちるこの弱々しい当たりは、打球判断が実に難しい。観客席で離れて見ている分には、どの辺に落ちるか遠近感もバッチリ掴めるだろう。しかし実際に塁上、ランナーの目線で打球を追うと、果たしてそれが落ちるのかそれとも取られるのか、非常に判断しにくいのだった。


 打球の行方を目で追いながらでは遅い。それで三塁の外側に立つコーチャーが、腕を回したり手で制したりして、ランナーに的確な指示を出さなければならない。その判断練習を、西郷たちは文字通り死ぬほど行った。ランナーは打球ではなく、コーチャーの腕を見て進むか戻るか決める。その時の3塁コーチャーは河南だった。結果的に落ちてヒットになったのだから、素人とは言え、河南は的確な判断を出した。


 問題は野々原だった。

 チーム待望の一打を放った彼は、鼻息荒く一塁を蹴り、あわよくば次の塁を狙おうと大きくリードを取った。積極的に次の塁を狙う。それはチームの方針であり、間違いではない。だが、裏目に出た。王者・縦浜は、相手が浮き足立った、そのほんの一瞬の油断を見逃さなかった。オーバーラン。外野手は本塁ではなく、一塁に矢のような返球を返した。


 敢えなく一、二塁間に挟まれた野々原は、途中で力付きタッチアウト。1点は返したものの、これで攻守交代である。


 この時、ランナーを残していれば……初得点でイケイケだった仁馬山・東川大連合の勢いはそのまま続いていたかもしれない。そんな流れを断ち切る相手外野手の好判断、そして連合チームにとっては目に見えない、手痛いミスであった。


「上出来よ」

 未来は努めて明るい声を出した。


「1点返したんだから。あの縦浜相手によ」

 それは本来の彼女であれば、口にしない言葉だったろう。北方たちは飛び跳ねたが、西郷は素直に喜べなかった。引き締め役である未来が、先ほどからずっと励まし役に回っていることが妙に胸に引っかかっていた。逆に言えば、それほどまでに追い込まれていると言う証でもあるのだ。


 4回裏を終えて、得点は2–1。空には少しづつ、暗雲が立ち込めつつあった。


「まだ何も終わっちゃいねえよ」

 安前がそんな西郷の背中をポンと叩いた。


「さぁ中盤戦だ。しまって行こうぜ」


 そのすぐ後だった。

 5回の表、縦浜の攻撃。カラッとしない気持ちのまま、不用意に投げた一球。西郷のパワーカーブを、縦浜の4番打者が完璧に捉えた。得意球を狙い撃ちされたのは間違いなかった。上がった打球は雲を突き抜けんばかりに、一直線に糸を引き、あっという間にフェンスの向こうへと消えて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る