第一章 3

 遥がインターホンを鳴らしてしばらくすると、千代崎賢人――通称『おじさん』――が玄関から顔を出した。いつものようにリビングへと案内され、ふかふかのソファに座った。いつ来ても広いリビングだ。ソファの先にはテーブルを挟んで、大画面の液晶テレビが今日のニュースを報じている。背後には大きなオープンキッチン。その隅には葉の大きな観葉植物が天井に向かって生き生きと伸びをしている。ぼくの家とは大違いだ。しかしそれらを差し置いて、ぼくが初めて来たときに一番驚いたのは、なんといってもこれだろう。ソファから真上を見上げると感じる解放感。そう、吹き抜けだ。二階まで続くそれは、西日を余すことなく部屋に取り込み、リビングを電気なしに明るく照らす。吹き抜けの中心でゆっくりと回るシーリングファンがこれまたお洒落だ。


 おじさんはオープンキッチンの後ろの棚に飾られた保存瓶から、大量のクッキーやチョコレートを取り出し木皿に盛り付ける。冷蔵庫から出したジュースと一緒に木皿を遥の前に置くと、遥は目を輝かせながら一口パクリ。あまりの美味しさに悶絶した。その様子を見ながらおじさんは、


「遥ちゃん、いい加減インターホンを連打するの止めておくれよ……びっくりするからさ」

「えー、はやくおじさんに会いたいし、いっぱい押したらはやく出てきてくれるかなって」

「一回押してくれたらすぐに行くよ……あと何度も言うけど『おじさん』じゃなくて『お兄さん』ね。僕はまだ二十九歳だ」

「おじさんはおじさんだよ。私が溺れたところを助けてくれた時から、おじさんはおじさんになってしまったんだよ!」

「いや意味わからないし助けた僕損!?」

「むしろお得だよ! ほら、こんな美・少・女と一緒にお茶できるんだからー!」

「ははは……それはまぁ、そうなのかな?」


 おじさんは困ったような表情で苦笑いしながら頭を掻く。


 遥の肩を人差し指でつついて、


あんまりおじさんを困らせちゃダメだよ、遥。いつもお世話になってるんだから。

「むー、わかってるよー、冗談だよ、冗談」

「遥ちゃん。あっくん、なんて言ったの?」

「へへ、あっくんに怒られちった」


 もちろん、おじさんは遥のようにぼくの口や仕草で内容がわかるはずもなく、また手話も知らない。カバンから筆記ボードとペンを取り出して、先程の会話——というかほとんど念話だが——を速筆し、おじさんに見せた。


「あっくんは優しいね、ありがとう。でも気にしないで良いよ。遥ちゃんやあっくんと話すのは僕も楽しいしね!」

「……むー」


 遥は少し気恥ずかしそうにムズムズと動いた。どうやら遥と話せるのが楽しいと言われたことが嬉しくて照れているようだ。彼女はジュースを一息に飲み干して立ち上がり、


「トイレと探検!」


照れを隠すかのようにリビングからどたどたと走り去っていく。その様子をおじさんは微笑みながら眺めている。


 ちょうど良い。前から疑問に思っていたことがある。おじさんの事について聞いてみよう。遥がいると話が脱線しがちだからな。

 筆記する。


おじさん。不躾な質問だけど、いい?

「ん? どうしたんだい? 何でも聞いてくれて構わないよ」

おじさんはこんなに大きな家で、いつも一人で暮らしてるの?

「ああ、そうだよ。僕の両親は小さい頃に亡くなってね。その後この家の持ち主だった母方の祖父母に引き取られたんだ」


 おじさんは少し悲しそうな表情をする。


「でも僕が大学生の頃にその二人も事故で亡くなってね。だからこの家に住む人は僕だけになっちゃったんだ。まったく、死神でも取り憑いているんじゃないかと思ってしまうよ」


 思っていた以上に重い。重すぎる。てっきり両親が海外出張でいないだけとか、そのくらいにしか思っていなかった。まずい。なんて返答していいかわからない。どうする。


 困っているぼくを見て察したのだろう。おじさんが続けて口を開く。


「ま、じいちゃんたちがこの家を遺してくれてくれたから、僕は住む所に困らないし。それにあっくん達とひきあわせてくれたんだ、とも思っているよ」

おじさんはすごいね。


 おじさんが微笑む。正直、本当にすごいと思った。ぼくの身近な、例えば父さんや母さん、遥がもし死んでしまったら。考えるだけで胸が痛くなる。こんな痛みをおじさんは何度も経験して。それでもなおこうして笑うことが出来て。ぼくには、できないだろう。


「ふふ、こう見えてもおじさんはいろんな経験をしているんだよ。あっくんも、困ったことがあったらなんでもいいなよ。いつでも相談に、乗る、から……」


 なんだ? 言葉が途切れ途切れになりつつおじさんが徐々にしかめっ面になっていく。


「僕、今自分で自分のことを『おじさん』って言ってしまったあぁ! いつもあっくん達にそう呼ばれてるから写っちゃったじゃないかー! 僕はまだおじさんではない。断じて、そんな年齢ではない……」


 その悶絶する姿に、不覚にも笑ってしまった。腹筋が痛くなるほどに。


「あ、笑うなんてひどいなぁ」


 と言いつつも、おじさんも笑い出す。ひとしきり笑った後、おじさんは一口ジュースを飲むと、先程までとは違った真面目な様子で口を開いた。


「……でも、本当に良かったよ。遥ちゃんがあんなに元気になってくれて。事件があった後の1年間なんて、全く感情を表に出さなかったのに」


 筆記する。


それもこれもおじさんが遥を支えてくれたおかげだよ。ありがとう。

「いや、僕なんてこれっぽっちも役に立ってないよ。むしろあっくんがいつも遥ちゃんの隣に居続けてあげたから、あれほど明るくなれたんだと思うよ」


 おじさんは少し間を開けて続ける。


「遥ちゃんもそうだけど、あっくんも――」

「きゃああぁぁ!」


 遥の悲鳴だ。それと共に次々と物が落ちる大きな音が響いてきた。ぼくたちはお互いに顔を見合わせた後、即座に立ち上がり声のした方へ疾走する。リビングを出て階段を駆け上り、吹き抜けの側の通路を直進。ドアの開け放たれた部屋に入った。


 遥は床に倒れて右腕を押さえていた。周りには大きなラックから落ちて角のひしゃげたダンボールと、その中に収納されていたであろう本やDVDが散らばっている。


 その様子を見たおじさんが、驚きつつも若干顔をしかめ、ため息をついた後、


「大丈夫?」


 と言って、遥を優しく抱き上げた。


 遥へ駆け寄る。右腕を見ると、少量だが出血していた。おそらくダンボールか何かで切ったのだろう。


「いたた……ダンボールが気になって降ろそうとしたら、落ちてきちゃった」

「まったく! 人の物を勝手に触ろうとするからだよ! 今後は勝手に触るのはだめだよ! 特にあの箱はね!」


 ……あー、確かに。あの箱は触られたくないだろうなぁ。


「とりあえずリビングに戻ろう。腕の治療をしないとね。——ほら、あっくんも行くよ!」


 散らばった本やDVDを眺めていたらおじさんに急かされたので、部屋から出ていく。


「……おじさん」

「なんだい?」

「あんなにたくさんの本やDVD。おじさんって、実はすごくえっちなんだね。四年間も一緒なのに、全然気づかなかったよー」


 遥は自分が心配されて抱き上げられているのを余所に、意地悪な笑みを浮かべながら言った。おじさんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「お、男はみんな持っているものなんだよ! なぁ、あっくん?」

いや、ぼくに言われても……


 苦笑いで返答する。


「あっくんはそんなもの見ないよー! ちゃんとお部屋はリサーチ済みです! えっへん!」

いつの間に!? ないものはないけど、ぼくの知らない間に探し回るなんて、この性悪女め……あとそんなことで無い胸張って威張るな!

「あっくんはまだ子供だからね。でももう少し大きくなったら——」

「それで、おじさんはどんなモノが好きなの? ねぇねぇ、言ってみー?」

「だぁもう! 僕のことは放っておいてくれ!」


 おじさん、今日は散々な日だな……。

 その後リビングに戻ったおじさんは、遥をソファに降ろした。「ちょっと待ってね」と言って、救急箱を取りにリビングを出ていく。


「いやあ、あっくん、心配かけてごめんよ」

まったくもって本当に。遥はトラブルに巻き込まれやすい――いや、トラブルメーカーなんだから。もっと慎重に行動してくれるとありがたい。

「そこまで言うことないじゃんよー。もう、あっくんのいけずぅ」


 遥は頬をぷくっと膨らませ、口を尖らせる。


 まさかとは思うが、気付いていないのか? 道を歩けば何もないところで転んで、はたまた犬を発見して近寄っていったら噛まれて。生傷の絶えない彼女にいつもひやひやとさせられているぼくからしてみれば、十二分にトラブルをメイクしているように思うが。


 いや、メイクというよりも、エンカウントと言った方が適切かもしれない。遥の周りでは、とにかく色々なことが起こりすぎる。まるで周囲の不幸を一身に背負うが如く。そういう星に生まれてしまったと言ってしまえばそれまでだが、何かの力が働いているかのような違和感を感じずにはいられない。おそらくぼくの勘違いだろうけど。


 「おまたせ。痛かっただろうに。さぁ、傷を見せてごらん」


 救急箱を持ってきたおじさんが、箱から消毒液を取り出しながら言った。腕の傷口に消毒液を塗り、遥が「いたたたた!」と悲鳴をあげるも、「もうすぐおわるよー」と余裕な様子でガーゼを当てていく。おじさん、傷の手当て手慣れているなぁ。


「はい、終わり!」

「もう、おじさん! もっと優しくしてよー! 痛すぎ!」

「えぇぇ!? これでもなるべく痛くないように手当てしたんだけどなぁ。もっと褒めて欲しいくらいだよ」


 二十九歳とは思えないような物言いにまた吹き出してしまった。それを見た遥も続けて笑い、おじさんも「なんだよー」と言いながら笑った。


 今こうやって笑えることができて、本当に良かったと思う。やっぱり遥には笑顔で過ごしてほしい。そのためならぼくは——あれ? そういえばおじさん、さっき何か言いかけてなかったか?


 おじさんが遥の治療を終えて一息ついたタイミングで、筆記ボードを見せる。


おじさん、さっき何か言いかけてなかったですか?

「いやぁ、大したことじゃないんだけど、事件の後初めてあっくんと会った時、とても苦しんでいるように見えたんだ。でも時が経つに連れて、遥ちゃんと同じように明るくなっていって。悩んで悩んで悩み抜いて、ようやく君も笑えるようになったんだな、と思ってさ」


 おじさんの言葉に、心臓がどくん、と跳ねた。鼓動が瞬時に速くなる。あの時の記憶がつい昨日のことのように鮮明に思い起こされる。息苦しい。おじさんはよく人を見ている印象だけど、そこだけは間違っている。


 未だあの事件のことを乗り越えられてなどいない。責任を忘れて逃げ続けているだけだ。

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