第一章 4

「おじさん! ありがとー! お菓子美味しかったよー!」

「はは、喜んでもらえて嬉しいよ。また補充しておくから、いつでもおいで」

「うん! じゃあねー!」


 遥は満面の笑顔で別れの挨拶を済ませた後、踵を返しておじさんの玄関から出ていく。一度軽くお辞儀をした後、遥の後を追った。


 気付けば太陽は西の空に消え、辺りは夕闇に染まっていた。閑静な住宅街に響くけたたましいカラスの鳴き声が、何となくぼくを寂しい気持ちにさせる。若干肌寒い晩秋の夕方だった。ぼくと遥の家までは歩いて約三十分。道半ば頃にはもうすっかり夜で、街灯の灯りを頼りに家路を急ぐ姿が容易に想像できる。

 ……今よりももっと寒いだろうな。寒いの苦手なんだよな。ちょっと長く遊びすぎた。


「くっそー、おじさんめ! なんであんなに強いんだよー、もう!」


 唐突に遥が口を尖らせて言う。おそらく怪我の治療の後にやったレーシングゲームの事だろう。


「だいたい、ショートカットとかズルくない!? やっとのことで追い抜いてもいつの間にか前にいるし! 正々堂々ちゃんとした道で戦えってんだー!」


 まぁ速さを競うゲームなんだから仕方ないといえば仕方ないんだけど。というか問題はそこじゃなくって。遥は恐ろしくゲームが下手くそすぎる。それに合わせて遊んでくれていたおじさんを、遥が挑発するからいけないんじゃないか。おじさん、若干ムッとしていたし。


………………。


 思っても口には出さない。


「もう、あっくん! 黙ってないでなんとか言ってよー! ……ん?」


 唐突に遥は後ろを振り返る。


「………………」


 遥の肩をつついて、どうした? と聞く。


「……いや、なんか誰かに見張られているような、後をつけられているような感じがして……」


 咄嗟に踵を返して疾走する。昔からこの恐るべきトラブルエンカウンターの感はよく当たる。雨が降りそうと呟いた日には、たとえ雲一つなく晴れていたとしても大雨になって風邪を引いたこともある。トラブルがトラブルにならないように。未然に防ぐために。住宅街の交差点の中心に立ち止まり、周囲を警戒する。


 前方。人通りもなく、静まり返っている。

 左方。初老の男性が犬の散歩をしている以外、特におかしなところはない。

 右方――


 クラクションが聞こえたと同時に、交差点の隅に飛び退いた。と同時に勢い良く車が通り過ぎていく。突然の車にまだ心臓がどくんどくんと高鳴っている。


「ちょっとあっくん! いきなり交差点飛び出るなんて危ないよ!」


 遥が追いついて、息を切らしながら叱られてしまった。


ごめん。でも特に見張られてるわけでもないみたいだ。

「良かった、勘違いで。でも、あっくんに何かあったら勘違いだけじゃ済まなくなるんだから! 自分の身を危険に晒すようなことはだめだよ!」

わかったわかった。なるべく控えるようにするよ。


 と、口ではそう伝えつつも、ぼくは変わらないだろう。これまでも。そしてこれからも。四年前のような出来事を二度と起こさないために。


「わかればよし! ……うわ、もうこんな時間じゃん! さぁ、早く帰ろ!」


 それからぼくたちは速足で帰路についた。その間、警戒を怠らない。まだ何も起こっていないのだから。学校の校門を横切り、しばらく歩いて大通りの信号を渡る。家はあともう少しだ。今回は珍しく何もない事にほっと安堵のため息をつきながら、遥が昔虐められていた公園を通り過ぎる——ことができず、不意に足を止めた。吐いた息が即座に肺に戻ってくる。全くもって不可解。生まれながらのトラブルエンカウンター。どうしたらここまでトラブルに見舞われるのか。


 公園の中心に、闇に溶け込むような黒いロングコートを着た男が立っていた。周囲が暗いことと帽子が邪魔で、顔はよく見えない。ふと男が頭を少し動かして、こちらを見たような気がした。その瞬間、体中に悪寒が走る。なんだ、この体中にねばつくような気味の悪い感覚は。あの男から発せられた黒い何かに全身が包まれていきそうで怖い。でもこの感覚、何かに似ているような気がする。なんだ。思い出せ。かつて確かに経験しているはず——あの時のどす黒い感情だ。遥が溺れて死にかけた時に湧きあがったあの感情と同じなんだ。だとすればあの男は間違いなく悪意を持って何かをしようとしている。一体何をするつもりなんだ。目を凝らして観察する。


 よく見ると隣には小さな女の子。ぼくたちと同じか、あるいはもう少し低学年の子のようにも見える。この少女も男と同じで、顔は見えない。どうやら公園を横断して家に帰ろうとしていた少女を、男が呼び止めた、という状況のようだ。二人は何かを話している。突然少女は後退りをし始めた。


「嫌――」


 少女が叫びをあげようとしたところをすかさず男は少女の口を手で抑え込み、頭を掴んだ。するとその瞬間に少女は逃げようとすることをやめて大人しくなった。男と少女は手を繋いで、ぼくたちのいる方と真逆公園出口から立ち去ろうとする。一瞬の出来事で出遅れてしまった! あの男をこのまま行かせたらだめだ――


「こら、待てー! そこの怪しげな男!」


 叫んだのは遥だ。と同時に男を追い掛ける。後に続く。と思ったが、


「ふぎゃ!」


 遥が何もつまずくところがないのに転んだので、ぼくが先に向かう。男は頭を少し動かしてぼくたちを見るような動作をすると、少女を抱えて走り出した。追いつけない。少女とはいえ、人を一人抱えているのになんて速さだ。男は公園の側に停めてあった黒っぽい車に乗り込むと、即座にエンジンをかけ発進。ぼくたちが道路に出た頃には、もう既にその姿はなかった。


「だめだー、見失っちゃったね。あっくん、交番に言いに行こう! 近くにあったよね?」


 砂で汚れた服をはたきながら、遥が言った。


確か道を少し戻ったところにあったと思う。大通り沿いだったか。

「よし、行くよ! 案内!」


 正直遥はこのまま家に帰ってもらって、ぼくだけで交番に向かいたい気持ちが強い。だが遥の性格を考えると、ついていくと言って聞かないだろうし、最悪自分たちでなんとかしようとか言い出す可能性もある。一緒に交番に行くのが無難か。仕方ない。


 こくりと頷いて交番のある方向へ走り出す。と同時に先ほど感じた違和感について考察する。ぼくたちが男と少女を見つけた時、少女は逃げようとしていた。しかしすぐに捕まって、その途端に大人しくなった。なぜだ。捕まったとしても激しく抵抗するのが一般的ではないだろうか。


 今考えられる可能性は……二つ。まずは抵抗出来ない状態にさせられた、という場合だ。ぼくたちの見えなかったところで気絶させられたのか、あるいは何か脅されて身動きが取れなくなってしまったか。でも気絶したらその場に崩れ落ちるだろうし、脅されたとみるほうが現状にあってそうな気がする。次に、抵抗することを諦めた場合だ。恐怖で体が硬直する、ということは聞いたことがあるが、それでも抵抗はするか。今のところ、脅されたということの可能性が高いような気がする。


 大通りまで戻った。通り沿いを少し行くと小さな交番が現れ、ぼくたちは交番に駆け込む。遥は切れた息を整えつつ口を開いた。


「おまわりさん!」


 返事がない。静まり返っている。


「おまわりさん、いないの?」


 遥の声が虚しく響く。すると、奥の方でもぞもぞと何かが動く音が聞こえた。しばらくすると若干服の乱れた警官が、大きな欠伸をしながら出てくる。


「お、おまわりさん。大変です。さっき、女の子が男に連れ去られました」

「なんだってー? じゃあちょっと詳しく話してくれないか」


 おまわりさんは面倒臭そうに、ぼくたちが椅子に座るよう促す。


「はい。私たち、遊んだ帰りに、すぐそこの公園の近くを通りかかったんです。そうしたらその公園に、男と女の子が立っていたんです」

「ふむ。それで?」

「女の子が怖そうに後退りをしたんです。それで、えっと――」

少女が嫌だと言ったが、男が頭に手を置いた。その瞬間に女の子は男に従って歩いていこうとした。


 遥の言葉の続きを補完する。


「――そう。女の子が嫌だと言おうとしたときに男が頭に手を置いて、それで女の子が急に男についていくようになったんです。私たちは追いかけたんですけど、車で逃げられて……」


 静かに聞いていたおまわりさんがしばらく沈黙する。うーん、と唸った後、


「……仮にその話が本当だとして、本官には事件性があるとはとても思えないのだがね。単純に帰りの遅い女の子をご家族さんが迎えにきただけだろうに」

「でも、女の子は嫌がってました!」

「まだ帰りたくなかったんじゃないか? だから帰るのにだだをこねただけだろう」

「そんなのじゃありません!」


 おまわりさんは深く溜息をつく。


「あのねぇ、ふざけるのもいい加減にしないと、親御さんに連絡するよ。本官は子どものお遊びに付き合っていられるほど、暇ではないんだよ」

「お遊び……」


 遥の肩がわなわなと震える。こりゃ怒ったな。


「わかりました! もうあなたにはいいません! この分からず屋!」


 遥はそう言葉を残して、交番から飛び出した。あわてて追い掛ける。ちらりと交番の方を見ると、おまわりさんは「やっと追い払えた」というような表情と欠伸をして、奥へ引っ込んでいくのが見えた。


「もーなんなのよ、あの警官! 全部本当のことなのに、それを遊びだなんて!」

ぼくたちがまだ子どもだってこともあるかもしれない。


 遥は怒りで冷静さを失っているので、一応手話でも伝える。


「子どもだからってちゃんと話を聞かないなんて、本当に大人って嫌だね! あの女の子がどうなっても良いっていうの!?」

いや、そういうわけじゃないと思うが、単純にぼくたちの話が信用できなかったんだろう。


 遥はぼくのその言葉にまたムッとしたようだ。


 確かにあのおまわりさんの言うこともわかる。むしろ理にかなっている。話を聞くだけだったら、ぼくも同じように思うかもしれない。だがぼくたちの見たあの二人は明らかにそのような雰囲気ではなかった。男に怯え、抵抗する術もなく連れ去られてしまう少女。少なくともそのようにしか捉えられなかった。それに……遥の感は何かが起こる前触れだ。トラブルが起きる前には、いつも遥は変なことを言う。本音のところ、この遥の感が少女誘拐を確信させる一番の根拠になっている。


 遥に話を続ける。


ともかく、信じてもらえなかったことは残念だったとして、一度親に言ってみるしかないな。ほら、時間ももう遅いし。

「……そうだね。一度ママにも言ってみることにするよ。まったくもー、もやもやするなぁ」


 ぼくたちはすっかり真っ暗になった帰路を改めて歩む。家に着いてから親にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。

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