第18話 危険なのは俺も。

 よし野は息を切らしながら、山の中を逃げ回っていた。

 何とかスカートの中にスリップを押し込み、コートのボタンを止めて、彼女は走る。

 そしてやがて木々の間へと飛び込み、そのまま奥へ奥へと進んで行く。

 とにかく身を隠すことが先決だ、と彼女は思ったのだ。

 しかし決してそれは最善の方法、という訳ではない。慣れない場所であるのはもちろん、学校で決められた靴は、底に滑り止めがついている訳ではないので、少し坂道になると、上りであれ下りであれ、枯れ葉などでするすると滑りかねない。

 その時、彼女の耳に携帯のコール音が届いた。

 あれは自分のだ、と彼女は気付く。

 音量を最大にしてあったことを彼女は思いだした。そして確か、浜辺で落として―――

 音が近づくこと=相手が迫って来ている。

 鳴らしてくれているのは、中里だ。

 それだけは判る。何度も何度も切られているのに、しつこくしつこくコールを続けている。


 そう、あれは哲ちゃんだ。彼女は確信する。追っ手の位置を教えてくれてるんだ。


 そしてぐっ、と唇を噛む。足がひりひりと痛い。肩が痛い。だけどそれどころではない。


 とにかく、逃げなくちゃ。


 逃げて逃げて逃げ続ければ、必ず中里はやってくる。

 よし野ははあはあ、と上がる息を、高鳴る心臓を、無理矢理鎮めながら走り続けた。

 ところが。


「ああああっ!」


 ずるり、とその時足が滑った。

 ぬるりとした感触が、足元にあった。

 光が届きにくい林の中では、土が乾きにくい場所もある。そしてそこがたまたま粘土質だった場合。

 ぺたん、と尻餅をついた彼女は、懸命に立ち上がろうとしたが、左足をついた瞬間、鋭い痛みが足首に走った。

 ひねったのだ、と気付くのには時間は掛からなかった。

 だがまだ歩けなくなった訳じゃない。彼女は足を引きずってでも前へ進もうとした。

 しかし。


「……全く手間掛けてくれるよなあ……」


 低い声が、斜め前から降ってくる。ざくざく、と枯れ葉を踏みしめる音が聞こえる。その後ろから、あはははは、と高らかに笑う声も聞こえる。

 よし野は両方から逃げる様に後ずさりする。その足取りを見て、毬絵はにっこりと、心底楽しそうに笑った。


「あらぁ、足をくじいてるのね」


 そしてつかつかと、小気味いい程の足取りで近づくと、よし野の引きずっている方の足をさっ、と払った。


「ああーーーーーっ!」



「……よし野?」


 彼は鋭く顔を上げた。


「何処だーっ!?」


 最初に携帯の音とカーナビで確認した方向へ、彼はひたすら走っていた。

 崖を駆け上がり、木々の細い枝をなぎ倒し、時には太い枝にぶつかって自分の手や頬に傷を作ることも厭わない。

 靴は脱ぎ捨てた。よし野同様、滑りやすいタイプだったから、それならいっそ裸足の方がましだった。

 冷たさも、痛みも、彼には関わりがないのだ。

 そして勢いを緩めることなく走っていた時、不意に。

 聞こえたのだ。彼女の声が。


「よし野!」


 彼は大声を上げた。いつも、われ鐘の様な声だ、と言われている、あの声を精一杯、彼女に届くように、何度も何度も、張り上げた。

 聞こえたら、答えてくれ、と。

 そして再び。


「……哲ちゃーんっ!!!」


 その声の方向に、彼の身体は反射的に動いていた。


「な……」


 ざざざ、と細いが高い木の一本が、目の前でゆっくりと倒れて行くのを見て、よし野にのしかかっていた毬絵の目と手が止まる。


「う!」


 次の瞬間、彼女の身体は、近くの太い木に、思い切り叩きつけられていた。

 持っていた包丁は跳ね上がり、溝口の頭すれすれに飛んだ。


「うわっ!」


 彼は思わず叫んで跳ね退いた。

 だが、それでもインスペクターを名乗るだけある。「使い捨て」の「R」が指令する側の自分に反抗するなど許せない。

 溝口は包丁を拾い上げると、よし野に近づこうとする中里の背中に斬りつける。手応えが、確かにあった。

 だが。


「効かねえよ」


 中里は、ぼそりと言い放ち、ゆっくりと振り返る。

「痛くもかゆくもねえよ」


 うわあぁ、と叫びながら、溝口は何度も何度も包丁を振り回した。

 背に、肩に、腕に、胸に、腹に、首筋に、縦に、横に、斜めに。

 だが中里の表情は変わらない。避ける様子も無い。


「くそぉ!!」


 鎖骨の下のあたりを狙って、思い切り溝口は上から包丁を突き立てた。


「……だから、効かないって言ってるだろうが……」


 中里は突き立てられた包丁をぐっと引き抜き、軽く投げた。

 え、と溝口は自分の髪が数本、舞い落ちるのを感じた。

 動きは、見えなかった。

 しかしおそるおそる振り返ると、背後の木に深く突き刺さる包丁が彼の視界に飛び込んで来る。


「そういうふうに、あんた等が、俺の身体を勝手に変えたんだろうが」


 うわぁぁぁぁ、と溝口は喉の奥から叫び声を上げた。

 数歩後ずさりし、やがて彼は全力で駆けだした。

 叫び声がいつまでも続いていた。それはまるで、彼自身の意志では止まらないかの様だった。

 追うべきか、と中里は一瞬迷った。だが。


「う……」


 声が、彼を引き止める。

 よし野、と呼んで彼は駆け寄った。

 押さえ込まれていたよし野の身体は、既に自由になっているはずなのに、起きあがろうとしていない。

 慌てて抱き寄せると、彼女は左手で肩を押さえ、弱々しくつぶやく。


「よかったあ…… 哲ちゃん、やっぱり来てくれたんだあ……」

「おい、よし野!」


 指のすき間から、だらだらと血が流れていた。彼は木に刺さっている包丁にちらと視線を投げる。そうか。

 肩のそれは、明らかに刺されたものだ。

 あの女か。

 彼は自分に放り投げられ、うう、とうめいている女の方へと近づく。


「……なるほど…… お前が…… 『B』だった訳かよ、優等生」

「ふん」

 

 それでも透明な声は、「R」に対するプライドだろうか、その調子を崩すことはない。


「同じクラスで、全然気付かなかったあんたが馬鹿なんじゃない。全く計画が全部狂っちゃ……」


 それ以上の言葉を彼女が言うことはできなかった。彼はそのまま、大きな手で彼女の顔を鷲掴みにすると、勢い良く木に叩き付けた。

 要領は、手が知っていた。「彼」が知っていた。

 木の幹に、血ともそれともつかないものが飛び散り、垂れた。


 ざまあみろ。


 その時彼は、そう思った自分に驚いた。


 何だ。

 何だ、危険なのは、俺も、じゃないか。

 「彼」だけじゃない。

 俺も、「彼」も、結局は同じなんだ。


「哲ちゃん……」


 その声に、彼ははっと我に返る。


「よし野!」


 彼は駆け寄る。


「おいよし野! 大丈夫か? 痛いか?」

「痛いけど…… 大丈夫」

「大丈夫な訳、ないだろ!」


 彼はそう言うと、自分のシャツの袖をちぎり、彼女の肩を縛った。

 だが所詮、応急処置も何も知らない自分のすることである。一刻も早く、医者に。

 せめて岩室に診せなくては、と彼は思った。

 そして引き裂いたセーターで彼女をぐっと自分の背中に縛り付け、彼はやって来た道を下り始めた。

 やって来た道は、既に木も枝も何もなぎ倒され、非常に判りやすい道になっていた。だが小さな崖などを、無理矢理上って来たこともあり、逆に帰りの足場が辛い所もできていた。

 と、その時携帯が鳴った。

 取ろうか、とも思ったが、木に両手をついている、この足場の悪い状態では無理だ。

 はあ、と彼女の吐息が首筋にあたる。熱い。


「……おい、よし野」


 答えが無い。

 疲れと痛みと、中里に会えた、という安心感から気を失ってしまったのだろう。

 しかしその状態が、彼に不安を呼び起こさせる。

 コール音は鳴り続ける。何とか足場の安定した所に降りると、彼は再び駆け出した。

 やがて、コール音に混じって、クラクションが聞こえた。彼はぱっ、と立ち止まり、左を向く。


「高村さん!」


 その声に車は急ブレーキを踏む。


「中里君! 音が聞こえたから…… 見つかったんだな! あ!」


 車窓から身体を乗り出した高村は、二人の様子に息を呑む。


「高村さん、よし野がひどいケガを……」

「キミもひどいじゃないか! 早く来い!」


 後ろの扉が開く。言われるまでもない。彼はよし野をそっと下ろすと、車に乗った。


「どうしたんだ、一体…… 何があった?」

「肩を刺されてるんです。それと、何か他にも、あちこち痛そうで…… 今、気を失ってます」


 どれ、と高村はよし野の傷の具合を見た。


「ああ、とりあえず血は止まっているな。気を失っているのが逆に今はいいよ。大丈夫、戻って手当すれば。キミは……?」

「ああ、俺は、大丈夫です。……もともと、痛くも無いんですよ」

「……そうか」


 苦笑する中里に、高村はそっと目を閉じる。


「それでも何とか、キミ等が無事で、良かった」

「あ! そう言えば、溝口が逃げたんですが……」

「ああ、さっきワゴンに焦りながら乗ってたな。逃がしたよ」

 あっさりとした返事に、中里は訝しげな表情で問い返す。

「逃がした……?」

「ああ。こっちも顔を見られる訳にはいかない、という事情があってね」

「高村さん!」


 非難を含んだ声が車中に大きく響く。


「まあそう、いきり立つなって。その代わり、と言っては何だが」


 うい…… ん、と高村は窓ガラスを半分程開ける。


「そろそろだな」

「そろそろ?」

「まあ、よく耳を澄ませていてくれ」


 高村はそうつぶやくと、ゆっくりと車を出した。

 やがて、山道が次第に太く、二車線道路になってきた頃。


 ず…… ん……


 低い音が、遠くで鳴り響いた。

 そしてそれに引き続いて、黒い煙が、ゆっくりと立ち上った。


「な……」


 まさか、とそのまま平気な顔で車を走らせる高村に、中里は身体を乗り出した。


「あのワゴンのブレーキを、ちょっとばかり、壊れる様にしておいたんだよ」


 中里は思わず声を失った。


「きっと今頃、ガソリンと、チョコレートの匂いで大変だろう。ま、でも、キミが向こうに残した遺体同様、身元が判明したら、事件にはできないさ」


 さらり、と高村はそう言ってのける。


「さて、警察だのレスキューだので一杯にならないうちに、俺達もさっさと戻ろう」


 傷の手当もあるし、と高村は付け足した。

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