第19話 「今は、逃げるしか無い」

「よし野っ! よし野っ!!」


 合流した地点で、母親は車の中で眠る娘に、思わず飛びついた。


「ケガさせてしまって、すいません……」


 中里は母親に向かって頭を下げる。だが母親は、ぱし、と一発、彼の頬を叩いた。


「何言ってんの、あんただって血だらけじゃないの!」

「いや、これは……」


 もう止まっている、とか痛みは無いんだ、という言葉はその時の彼には出なかった。母親は、大きく首を横に振る。


「生きててくれれば十分だわ! よし野も、あんたも! ああ良かった……」


 そう言って彼女は、娘の頬に顔をすり寄せた。よほど悪い予想をしていたのだろう。

 肩に刺し傷、そのせいで熱も出ているし、足もくじいているし、膝下の裏側にも擦り傷。

 でも―――

 とにかく生きていてくれさえすれば、構わない―――そういうことだった。


「うん、まあこのくらいなら、大丈夫だろう」


 ざっと診察した岩室もうなづく。


「けど肩ばかりは、ちゃんと医者に診せた方がいいな。熱も出てる。抗生物質も要るだろうし…… 今から急ごう」


 そんな訳で、彼らは一度、自分の市へと戻り、一軒の動物病院の前で止まった。

 既に夜になっていた。どう見ても、時間外治療なのだが、岩室はここの主にあらかじめ電話連絡をしておいたらしい。


「岩室さん、もしかして、ここって」


 玄関から診療室に向かう壁に所々掛かっている、奇妙な面や槍、といったものが中里の目にとまる。


「ああ、前に言ってた、アフリカに行ってた先輩だ」

「……でも、……あの、獣医さんだろ?」

「刺し傷の縫合くらいなら、動物も人間も大して変わらん。まあ、時々世話になってるんだ」


 なるほどそういうことか、と中里は思った。


「お前も着替えろ、中里」

「いや、俺は」

「見てる方がびっくりするんだよ。ほら、お前の荷物」


 そう言って岩室は、彼の前に見覚えのあるスポーツバッグを放り投げた。


「俺の? ……だよな」

「ああ、寄宿舎から、持ってきてやった。中身は適当だが、仕方ない。ついでに引き出しにあった貯金箱も入れてきたぞ。お前結構マメだな」


 手回しがいいなあ、と彼は感心しながら苦笑した。


「とにかくさっさと着替えろ。血のついた方は、こっちで処理してやるから、脱いだらよこせ」


 有無を言わせぬ口調に、彼は逆らう術も無かった。



「私たち、これから、どうしたらいいんでしょうね」


 獣医の夫人から勧められたコーヒーを呑みながら、ぽつんとよし野の母親はつぶやく。

 普段気丈な彼女にしては、珍しい弱音だった。

 それに対し、高村はあっさりと、しかし容赦なく告げる。


「今は、逃げるしか無いです」

「無いですか」

「はい」


 そうですね、と母親もうなづく。それしかないことは、彼女も良く判っているのだ。


「とにかくこの市からは確実にすぐ、出てください。西でも東でも。できれば海外が一番いいんですが、あいにくそこまで支援できる体制が、我々にはまだ整ってはいない……」

「いいえ」


 母親は大きく首を横に振る。


「全く無関係の私達に、これだけのことをしていただければ十分です」


 いいんですよ、と高村は笑った。


「好きでやっている、ことなんですから」



 翌朝早く、彼らは岩室と高村に見送られ、西行きの列車に乗ろうとしていた。


「本当に、どうもご迷惑おかけしました」

「迷惑…… 迷惑になってしまう、この体制がおかしいんですよ」


 岩室は小さな声でつぶやく。


「羽根、しばらくは薬をちゃんと飲んで、包帯も変えろよ。足首には湿布も忘れるな。歩けないようだったら、そこの大男におぶってもらえ」

「判ってまーす」


 できるだけ明るく、とつとめていたが、まだ熱がひかないよし野の声は、やや元気がなかった。


「それから中里」


 岩室はポリ容器を二つ、真面目な表情で中里に渡した。


「こっちは昨日、ダンナが奴から奪った奴」


 濁した言葉に、ああ、と中里はその中身が「R」であることに気付いた。


「容器に番号をつけておいた。1の方から使ってくれ」

「2の方は?」


 するとそれには高村が答えた。


「そっちはまだ俺が作った複製品だ。効くことは効く。昨日の朝のキミで立証済みだ。ただ、あくまで試作品だ。できるだけ、使用は後に回してくれ」


 了解、と中里はバッグの中に容器を押し込んだ。


「何のこと?」

「……後で、ゆっくり話すよ」


 わかった、とよし野は納得しないながらも、ゆっくりとうなづいた。


「岩室さん」

「何だ」

「俺、できるだけあいつと上手くやってゆける様に、してみるから」


 岩室の表情が微妙にゆがむ。

 「R」を飲み続けている限り、「彼」は自分と話すこともできない。表に出てくる訳でもない。


「これも、いつかは切れるだろ」

「その時にはまた、取りに来ればいいさ」

「ああ、できるだけね」


 でもそれはしないだろう、と彼は決めていたのだ。

 「人殺しのできる人格」が「彼」だ、と思っていた。「彼」もそう言っていた。

 だけど違った。大事な何かを守るためだったら、自分もあんなに非情になれた。

 自分も「彼」と変わらない。いや、もしかしたら「彼」の方が、本来の自分だったのかもしれない。

 ただ、どちらにせよ、自分であるのは変わらない。

 動くのも、止めるのも。

 だったらもう、それはどちらでもいい、その時考えよう。中里は思う。

 生きられる時間の中で、ぎりぎりまで。


「なあ、岩室さん、あいつにも何か、言ってくれないかな」


 ああ、と彼女はうなづき、真っ直ぐ中里を見つめた。

 だがその視線はその向こう側を見ている様でもあった。


「お前も生きろよ、できるだけ」


 それじゃあ、と三人は改札口を通り抜けた。


「さ、行こうか」


 岩室は車を置いた駅の西口へと歩き出す。


「ずいぶん急ぐね、めいかさん」

「お前も私も、昨日まる一日学校をさぼったからな…… 今日一日勤務して…… そうしたら、週末に、中里の血液の分析の方にも取りかかろう」

「そうだね。でもその前に、奥さん、忘れているものは無いですか」


 はた、と岩室の足が止まり、高村を見上げた。


「お前、覚えていたのか」

「当然でしょ。俺はそういうことは忘れないんだよ」


 ふっ、と彼女は肩をすくめて苦笑し、ロータリーに降りるエスカレーターへと足を乗せた。


「悪いな、お前にとわざわざ買って来たものを、騒ぎの中で、車に入れっぱなしにしていて」

「まさか」

「そう、そのまさか。一度溶けたチョコって、味が落ちるんだよなあ…… せっかくお前のためにと必死で検索した結果なのになあ」

「ったく、もう」


 呆れた様に高村は肩をすくめた。


「いいだろ! だから、お前、明日の分析、つきあってくれ。そうしたら、キリのいい時間にでも、上手いザッハトルテをおごるから」

「そして俺は、あなたに、一番美味しいシュークリームとお茶をおごればいいんだね、奥さん」

「ふん、よく判ってるじゃないか」


 当然だよ、と彼はちょうど降り立った地面の上で、岩室の背を後ろから軽く抱きしめた。

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