第17話 こんな時くらい、役立ってくれよ。

 やがて車ががくん、と止まった。彼女はぐっ、とベルトに胸が圧迫されるのを感じる。


「ここいらなら、いいんじゃない?」

「そうだな…… 静かなもんだ」


 確かに、静かだった。それまでは閉じた窓越しにも感じられた、外の車の音一つ聞こえて来ない。

 扉の開く音がして、外の冷たい空気が入り込んで来る。


「あー、寒いわよ。センセ、外なんかじゃたまったもんじゃないわよ」


 がたん、と扉が閉められる。やっぱりワゴン車だ、と彼女は思う。特有の引き戸の音だった。

 ふと、コロンだろうか、いい匂いがよし野の鼻に漂ってくる。上級生に顔を近づけられているんだ、と彼女は思う。


「まだ眠ってるわよ、この女。平和な顔しちゃって。呑気なものねえ」

「おい、シートベルトと、足のロープは外せよ」

「あら、外しちゃうの?」

「足を外さなきゃ、何もできないだろ」


 それもそうね、と毬絵はよし野のシートベルトと足のロープを外す。

 その時に、手が擦り傷にかなり露骨に触れたが、よし野はその痛みを何とかやり過ごした。擦り傷ったって、死ぬ訳じゃない。こらえられるものなら、こらえてやる!

 シートを回し、位置がずらされ、広い空間が後部座席に作られる。よし野は自分が引き倒され、両手を上げさせられ、頭の後ろに置かれるのを感じた。

 きもちわるい。

 相手の手が自分の身体を動かそうとするたびに、鳥肌が立ちそうになるのを、彼女は必死でこらえる。

 ふと、その拍子に手に何かが当たるのを感じる。ぶ厚い紙袋の様だった。

 何が入ってるのかは判らない。ただ、覚えのある甘い香りと、堅いものがごつごつと幾つも入っている様な感触がある。


「じゃあセンセ、済んだら言ってね。あたし、出番、待ってるから」


 恐ろしいことをさらりと言うと、毬絵はカーステレオに手を伸ばした。途端、ぶつぶつとあちこちのスピーカーが細切れの音を立てる。


「何よセンセ、このスピーカー、何か調子悪いわよ」


 言いながら、彼女は何度かあちこちのボタンやヴォリュームの操作を繰り返す。

 一方よし野は、目を閉じたまま、神経を集中させていた。

 シートの上に、誰かの重みがかかる。溝口だ。その手がよし野のコートを掴む。

 そのままボタンを外し、その下の服へも進んで行く。下着をスカートから引き出し、その下に手を潜り込ませようとする。乾燥した、冷たい堅い指が、腹から胸へと次第に移動して行くのを感じる。ああ嫌だ嫌だ嫌だ。

 タイミングをひたすら待っていた。何か、きっかけを。


「あ、何とか」


 そう毬絵の声がした時だった。


 じゃん!!


 車のあちこちに仕掛けられたスピーカーから、一斉に大きな音が響いた。

 今だ!

 よし野は袋を両手で鷲掴みにし、溝口の頭に思い切り振り下ろす。


「うわ!」


 ばさばさ、と音がする。頭の上、身体の上に容赦なく降り注ぐチョコレートの箱、箱、箱……

 彼は何だ何だ、と普段の冷静さも忘れた様に両手を振った。

 そのすきによし野は、自分の頭側の扉をぐい、と大きく開いた。


「ああっ!」


 開けようと力を入れた途端、肩に痛みが走る。そう言えば、振り下ろした時に、肩の奥で妙な音がした。脱臼したのかもしれない。

 だがそんなことは構っていられない。彼女は何とか戸を開けて、外へと転がり出た。


「……あ…… の女、目、覚ましてやがったのか!」

「そんなモノ、大事に持ってたセンセが悪いのよ!」


 毬絵はそう叫び、溝口の頭をはたくと、自分のカバンを足元から引き出した。

 そしてその中から包丁を取り出すと、にやりと笑う。


「そんなもの、持ち歩く中等生が居るかい」

「だってこれ、センセの部屋のキッチンのモノよ?」


 そう言って笑う顔は、溝口から見ても非常に美しく―――そして禍々しかった。



「あれだ」


と高村は車を止めた。

 山の中の、やや道から外れた袋小路にそのくすんだワイン色のワゴンはあった。カーナビの片方は、この車を示していた。

 結局ホテルからここまでたどりつくのに三時間はかかった。

 地図上の直線距離的にはそう遠い訳ではない。だが、それが山だったり、そのまた中の細い道を探すとなると、話は別だ。

 一方通行もある。回り道もある。時には単純に道の見間違いもある。試行錯誤の上、何とか彼らはここまでたどり着くことが出来たのだ。


「けどよし野の方のは……」


 これ以上はカーナビでは探すことはできない、と中里は顔をしかめた。


「携帯は?」

「いや、岩室さんが、さっきもう取られてるんじゃないか、って……」

「取られてるとは思うけど、もしかして、あいつ等、電源切っていないかもしれないよ」


 そうか、と彼は慌てて自分の携帯を取り出す。

 その間に高村は手袋をきゅ、とはめると、どういう方法を使ってか、ワゴンのオートロックを簡単に外し、中の様子を探り始めた。

 倒れたシート、散らばったチョコレート、そしてその更に奥の方には大きな黒い箱の折り畳んだものが。高村は忌々しげにそれを見る。

 だが彼の用事があるのは箱ではない様だった。シートを持ち上げ、茶色のビジネスバッグを取り出すと、中を探り出す。

 一方中里は、掛けた携帯が何とか通じることに安心する。電源を切ってはいない様だった。

 耳を澄ませる。彼には岩室曰くの「地獄耳」もあった。

 聞き覚えのある音が、微かに、聞こえた様な気もする。

 だがぶつ、と携帯の方からは音がする。切られたのだ。

 リダイアルする。すぐに切られる。繰り返す。向こうも繰り返す。少しでも少しでも。彼は目をつぶり、じっと耳を澄ませた。

 こんな時くらい、役立ってくれよ。

 彼は眉をぐっと寄せ、自分自身の身体につぶやく。

 命を削ってまで、身体能力を引き上げているというのなら、一度くらい、俺自身のために、役立ってくれよ。

 やがてぷつ、と切れた向こう側からは、「電源が切られています」という電話会社の音声しか聞こえなくなった。

 しかしおおよその方向の見当は、ついた。

 車に戻り、カーナビの示す方角と示し合わせる。OK、間違いない。


「高村さん、俺行きますから。何かあったら連絡ください」


 そう怒鳴ると、返事も待たずに中里は山道を真っ直ぐ駆け上がりだした。

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