**

「ッ······!?」


 声も上げられず、恐慌状態に陥った宏之は急いで自転車にまたがり逃げ出そうとした。だが踵を返したところで、ゴンと小気味いい音とともに頭に衝撃を食らう。足がもつれ、派手な音を上げて自転車ごと倒れ込んだ。

 宏行と一緒に地面に落ちてきたのは、ころりとした形の良い松かさ、世に言う松ぼっくりである。



「お待ち」



 痛みに呻く宏行の耳に、艶のある凛然とした声が届いた。


 突然のことに目を白黒させていた宏行だったが、右側頭部に感じる痛みがあまりに鮮烈なため、混乱しながらも徐々に現実感を取り戻してきた。

 松かさを的確なコントロールでもって宏行の頭に投げ当てた人物の声は、若い女性のそれだ。これがふつうの初対面の人間であったなら、さすがの宏行も怒って文句を言うところなのだが、目の前の存在が何者なのか理解できていない今は、正しい反応の仕方が分からない。


 おそるおそる顔を上げた次の瞬間、しかし宏之は目の前の存在に釘付けになった。


 それは少女だった。注連縄のかけられた巨木に背を預け、祠の上に悠然と腰かけている。

 その少女は、あまりに美しかった。


 白く丸みを帯びた額。凛々しく吊り上がった形の良い切れ長の目はくっきりした二重まぶたで、濡れたような艶のある睫毛が大きな黒瞳を美しく覆っている。唇は薄く理知的な印象を与え、誰もが振り返る美少女でありながら、全体的にどこか老成した雰囲気を纏ってもいる。

 そしてなんといっても宏行の目を引いたのは髪だ。結わずに垂らされ、立ち上がると膝まであるのではと思うほど長く伸ばされたそれは、見事な黄金色をしていた。外灯の光を受け、艶やかに輝きを放っている。

 彼女は弓道着と振袖を組み合わせたような特異な着物を身につけていた。身頃は長く、柔い素材の帯下から裾が出されている。腰前で蝶結びにされた帯の両端もまた長く、同じく袴の前で垂らされていた。その全身が、巫女が着る緋袴の朱色より黄味がなく、赤の際立つ鮮やかな深緋色に染められている。



 強烈な存在感と、浮世離れした美しさに呆然と見蕩れる宏行は、ふたたび現実感をなくしていく。


 

 黄昏の赤みが薄れ、闇夜に差しかかり藍色が濃くなる頃、人ならざる者とまみえるこの時間を、逢魔おうまときと呼ぶのではなかったかと、ふと思い出した。








❋ ❋ ❋




「ちょっと」



 気品と威厳をまとう少女は情けない恰好の宏行をしばらく見下ろしていたが、長いことそのままであるのに焦れたらしく、柳眉をしかめ居丈高な物言いで言った。


「いつまでそこで呆けているつもり?」

「あ、いや、えっと…」


 声をかけられようやく宏行は硬直が解け立ち上がった。寄る辺なく立ち尽くす宏行の様子に構わず、その少女は畳みかけるように言葉を重ねる。


「あんた、外から来た人間でしょう」


 宏行の顔が思わず強張る。

(〝余所者〟…)


「神籬の気配が弱い。身体がこの地の気に馴染んでいない」


 意味不明な言葉が続くが、少女の言う半分から先はすでに宏之には聞こえていなかった。まるで粘つく黒い影が纏いついてきたかのように胸が重苦しくざわつき、暗い気持ちで考える。


(また〝気配 〟…。さっきの女の先輩といい、はっきりしないこの物言いは何なんだ…。…外から引っ越してきたっていうだけで、どうしてこんな風に言われないといけないんだ)


 ひょっとすると、不明瞭なワードに意味などないのかもしれないと宏之は考えた。『余所者』よりは直接的でないというだけで、どちらもただ宏之を除け者にするための、単なる言いがかりではないのか。


 このところ神経過敏で少しナイーブとなっている自覚はあった。普段温和で事なかれ主義の宏之にとってひどく珍しいことだったが、苛立ちが雑音となって脳内を埋めつくすように募り、勢い何かが弾ける。気がつくと、震える声で言い返していた。


「…気配って…なんですか。何なんですか、みんなして。今日学校の人にも言われたんです。僕から良くない気配がするって…」

「…ふーん」


 宏之は怒りや悔しい気持ちが溢れてくるのを感じながら、同時に心の隅っこで、自分に何か落ち度があったのではないかという気がした。自分の心持ちや態度に何か問題があって、それを感じ取った人々が冷たく当たるのではないかと。そう、自分を品定めするように眺めてきた、あの委員長のように。


 だが宏之がこの町に越してくるにあたり、自分の処世術でうまくやっていこうと思ったのは、けして周囲を丸め込もうとしたり、小馬鹿にする気持ちがあってのことではない。これまで名も知らなかったような見知らぬ土地で、気を許せる身内も友人も存在せず、少なくとも学生でなくなるまでは一人で生きていくのだ。そうしていくしかないじゃないか。


 宏之はだんだん情けない気持ちになってくる。正直自分のキャパシティはとっくに限界を超えていた。


 しかし対面する少女は澄ました表情を変えることなく、

「おおよそ察しがつくけれど、わたしの言いたいことと意味が違うわ」

 腕を組み淡々と話し続ける。

「え?」

「わたしの言った〝 気配〟とは、ここ神籬そのものが発する地の気のことを指している。ここは霊山をはじめ、古来から聖域とも呼べる大自然に恵まれた土地でね。そういう場所には地霊が発する、神聖で特有の気配がある。その地で生成された水や食物を摂ることで、そこに住まう人間や動植物もまた多かれ少なかれ同様の気配を持つ。自然の一部たる証であり、心を解放し一体となれば、その心に安寧をもたらす。故郷の恩恵とも産神の加護とも呼びかえられるものだわ。だけど、あんたからはそれがほとんど感じ取れない。この地に来て日が浅い証拠よ」

「な、なるほど…?」

「とはいえ、長く滞在すれば勝手に身に馴染んでいくものよ。あんたにそれなりの感性があるなら、そのうち自然に囲まれたこの土地を居心地いいと感じる時も来るんじゃない」

 思いがけない方向の話が飛び出し、呆気にとられ聞き入っていた宏之だったが、少女の最後の言葉に密かに胸を熱くした。この居場所を心地いいと感じる、そんな日が訪れるだろうか。

 不用意に涙腺まで緩みそうになり、宏之は慌てて誤魔化すように、大袈裟に感心した表情をつくった。

「ここって、そんなすごい土地なんですか…」

「そうね」

 そんな目下の宏之の様に気がつくどころか、関心自体がまるでない態度で、少女は付け足すように言う。

「その昔、日本のあちこちにそんな場所は存在したけれど、開発の進んだ現在はごく少なくなっている。神籬は古来より住民に守られてきた土地なのよ、ここまで神霊の気配が濃い地は珍しい。その影響もあってか、異様に第六感的感性の鋭い者…俗にいう霊感てやつを持ち生まれてくる者も少なくないわ」

「あっ、クラスにもなんかそんなこと言っている人が…」宏之は委員長の噂話をしていたクラスメイトを思い出す。

 少女は面白くもなさそうに、さもありなんという顔をした。

「とはいえ、才などが知れている。御三家の血筋の者ならともかくとして」

「御三家…?」

「神籬には、自然崇拝を祖にした独自の土着信仰がある。その核を担うのが御三家と呼ばれる、代々強い霊力の血筋をもつ大家たいかたち。各方位に立てられ、神籬の守護と招福招来を司る。北方に『各務かがみ』、西方に『承和そが』、東方に『緋桜ひざくら』」


「かがみって…今日、各務はやせっていう先輩に会いました!もしかして関係者ですか?…あっ、うちのクラスに弟もいるんですけど」

「各務兄弟は御三家のひとつたる各務家の現当主の息子で、次期跡取り候補たちよ」


 あととり、と宏之は間抜けに繰り返した。


「各務は御三家の中でも他家を統率し先導する立場にある。信奉する住民の目もあるし、跡継ぎは慎重に選ぶでしょうね。…ま、弟の方は荒れてどうしようもないと聞くし、兄の方が候補としては優勢なんじゃないの」


「はぁ~すごい家なんですね…」

「別にすごかないわよ」


 少女はここで眉をしかめ、機嫌を損ねた表情をした。


「ただ連綿と続いたというだけで、実情は清廉さなどとかけ離れ内部は腐り切っている。いまや住民の信仰心も薄れ、御三家全体が衰退の一途を辿る…」

 話していくうちに、少女の漆黒の瞳にギラリとした火が籠るのを宏之は見た。

「え、でも土着の信仰だって…」

「年寄りならばいざ知らず、科学の発達した現代において、隔絶された地とはいえ、若い人間が豊作や幸福を招く土地の神なんぞを本気で信じるわけないでしょ」

「そ、そんな…」

おそるおそる口を挟んだ宏之に、少女はあっという間に瞳の中の怒りを消してみせ、口調も不穏なそれから、ざっくりした物言いに変わった。しかし歯に衣着せぬせいで、なんだか色々台無しではある。


 しかしそうか、と思う。衰退してきているとはいえ長い歴史のある家の跡継ぎ候補で、かつあのルックスなら、湍先輩があれほど人気があったのも頷ける。宏之はそこで、ある人物の後ろ姿がぼんやり浮かんだのだが、口に上ったのは別の人物だった。


「湍先輩と一緒に女の先輩にも会いました。あれ、確かソガって言ってなかったかな…。実は『妙な気配』っていうのは、その先輩に言われたんです」

承和そがともえ。承和家の娘ね。各務湍と同年で、同じく跡継ぎ候補よ」

「あっ!そう、そんな名前でした。承和先輩の言ってた気配って、結局どういう意味なんでしょう…」


 疑問符を浮かべる宏之をよそに、なるほど、と少女はひとり得心がいったように呟いた。


「その娘がそれを指摘したと言うなら、腑抜けた御三家も案外馬鹿にしたものではないわね」


 少女は聡明そうに薄らとほくそ笑むと、久しぶりに宏行を見た。


「さっき言ったわね、意味が違うと。承和の娘があんたに指摘したのは〝土地の気配 〟のことじゃない」

「はぁ…」


 少女は、さらりと言った。


「大方、あんたに憑いている悪霊のことでしょうね」


「……え?」




❋ ❋ ❋


「え……?」


 両肩が突然重く感じた。宏之の顔から、再び血の気が引いていく。



 真っ青な宏行を前に、少女は相変わらず頓着しない。まるで天気の話でもするかの如く、平然と話を続ける。


「あんたそっちの抜け道から来たでしょう。入口付近に石仏があるのに気づかなかった?昔、誰かの置いた地蔵代わりだったんでしょうけど、雨風凌ぐひさしもないから、今や相当傷んでいてね。最近小学生たちがおばけ地蔵と名前をつけて、遠巻きに見に来るのよ。遊び半分の反面、子供たちの恐れや不安感情が集約され、そのうち本当に悪いものが憑くようになった」


 まぁ、置かれた方角もあまり良くないのよねと他人事同然で呟く少女の言葉が遠くに聞こえる。

 宏行は絶句して、通ってきた道にあった不気味な雰囲気の石を思い出した。

「ど、どうして僕に……。まさかさっき間違って蹴っちゃったから、それを祟って…」

「は、あんたそんなことしたわけ?」

「気がつかなかったんですよ!わざとじゃない!」

 掠れた声で必死に言い募る宏之を横目で睨んだ少女だったが、それ以上こだわった様子を見せず力を抜く。

「まぁいいわ、どちらにせよ無関係よ。承和巴に指摘されたのは、ここに来る前の話なんでしょ」

「あ、そ、そうか…」

 あの小路は何度か通ったことがある。そのうちのどこかで取り憑かれてしまったのだろうか。そう考えることすら、ひどく気持ち悪くて鳥肌が止まらない。

「なんにせよ、憑かれたのはあんたに隙があったからよ」

「す、スキ…?」

「つけこまれたってこと。ま、悪霊とは言ったけれど、所詮意思も持たない、たかだか思念の寄せ集めよ。雑念に惑わされず気を強くお持ちなさい。そうすれば、放っておいてもさしたる影響はないわ」

 宏之の反応は早かった。

「無理です!どうしたらいいですか!?助けてください!無理、無理なんですこういうの、僕!」

 もう半分泣いている状態の宏行である。

 少女は呆れたような、面倒くさそうな半目で宏之を見やった後、おもむろに袖に手を入れた。紙切れのようなものを取り出し、無造作に投げて寄越してくる。


 それは不思議な動きでするりと宙を滑りながら、宏行の手元に落ちてきた。幾何学っぽい図柄や、象形文字のようなものが一面にあしらわれた霊符と呼ばれる御札である。


「破邪の護符よ。その程度の邪気には充分すぎる程だけれど」

「うわぁ…!ありがとうございま…」

「本体に貼ってらっしゃい。簡単に祓えるわ」

「僕が!?自分で!?」

「当たり前でしょ、ただでその護符あげただけでむしろ破格よ。見ず知らずのあんたに、それ以上する義理はないわ」

「えーっ」


 取り付く島もない様子に、宏行の顔は絶望の色を濃くした。



「自分のことでしょ、自分で立ち向かいなさい」



 やはり現実は世知辛いのであった。







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