二章 乙哉


 翌日の朝、宏行は眠気をこらえきれず大きく欠伸をした。


 生徒の登校時間であり、担任が出席をとりにくるまでまだ時間に余裕がある教室で、宏行は自席の机に突っ伏した。ぼんやりしながら、前日の出来事を反芻する。


 昨日は色々なことがあった。町の有力者の子供だという、美貌の生徒会長と意味深に笑う生徒書記。浮世離れした不思議な少女との邂逅。なにより自分に関する衝撃の事実。


 少女と別れ、ほとんど泣きながらもと来た道を戻った宏行は、入口の足元に鎮座する〝おばけ地蔵 〟に震える手で札を貼り付け、脇目も振らず家まで自転車を漕いだ。


 帰宅すると祖父はすでに夕食を準備してくれていた。普段より遅くなった理由を、祖父は宏之に問いただしたりはしなかった。宏之に友達ができたと思っているのかもしれないし、たんに関心がないだけかもしれない。

 それでも野菜がゴロゴロ入った温かい汁物に口をつけると、いくらか気持ちが落ち着いた。しかし布団に入ると思い出してしまい、とにかく怖ろしくて寝付けない夜を過ごしたのだった。


 寝不足なうえ、ひどくくたびれていた。

 元々霊感など持ち合わせていない宏行には、護符を貼った前後の自身の違いがよく分からない。ただ昨日までの胸を占めていた漠然とした憂鬱感は不思議と晴れていた。それは護符の効力というよりも、どちらかというと少女と話したおかげのような気がした。

 少女の潔いほど迷いのない物言いは、少なくとも宏之の抱えていたもやもやとした気分を吹き飛ばしてくれた。よくよく思い出すと、かけられた言葉の中には宏之に対する慰めも含まれていたような気がする。我ながら実にポジティブだと思わなくもない。勘違いである可能性もまた、大いに否めない、こともない。だが、


(しっかりしよう、気を強く持とう。人間関係だって、いつまでもこのクラスなわけじゃない。なにも焦る必要、ないじゃないか)



 自分とは関係なしに交わされる、教室の雑然とした音がどこか心地良い。聞くともなしに聞いていると、しかし唐突にそれが途絶えた。続けて、教室内の空気がざわりと変わる。


 何事かと顔を上げると、前方の入口から生徒がひとり入ってくるところだった。明るい猫っ毛の髪に、大きめのパーカー。

 各務かがみ乙哉おとやだ。


(各務くん、今日は学校来たんだ…)


 実は宏行が見るのは、これまで席越しの後ろ姿ばかりだった。御三家という話を知り彼への興味が少しだけ増した今、正面の姿をまじまじと見つめた宏之は少なからず驚いた。


 彼は右眼に医療用の眼帯を装着しており、それがとにかく異彩を放っていた。白い覆布部分が占める面積は頬骨にかかるほどの大きさであり、その上から長めの前髪がかかっているが、隠しきれていないほど目立っている。

 形の良い頭をふわふわと覆うのは毛足が長く、灰みがかった明るい薄茶色の髪だ。サラサラした黒髪をしていたはやせとまったく異なる。

 なんといっても、柔和な雰囲気を持つ兄と違い、隠されていない左眼は勝気そうで、大きな瞳の奥には激情の種火が籠るようだった。

 全体でいえば可愛らしいともとれる顔立ちをしているのだが、眉間を寄せ、口を歪めた表情のせいで全く異なった印象を受ける。不機嫌を越えたそれは、もはや険相といえた。


 乙哉は無言で教室を横断し自席に着くと、周囲を遮断するように、宏行同様机に突っ伏してしまった。


 教室内が再び騒がしさを取り戻す。


 正面から見ても、やはり彼はいつもイライラしてるんだなぁと宏行が能天気に考えている横を通り抜けたのは、角刈りのクラス委員長だった。彼は勇ましい足取りで、真っ直ぐ乙哉の席に向かっていく。


「学校に来て早々寝るとはいいご身分だな、各務」


 必要以上に声高な、突然の物言いは周囲に響き渡った。またしても、だが今度は完全に、教室内が静まり返る。


「…あ?」


 気怠そうにゆらりと顔を上げた乙哉の顔は、まさに剣呑といった風情だ。


「家の名前に胡坐をかいて、恥ずかしいと思わないのか。授業をなんだと思っているんだか知らないが、でかい顔をされてみんな迷惑してるんだ」


 宏行は驚いた。以前から感じていたことだが、角刈りはいわゆるボス猿タイプで、教室内の尊敬を浴び、クラス内を仕切るのを好む傾向があった。教師や先輩など、上の立場の者には良い顔をして、宏行のような孤立している弱い者を支配下に置こうとするタイプ。自分が気に食わないのを『みんな』と表現するあたり、大衆を味方につけ攻撃を正当化しようとする意図を感じる。

 

 やり口はどうしようもなく最低なのだが、しかし相手を貶め上位に立つやり方としてはうまいのかもしれない。教室中の注目が一点に集まっているこの状況で、もし責められているのが宏行であったなら、萎縮して返事すらできなくなるだろう。


 しかし宏行は、どうしてだか各務乙哉は屈服しないとはっきり思った。彼はこんなやり方で思い通りになったりしない。



「俺が何か間違ったことを言っているか?これはクラス全員の総意ってやつだ。納得して行動を改められないなら、お前なんか学校に来…ッ」

 


 自分に酔う角刈りの弁舌は唐突に、耳障りな音によって掻き消された。

 乙哉が突然椅子を倒す勢いで立ち上がり、角刈りに向かって机を激しく蹴りつけたのだ。それは至近距離にいた相手に直撃し、そのまま床に叩きつけられる。派手な音に、女子生徒数人から悲鳴が上がった。

 

 驚きとはずみでバランスを崩し尻餅をついた角刈りは目を丸くし、一瞬何が起きたのかわかっていないようだった。しかし乙哉にその胸倉を掴まれ首が締まる勢いで引き上げられると、さっと顔色を悪くした。


「うるせぇんだよ」


 視線を捉え、地を這うかのような低い声で凄む姿は同年代と思えない迫力がある。ギリギリと掴む手に力を込められ、角刈りの顔が苦しそうに歪んだ。


「俺が何しようがテメェらに何の関係がある…でけぇツラしてのさばってんのはテメェも一緒だろうが…嘗めやがって」


 声量こそ抑えてはいるが、乙哉の声音には今にも噴出しそうな激しい憎悪と怒りが籠っている。

 一触即発の雰囲気だが、教室内は水を打ったように静まり返ったまま、止めに入る者は誰もいない。


 蚊帳の外とはいえ、さすがに心配になり周囲を見渡した宏之だったが、そこで教室内に妙な違和感を覚えた。正確にはクラスメイト達の表情に、だ。教室の前で繰り広げられる諍いに、はじめ皆一様に不安や当惑といった表情を浮かべていた。しかし今、数人の生徒がふたりを見る目を険しくし気色ばんでいる。それが互いに顔を見合わせているわけでもないのに、徐々に他の生徒達にも広がってきているようなのだ。

 どういうことかはよくわからない。しかし心臓がざわざわとした。この空気は良くないと宏之は本能的に感じ取った。


「各務くん……」


 びくつきながらそっと近づいた宏之は、遠慮がちに声をかけた。


「えーっと、もうそのへんで勘弁してあげたらどうかな…もうすぐホームルームも始まるし、先生が来ると面倒だろうし…あっ、お前誰だよって思うかもしれないけど、僕、先月転校してきた古賀です…」


 間延びした場違いな物言いは、その場を和ませるよりひどく滑稽に響いた。


 部外者は引っ込んでろと怒鳴られるかとも思ったがそんなことはなく、乙哉は突然の闖入者に左眼を見開いた。驚きに次いで複雑そうな表情になると小さく舌打ちを鳴らす。彼は角刈りの胸倉を乱暴に放した。

 青褪め声も発せない角刈りと、ホッとした宏行を置いて、素早く鞄を拾い上げた乙哉は振り向くことなくさっさと教室を出ていく。


 乙哉の退室に伴い、教室内全体を占める張りつめた空気が一気に緩んだその時、予鈴の音色が平和な調子で鳴り響いた。もうすぐ担任が出席を取りに来るだろう。

 宏行は乙哉の倒れた机と椅子を元の位置に直してやり、それから廊下に出た。同級生らの視線を浴び続ける教室に、さすがにこれ以上は居辛かったからだ。

 トイレにでも避難し、気持ちを落ち着けてからこっそり戻ろうと思ったのだが、廊下で一連を見ていたらしい、他クラスと思われる生徒数人のうちの一人に呼び止められた。


「なぁ、君、各務乙哉と親しいの?」

「え?…いや…親しいように見えた…?」

「いや見えなかったけどさ」


 生徒は一度苦笑してから、噂話を楽しむ顔をして言った。


「転校してきたから知らないだろうけど、各務乙哉には関わらない方がいいよ、どんな目に合うか分からないから。あいつ悪い噂が絶えないんだよ。乱暴者だし、しょっちゅう不良と喧嘩してる」

「そうなの?」

「あいつん家ってちょっと変わってんだけどさぁ、それをからかったボクシング部の先輩が、キレたあいつに半殺しにされたなんて話もあんだぜ。小学校の時はあいつのせいで学級崩壊繰り返してたらしいし」

「…ヤンキ―って感じ?」

「うーん、いつも一人だし、群れたりとかはないけど。つか、素行悪いけど、あいつ頭はいいんだよ。試験の度に学年上位の成績で貼り出されてる」

「へーー…すげぇ」


 宏行よりよっぽど優等生のようだ。


「彼帰った?」


 宏之の問いかけに合わせ、ふたり同時に廊下端の突き当たりに目を向ける。


「さぁ…玄関口に降りる階段とは反対の角曲がっていったけど」

「ふぅん…。ちなみにトイレはどっちだっけ?」

「トイレは階段側と同じで右曲がったとこ」

「右ね、ありがと」


 予鈴鳴ったからもう行くわと言う男子生徒と別れる。宏行は逡巡しつつ、廊下突き当たりの角を左折した。


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