*


 すっかり遅くなってしまった。



 あの後、宏行は真っ直ぐ家に帰る気になれず、町の外れの方を自転車で目的もなく走っていた。巴先輩の率直な言葉が、時間が経つにつれ引っかかった魚の小骨のように、宏行の胸をチクチクと刺していた。


("余所者"か…)


 通りがかった川べりを自転車を押し歩いていると、そのうち陽が傾き辺りが茜色に染まっていく。


遮るもののない空は随分広く感じる。傍にあった石に腰かけると、宏之は寒さも忘れ、血のような寂しい色に染まった夕焼け空を見つめ続けた。


 どのくらいぼんやりしていたのか。そろそろ帰らなくてはと自転車を走らせたものの、思うより遠くまで来ていたらしく、見慣れた風景が見えてきた頃には空の大半を藍色が占めていた。


そろそろ祖父が帰ってくる。夕ご飯の用意をしなければいけない。

 宏行と祖父との間で、門限や家事当番の取り決めなどは特にしていなかった。今日まで祖父にあからさまに邪険にされたことはないが、無理を言って同居にこぎつけた事情があるだけに、歓迎されているわけではないことはわかっている。

 それでも宏行は、だからこそ迷惑をかけないよう自主的に帰りは遅くならないように気をつけていた。

 祖父は朝早く働きに出るため、朝食は炊飯器に炊かれた米を自分で茶碗に盛り、適当に卵やウインナーを焼いて食べる。昼は学校の給食があるため心配ない。ただ夕飯だけは、引っ越しの日からずっと一緒に食べることにしていた。

 簡単なものしか作れないため、大概野菜炒めや味噌汁だとかになってしまうのだが、時折祖父が帰りがけに近所のスーパーで惣菜を買ってくることもある。粗末な手料理に祖父から特に感想が出ることはないが、やめろと言われることもない。続けているのはなんとなくだ。


 徐々に傾斜がきつくなる坂道の手前で自転車を止める。


 自転車から降りて向き直ったのは、背の高い草が道を隠すように覆う小路だ。この先は小さな鳥居と祠のある場所へと続いている。家の周辺を散策していた時に偶然発見したのだが、これは家との間を繋ぐ近道だった。

 祠の裏手側から山沿いに石造りの階段が伸びており、急坂でなかなかきついのだが、そこを登りきると丁度祖父宅に続く裏道に出るのだ。

 祠は簡素なわりには小綺麗だ。誰かが定期的に手入れしているのかもしれないが、宏行が訪れた時に人の姿を見かけたことはない。自転車の放置は少し気が引けたが、一晩くらいなら誰かに盗まれることもないだろう。明日の朝取りに寄ってそのまま登校すればいい。


 その道は入口だけが妙に踏み固められている。一歩を踏み出したその時、スニーカーの側面が何か固いものを擦った。


(…なんだ、これ)


 見ると、苔に覆われた子犬ほどの大きさの石である。よくよく見ると顔や手の形が彫り込まれているようなのだが、境界が曖昧で判別しづらい。


(こんなのあったんだ、全然気づいてなかった)


 これまでも何度か通った道だというのに。

 これといった理由はないが、なんとなく嫌な感じがした宏之は、覗き込むのをやめて足早に奥へと足を進めた。






❋ ❋ ❋





 伸び放題の草むらをざかざかと進むと、じきに両腕で抱えきれないほどの太さの幹をもつ巨樹がある。その根の脇に細い電灯が立っており、煌々と照らす足元に、それはあった。四角くごつごつした石で組まれた土台に乗せられ、ゆるく反り返った三角屋根がある、木造りの小さな祠だ。


 日常から非日常へ。果たしてその時、その祠の屋根の上に見逃せないものを認めた宏之は、一瞬夢をみているのかと思った。


 巴先輩のきつい科白のうちのもうひとつが、勝手に脳内で再生を始める。それは頭の中でぐわんぐわんと反響し、脳髄を揺さぶり立てた。




(あなた、)





(なんだか悪い気配がするよ)






 祠の上に、赤い着物の女がいた。

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