第2話

 臭い荷馬車に三人揺られる。臭い、汚い、と思う余裕もなかった。いや、今さら庶民の臭いや生活を馬鹿にしてどうする。自分も結局、貴族を捨てたのだから。

 両隣から注がれる両親の視線を俯くことで遮断する。声をかけようかかけまいか悩んでいる様子がヒシヒシと伝わってきた。それがまた僕を苛立たせる。


 そもそも、こうやって逃げることになったのはお父様のせいだ。使用人は皆、謝礼金を払って解雇した。屋敷は現在空っぽだし、逃亡がバレないように旅人の荷馬車に乗せてもらうとか、有り得ない。


 ガタンっと荷馬車が揺れて腰が痛む。

 思わず眉をひそめると穏やかなソプラノの声が僕の鼓膜を刺激した。


「あ、アシェル、大丈夫?」

「……これくらい、どうってことありません」

「そ、そう……」


 お母様は挙動不審なほど視線を彷徨わせて、行き場のない手を下ろした。

 僕は完全に機嫌が悪かった。


 お父様もお母様も今までにないほどソワソワと落ち着きがない。貴族ならばきちんとしていて下さい!と言いたいところだが、すでに国を捨てた僕が言ったところで滑稽でしかないだろう。

 貴族という責務から解放されたからなのか、どういうわけか分からないけど執拗に構ってくる。正直しつこい。


「アシェル……」

「なんですか、お父様」

「その……」

「何も用がないのなら、構わないで下さい」


 ピシャリとはっきり言うとお父様も何も言えなくなったのか、口を閉ざした。


「怒っているのか?」

「は? 当たり前じゃないですか。いきなり国を出るんですよ? どうやって暮らしていくんです?」

「一応他国にも伝手はある」

「そうですか。ならいいです」

「……すまない」


 ほら、こうやって、謝ってばかりだ。


「お父様、さっきから謝ってばかりですよ」


 昨日から、ずっと、僕が文句を言えばすまないと頭を下げる。父というのは子供に謝るものなのか。


「別にいいんです。やってしまったことはしょうがないですし、取り返しがつきませんから。責めているわけじゃないですよ」

「……アシェル、あの、な」


 早口で言うとお父様は言いにくそうに俯いてから、僕の頭を恐る恐るといったように撫でた。初めてされるその行為に驚いて固まってしまう。


「俺は、昔から貴族が嫌いだった」


 僕の黒髪をぎこちなく二、三回撫でてから疲れたように微笑む。


「本当、情けない話だが幼い頃から平民が羨ましかったんだ。父と手を繋ぐ子供、母に抱かれる子供。自分の方が金も、地位も、名誉もあるのに彼らの方が幸せそうだった。いや、実際俺よりも幸せだったのだろう」


 お父様が寂しそうに笑う。初めて見る表情だった。


「だから、アシェル。お前には寂しい思いをして欲しく無かったのだが、難しいな。愛するとはなんだろう。手を繋げばいいのか、抱き締めればいいのか、分からないんだ。結局、俺と同じ思いをさせてしまった。最期に家族になりたいだなんて、俺の我が儘だ」


 お父様の淡い金色から、目が離せない。

 僕よりも薄い金色だったが、確かに僕と同じ思いを滲ませている。


 お母様の方を向くと、にっこり微笑まれた。僕はこんなに両親を間近で見たことは無かった。

 お母様がこんなに綺麗な方だなんて知らなかった。お父様がこんなに繊細な方だとは思わなかった。


「……分から、ないです」


 お父様とお母様が僕の言葉にハッと息を飲んだ。


「息子って、何をすればいいのでしょう?」


 僕には分からない。

 親は、子供を守り、育てて、愛するもの。

 子供は……? 親を慕い、敬い、大切にするもの?


 抱き締められたら、抱き締め返すのか。手を繋がれたら、喜んではしゃぐのか。分からない。

 平民はどうしてたっけ……?


「そうっ……だよな」


 涙声のお父様に驚いて俯いていた顔を上げると瞳をうるうるさせたお父様が鼻を啜っていた。


「え、泣いているんですか? 昨日から思ってましたが、泣きすぎじゃないですか?」

「いや、すまん。感動してっ……! アシェルがそんなことを考えていてくれていたなんて思うと……俺はっ……!」


 お父様はそう言ってしくしく泣き出す。大の大人がめそめそ泣いているのを見てドン引きしなかったわけではないが、少し心が暖かくなった気がした。右隣ではお母様も泣いているし。


「……泣かないで、下さいよ」


 そう言った僕の声も震えていた。

 お父様は、不正を行ったけれど清算するつもりだと言っていた。誰でも間違いはあると思う。何かやむ終えない事情で、不正に関わってしまったのかもしれない。もしかしたら、陥れられたのかも。

 泣いてお母様に慰められているお父様を見ているとそんな気がしてきた。


 家族のために仕事をしてきたお父様が、仕事のせいで家族に迷惑をかけることになるなんて実に格好悪い話だが、なんとなく今は許せる。


 親は、子供を利用するもの。

 それはプリーギア公国の諺みたいなものだが、今くらいは親の愛を信じてみてもいいかなと思えた。


 その時、ガタンッと一際大きく荷馬車が揺れた。泣いていたお父様はハッして、僕とお母様を支える。

 そして近付いてくる、尋常じゃない金属の音。お父様は黙って帯刀していた剣を抜いた。

 お母様は震えながらも僕を抱き締めて離さない。


 幸せは、永くは続かない。

 それは当たり前のことで、辛いことも苦しいことも人生にはある。だけど、これは無いんじゃないか。せっかく、家族になれたのに。


 僕らの幸せは、幸せだったと言うにはあまりにも短かった。








 震えて声が出ない。

 怖い怖い怖い怖い怖い。


 お母様に引き摺られるように森を駆ける。

 お父様を置いていくことに、お母様は躊躇わなかった。


『行けっ……!』


 剣に魔力を纏わせて、敵を薙ぎ倒していく。確かにその姿は格好よかったけれど、あんなに相手がいたんじゃ"リヒトの騎士"と謳われたお父様であっても勝てると思えない。


 濃い茶色の髪を乱し、汗を掻いたお父様が、最期に僕に向かって放った言葉に涙が出る。


『アシェル』


 蜂蜜のような瞳が潤んでいた。

 お父様は、死ぬのを厭わないようだった。そこに恐怖はなく、むしろ満ち足りているようだった。


『人生を、諦めてはいけない』


 どんな時も、自分を見失ってはいけない。


 お父様の遺言めいた言葉に、僕は何も言えなかった。お父様とお母様が居なくなっても、惨めで這いつくばるようなことになっても、生きなさい。

 そう、言われたようだった。


「お母様……っ! お父様が!」

「あの方なら大丈夫よ」

「でも……っ」


 お母様も、苦しそうに顔を歪ませていた。

 躊躇なく森に入っていくお母様はある意味肝が据わっている。お父様を置いていったのも、もしかしたら初めからそういうつもりだったのかもしれない。

 敵襲に合ったら、まずお父様が相手をしてお母様が僕を連れて逃げる。


 なんで、なんでこんな目に合うの。

 僕の、家族が。


 ドスッと耳を塞ぎたくなるような音が響く。実際はそんな音してないかもしれないけど、僕の脳内は勝手に変換して僕を混乱させる。

 お母様の力が抜けて、地面に倒れ込んだ。


「お母……様?」


 背中に深々と矢が刺さっていて苦しそうに呻いている。白かったドレスはみるみるうちに血で滲んでいった。


「あ、ぁあ……ぃやだ………いやだいやだいやだ!!! お母様! 死んでは駄目です!! お母様!」

「んあ? 母親に命中かぁ」


 僕の絶叫に被せるように不快な男の声がする。

 咄嗟に後ろを振り向けば汚い身なりをした男たちがこちらを見ていた。

 震えながらもお母様を庇って、睨んだ。


「どうする? トドメ刺しとくか?」

「んー、まぁ大丈夫じゃね? 毒矢だし。しばらくしたら死ぬわ」

「まぁ、許してくれよ坊っちゃん。俺らも明日の生活かかってるんだ」


 大柄の男が僕の目の前に立ちはだかって、持っていた剣を振りかぶった。


 死ぬ。


 そのことに恐怖を覚えて逃げることも出来ない。怖い、死にたくない。でも、お母様もお父様も居なくなってしまう。お父様は分からないけどコイツらがここにいるってことは結局そういうことなんだろう。


 息が浅くなって、目が眩むようだった。いっそ失神してしまえば楽なのに。


「なぁ、コイツ売ったら?」


 誰かがそう言った。


「はぁ? 命令では皆殺しだぞ? 金が貰えなかったらどうする」

「いや、でもよ。売った方が確実に金が手に入るぜ? 口止めとか言って貴族サマに殺されたらどーするよ」

「あーなるほどな。お前、頭良いな」


 大柄の男はニヤリと口を歪めて笑った。


「作戦変更だ」


 男たちがこちらに向かって手を伸ばしてくる。それは恐怖でしかなくて、叫んだ。


「いやだ、止めろ! 触るな!」

「元気のいい坊っちゃんだな」

「ま、結局は貴族なんだろ。俺らに税金払わせて、自分は贅沢な暮らしをするクズと同じだ。悪く思うなよ。お前らのせいで俺らはこんな汚い仕事をして稼いでいるんだ。分かるか? 因果応報ってやつだ」


 男たちが汚く笑う。

 僕は頭が真っ白になるようだった。


 貴族が、民にしてあげていると思ったのは全くの勘違いだったのか。実際は、民から巻き上げた金を僕らは使っていたのか。

 苦しい税に耐えきれず、重い税を払いきれずに汚い仕事もやっていく。自分が生きるために。


「ぁ……あぁ……お母様……お父様……」


 無意識に呼んだのは両親だった。

 隣で冷たくなっていくお母様がピクリと動く。


「ア………アシェ………」


 ハッとしてお母様を見ると、うっすらと金色の瞳が覗いてキラキラ光っていた。


『愛しているわ』


 声にはならなかったが、確かにそう言った。


「お母さっ……」


 最期にお母様を呼ぼうとした瞬間、首に衝撃が走って意識が沈んでいく。口許に何かを当てられたのも分かった。握ったお母様の冷たい手がするっと抜けていく。力が無くなったのは僕か、お母様か。

 思考が霞んで瞼が落ちる。


 寂しい。苦しい。悲しい。怖い。


 親は、子供を守り、育てて、愛するものだ。

 お父様もお母様も、きっとずっと昔から、僕の最愛の家族だった。


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