2021年9月5日

 気持ちがどうしても制御できない日というものがある。今日がそう言う日で、後ろ向きでネガティブな想像や想いが次々に湧き出るような日だ。体の奥底から絞られるように、滲むように、沸き起こり、自分ではもう操作が不可能になってしまうような感情の波だ。


 私の文章を読んでくれている人たちはよく分かると思うけれど、私の文章はどうも万人受けするものではなく、かつどうにも人の心に引っかかるところもないようである。無味無臭、道端の石ころをしゃぶるような気持ちで読む者も多いだろう。そういう考えが止めどなく溢れて止まらなくなるのだ。


 私のことを知っている人でも結局は読んでくれる人は稀で、ほとんどの人はチラリと目をやることもなく通り過ぎていく。自分が透明人間になったような心細さを感じる。


 私に才能があれば、私に何かを踏み出す勇気があればと思うが、こういう状態になるともう前に進むことも難しい。食事は喉を通らず、水を飲んでは吐くような真似をする。肉体も憐憫を集めようと必死なのだ。少しでも人の憐憫を集めて心を安心させてやらねば体が壊れてしまうのを脳は知っている。


 歩けばどうにかなるだろうと思って二時間ばかり歩き回ってみたがどうにもならない、足を動かす度に被害妄想が回転率を早めていくようでとても辛かった。


 こういう日は気分転換もできなければ眠ることもできないのだ。酒は気分を良くするものではなく、被害者的攻撃性を高めるだけに過ぎず、夜は静寂の中に呪詛を探して思考をあちこちに走らせる。


 私はこういう時間を多く過ごしている。こういう状態になることが非常に多い。昔は逃げ道になってくれる友人が多く居たものだが、今はそうではない、多くの人は家庭を持って、または個人の都合があって、私のような人間に関わる時間はなくなっていった。


 友人とは疎遠になり、あんなに一緒に騒いで仲が良かったはずの人々とは一切の連絡を絶ってしまった。私は自らの感情の暗闇を前に多くの人間関係を絶った。まだかろうじて孤独では無いとは言え、逃げ場があるわけでもない。こういう夜をよく過ごす。特に去年の夏頃から今年の初めまでは酷いものだった。眠る為に起きる。起きても薬を飲んですぐに眠る。考える必要もなく、なにものにも傷つけられないようにただ眠り続ける。死んでいるのと何が違ったろうか。


 昔は死にたいと思いながらも心の何処かでずっと死にたくないと思っていたものだ。無になって、何の思考も、何の物語も食むことが出来なくなる恐ろしさに身震いがしたものだ。だが、それがいつの間にか無くなっていた。死にたくないと呟いてみても、何も心に響かなくなった。伽藍堂の暗闇の中に投げ込んだ石が音もせずただ消えてしまったという風情で、何の恐怖も感想も浮かばなくなった。ついに自分が今生に何の希望も抱いていないことを知って愕然としたものだ。


 しかし今は少し違う。書くことで何かが変わるような気がしたのだ。まだ何かしらの可能性があるのではないかと期待を抱いてしまった。それがとどのつまり苦しみの再来であって、私はこの膿をバッサリと切り落とさないといずれまた生きることができなくなってしまうような気がしてならない。


 こんな場所に甘い承認欲求を満たすために、一時の痛み止めを求めてみても詮無きことだが、とりあえずは排泄せねばパンクしてしまいそうだったのでここに書き留める。

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