エピローグ『消えない想い』③


 夕貴の部屋にノックの音が訪れたのは、彼が風呂から上がってしばらくしてからだった。


「夕貴くん、ちょっといいかな?」


 自分が生まれて過ごしてきた家で、こんな夜も遅い時間帯に聞くはずもないと思っていた声。もう納得せざるを得ない状況になっているのに、夕貴はいまでも信じられなくて応えるのに少し時間がかかった。


「お邪魔、します」


 彩が遠慮がちに入ってくる。夕貴と同じくシャワーを浴びたあとで、まだ髪が薄っすらと濡れており、いつもはストレートに下ろしている黒髪をポニーテールに結い上げていた。ラフなパジャマを着ていて、しっかりと上までボタンは閉められているのに、いつもより胸元の膨らみが妙に大きく目立って見えた。


 もちろん彩が無駄に強調しているわけではなく、自分の部屋に同級生の女の子がいると意識してしまった夕貴の男の部分が出てしまっただけである。


 今夜、萩原家には彩が泊まりに来ていた。やっぱりどうかしているとしか思えない。


「ここが、夕貴くんの育った部屋なんだね」


 後ろ手を組みながら、感慨深そうに彩が言った。きょろきょろとあたりを見渡すたびに彼女のシャンプーの香りがして、そっと空気を吸うだけでも夕貴の理性は揺らいだ。ただ彩が入ってきただけだというのに、気のせいではなく明らかに部屋の空気が甘くなっている。


 部屋のなかをゆっくりと歩き回る彩を、夕貴はベッドに座ったまま、照れ隠しも込めて不愛想な態度で遇した。


「別に大したものはないだろ。あんまり恥ずかしいから見るなって」

「そんなことないよ。夕貴くんの部屋だよ? こんなの他の女の子に知られたら、わたしいじめられちゃうよ」


 それは夕貴の台詞だった。恋愛事には疎い彼でも、彩に好意を寄せている男が何人もいるのは短い大学生活のなかで理解している。凄まじい紆余曲折を経たとはいえ、その櫻井彩とこんな状況に陥っていると知られれば、夕貴の人生に支障が出かねない。


 真面目な話、それぐらい彩はモテる。


 風のうわさという名の響子からの情報によると、どんな経緯があったのかは知らないが、大学のミスコンに参加しないかと開催側のほうからスカウトらしきものまであったという。


 ちなみに彩は、そういう類の情報を夕貴に言ってこないどころか、むしろ恥ずかしがって隠そうとするタイプなので、なんとなく真偽が怖くて本人には確かめていない。


「それで、なんかあったのか?」

「えっ?」

「俺に用があったんだろ。もう夜も遅いのに。別に明日でもよかったんじゃないか?」

「あー、いや、まあ、うん。なんかあったような、なかったような」

「なんだよそれ。まあいいや。とりあえず座ったら?」

「う、うん」


 彩は座った。ベッドに。夕貴のすぐとなりに。え、そこ? と夕貴は思った。しかも肘を張れば当たるぐらいの近い距離だった。


 二人並んで座ったまま、しばらく無言だった。夕貴は後ろ手をついて天井を見上げていた。彩は面接を受ける学生のように膝と両手を揃えていたが、顔だけは気恥ずかしそうに下を向いていた。


「あぁ、えっと、な」


 なぜだろう。うまく話題が出てこない。いままでなら自然と言葉が浮かんできたはずなのに。しかしまったく嫌な空気ではないのが不思議だった。


「そ、そういえば、それ似合ってるよな」


 彩が首を傾げる。それに合わせて揺れた黒髪の房に、夕貴は視線を向ける。


「ほら、ポニーテールだよ。そんな髪型するの初めて見たから」

「あぁこれ? そんな上等なものじゃないよ。寝る前とか、家事するときとか、たまに邪魔で縛ったりするだけだから」


 いま思い出したように彩ははにかんで毛先を指で弄った。確かにそれはよく見ると髪型と呼べるほど整えられておらず、後頭部の高い位置でぞんざいにまとめあげられただけのものだった。しかし、だからこそ生々しい生活感があって、下手なお洒落をされるより逆に男心を刺激するという不思議な現象が起こっていた。


 ぽつぽつとした会話が続く。ときおり沈黙が訪れて、落ち着かない心地になるが苦痛ではなくて、背筋がむずむずするというか、うまく形容できない感覚だった。


 雑談していた時間は五分か、十分か。さすがにそれだけ一緒にいると、この雰囲気にも慣れてきた。いや、正確には慣れたのではなく、実感したのだ。


 また彩とこうして時間を過ごせるのだと。彼女の笑顔を失わずに済んだのだと。


「……いろいろ、あったな」


 短い言葉に万感の想いを込める。彩も複雑そうな顔で、けれどしっかりと頷いた。


「そう、だね」


 目を瞑る。こんなに静かに二人でいられることが信じられなかった。もう名を呼びあうことも、笑いあうこともないと思っていたから。


「あの、ね。あのこと、なんだけど」

「どれだよ? 弁当か?」

「それっ、もある、けど……」

「ほんとに美味かったよ。まあ響子には死ぬほど茶化されたけどな。やっぱり彩って普段から料理してるのか?」

「あ、うん。昔からお母さんのお手伝いしてたし、いまはおうちでわたしがお料理を……じゃなくてっ!」


 まったく要領を得ない。彩の頬がうっすらと紅潮していく。


「ええと、あの、だから」

「どうした? やっぱりなんかあったのか?」

「その、えっと」

「彩?」

「……うぅ」


 彩の顔がどんどん赤くなっていく。それから彼女は意を決すると口火を切った。


「わがまま。なんでも一つだけわがまま聞いてくれるって、夕貴くん言ったよね?」


 夕貴の頭が嫌な感じに凍る。覚えていないわけではなくて、よく覚えているからこそ、非常事態という名の勢いに任せて彩に色んなことを言ってしまった自分がちょっと恥ずかしくなってきた。


 しかし、後悔はなかった。いままで口にしてきた言葉に嘘はないし、こうして彩が戻ってきてくれたことは素直に嬉しい。


「あ、ああ。そうだな。そういえばそんなこと言ってたよな、俺」


 夕貴が認めると、彩は耳まで真っ赤にして、俯いてもじもじと膝をすり合わせる。


 はっきり言おう。夕貴はそこそこ頭がいい。鈍感でもないつもりだ。彩が自分を嫌っているわけではないということは理解しているし、こういう展開のときに何が起こるかを事前に予測するだけの知恵もある。


 自惚れだと笑われるかもしれないが、これはあれだな?


 下手したら夕貴くんが欲しいとか言われるパターンか?


 ナベリウスのせいでじゃっかん倫理観がおかしくなっていた夕貴は、そこまでぶっ飛んだ思考を平然とこなせるようになっていた。


「あー、それで」


 なにがいいんだ、と夕貴は目で訴えかける。まだ彩は迷っている様子だったが、訥々と口を開いた。


「……あ、あたま」

「え?」


 そのたった三文字の意味がわからない。


「だ、だからね、あたま」


 アタマ? 頭? どういうこと? と夕貴の混乱は深まる。まったく理解できていない夕貴に業を煮やした彩は、拳を握り、目をつむって、ぐいっと頭を差し出した。ふんわりとした匂いが鼻孔を掠める。


「頭! 撫でてほしいのっ!」

「……ああ、なるほど。頭」


 意味はわかったが、やや拍子抜けした感も否めず、夕貴は生返事しかできなかった。それを迂遠な拒否の態度と受け取ったのか、彩は慌てて弁解を始める。


「だって夕貴くん、なんでもって言ったよ!? なんでもわがまま聞いてくれるって、確かにそう言った! 覚えてるもん!」

「いやまあ確かにそう言ったし、頭を撫でるのもぜんぜん問題ないんだけど」

「ほんと?」


 やったっ、と小声で呟き、心底嬉しそうに瞳を輝かせる。普段の清楚な彩からは想像もつかない子供のように無邪気な顔。


「じゃあじゃあっ、はいっ」


 姿勢を正した彩は、夕貴に向けて頭を倒す。その美しい黒髪に手を置いて、労わるようにそっと撫でてみる。果たしてこの行為にどんな意味があるというのだ。


「……ふふっ、あはは」


 彩はくすぐったそうに小さく笑う。


「んー」

 

 そして、すぐに喉を撫でられた猫みたいに大人しくなって、気持ちよさそうに目を細める。とてもリラックスしている様子だけはなんとなくわかるが、逆に言えばそれしか理解できない。


 一分ほど続けてから、頃合いを見計らって声をかける。


「……彩? そろそろいいか?」

「えー?」


 彩は不満そうに唇を尖らせて、上目遣いで夕貴を見ると、視線だけをぷいっと逸らした。


「やだ、もうちょっと」

「わかったけど、じゃあいつまで……」

「もうちょっと!」

「……はい」


 深遠である。まったく意味がわからない。もっと撫でろという意思表示なのか、頭がでろりと垂れ下がって夕貴の肩に乗った。彩が身体を寄せて、体重まで預けてくる。支えきれなかったわけではないが、バランスを取るために反射的に彩の肩に手を回してしまった。


 細くて柔らかな感触。一瞬、びくっと彩の身体が震えたが、すぐに力を抜いてさらに夕貴に身を任せてくる。


 よく見ると、パジャマの胸元から豊満な谷間が覗いていた。彩の場合、ただ胸が大きいだけではなくて、なんというか全体的な形がよく、服越しでもうっすらと主張してくる。線の細い涼やかな鎖骨のあたりには一粒の小さなほくろがあった。


 その匂い立つような女の色香に頭がくらくらして、夕貴は弾かれたように視線を逸らした。


 彩はまだ満足していないらしく、ちょっとでも夕貴が頭から手を離そうとする素振りを見せれば、むっと睨んでくる。だが可愛らしいだけで迫力はまったくなかった。夕貴が続行すれば、その途端、とろんと目が落ちて、餌付けされた挙句にマタタビをプレゼントされた猫みたいになる。


 何度も駄々を捏ねられたせいで、夕貴は五分近くも彩の頭を撫でることになった。さすがの彩も満ち足りた様子で、乱れた髪を直そうともせずに熱っぽい吐息を漏らしていた。


「……まあ、こんな感じでよかったのか?」


 問いかけると、彩はいまさら我に返ったようにほんのりと頬を染めて、それでも表面上はいつも通りの顔で頷いた。


「うん。ありがと。わたしのわがまま、ちゃんと聞いてくれて」

「わがままって言われてもな……」


 どんなことでもしてやるとは言い切れないが、もうちょっと無理を頼まれても何とかしてみせるつもりだった夕貴としては肩透かしである。


 年頃の女の子のわがままと言えば、一日かけて遊びに行くとか、高価なアクセサリーや洋服が欲しいとか、評判のディナーを予約するとかそんなものだと夕貴は思う。

 

「普通、こんなのわがままにも入らないけどな」

「えっ?」


 独り言のつもりだったが、彩の瞳が大きく見開かれる。きらきらと光り出す。


「じゃ、じゃあね? もう一個だけわがまま、言ってもいい?」

「まあ俺にできることなら。ただなるべく普通のやつにしてくれよ」


 こんなの忠告するまでもない。ついさっきの基準を鑑みれば、せいぜい『わたしを抱きしめて』とか言われるかもしれないが、裏を返せばそれぐらいが限度だろう。


「大丈夫。これ、夕貴くんにもすぐできるから」

「へえ、なんだよ?」

「あのね、その……」

「もう遠慮しなくていいからな」

「わたしにキスマークつけてほしいの」

「おまえはいったい何を言っているんだ?」


 とても冷静に夕貴は返した。せめてキスなら一万歩ぐらい譲って理解できたが、キスマークの意味がわからない。


「あっ」


 わがままを断られたはずなのに彩は笑った。


「言ってくれた」

「なにが?」

「おまえって」


 むしろ嫌がられそうなものだ。今回は反射的に出ただけで日頃から彩のことをそう呼んでいるわけではない。


「わたしね、夕貴くんにおまえって言われるの好き」

「……どういう心理?」


 彩は何も答えずに表情を綻ばせている。


 もしかして夕貴にそう言わせたいがためにキスマークだなんて突飛なことをお願いしたのか。それならまだ合点がいく。


「……それで、だめかな」

「いってなかったー」


 話はまだ続くらしい。どんな対応をするのが正解なのか。じつは夕貴のことを密かに試していて、それじゃあと乗り気になった途端に見損なわれたりするのだろうか。そのほうが可能性としては高い気がする。


「……そっか。だめだよね」


 彩がしゅんと肩を落とす。


「ごめんなさい。わがまま言っちゃって」

「え? これマジなやつ? え?」

「……ううん、いいの。なんでもないから。わたし、ちゃんと諦めるから。我慢するから。そういうの得意だから」

「いやいや待て待て、なんだこの新たなトラウマを刻みそうな空気は」


 さっきまでの頭を撫でられて喜んでいた彩との対比が凄まじすぎて、落ち込んでいる姿が痛ましいほどに哀しく映る。


「べつにだめとは言ってないだろ。ていうかそういう問題じゃないだろ。どこから出てきたんだよ、そのキスマークは」

「あっ、もし嫌だったら、わたしがつけるほうでもいいんだけど」

「よくねえよ! 何いいこと思いついたみたいに言ってんだよ!」

「だって……」


 彩が唇を尖らせる。


「ナベリウスさん言ってたもん。夕貴くんにキスマークつけられたって。自分もつけたって。そう言ってたもん」

「はいあいつ終わらせるー」


 あることないこと吹聴しやがって。もちろん夕貴は記憶にあるかぎりそんなことしていないし、されてもいない。


 しかし、彩にとってそれは口実の一つに過ぎなかったらしく、この話を終わらせないためにも矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。


「それにね。わたし、けっこう困ってることがあって」

「な、なんだよ?」

「……あんまり言いたくないんだけど、その、男の子から」


 大学に入ってからも彩に声をかけたり、連絡先を聞こうとする男子は後を絶たない。その都度、断ってはいるものの、なかには熱心だったり強引だったりする輩もいて、わりと真面目に悩みの種になっているらしい。


 だれかが仲裁に入ればいいかもしれないが、そのだれかが常にそばにいるわけではない。夕貴、響子、託哉は同じ学部だが、彩だけ違っていて、大学生活では昼食のときぐらいしか顔を合わせないし、それだって事前に予定を決めておく必要がある。


 そこまで考えてみて夕貴は思った。


 だからキスマークを――なるほど、やっぱり無理があるな。


「そういうのがあれば、あんまり声をかけられなくて済むんじゃないかなって。少女漫画とかでもそうやって男の子がヒロインから興味をなくすようなシーン見たことあるから」

「それ基準にするのおかしくないか? あくまで漫画だぞ?」

「もちろん夕貴くんには迷惑かけないようにする。わたし、肌が白いほうだし、それにけっこう弱いから、一回つけてもらえばしばらく消えないと思うの」

「それはそれで問題だろ……」

「あと、正直に言うと、そういうのにちょっと憧れてたりもして」


 周囲の人間を誤魔化せても、間違いなく響子あたりに死ぬほどからかわれる未来は目に見えている。


「……わかってないようだから言っとくけど、キスマークみたいなのつけてたら彩が誤解されるかもしれないんだぞ。そういう女の子なんだって思われたらどうするんだ」


 大人しい清楚な女の子として扱われている櫻井彩が、彼氏どころか浮いた話の一つもない彼女が、そんな痕をつけて登校してきたらちょっとした騒ぎになるに決まっている。


「え?」


 彩は首を傾げる。


「わたし、元々そういう女の子だよ? えっちなことに興味がないとでも思った?」


 そうして彩は嫣然と微笑む。夕貴が固唾を飲んで静止していると、打って変わって不安そうに瞳が揺れる。


「……だめ?」


 夕貴は臆病な男だった。甘いと換言してもいいかもしれない。そんなふうに何気なく表情を曇らせる彩でさえ見たくないと思ってしまうのだから。


「べつに、だめじゃないけど……」


 ある意味、ナベリウスと出逢った始まりの朝をも超えるぐらい現実感がない。あの女は幻想めいた容姿をしているせいで一周回って逆に信じざるを得なかったが、大学の同級生と一つ屋根の下でこんな状況になっているのは夢としか思えない。


 だが触れる体温が、決して嘘ではないと告げてくる。


 ベッドから立ち上がった彩は、夕貴の膝のうえに対面で跨った。甘い吐息がかすめる距離。彩の頬は赤くて、それ以上に身体は熱くなっていた。夕貴も似たような感じになっているかもしれない。


 パジャマの第一ボタンを外して、少しだけ襟首を開かせると、彩はそっと首筋を差し出した。白い肌にはわずかに血管が透けて見えて、うっすらと浮かんだ汗が艶めかしい。


 この期に及んでも「え、これガチ? ほんとにするの?」と頭の中で声がしている。


 でも戸惑う頭とは対照的に、身体のほうは雰囲気に流されて勝手に動く。彩の腰に手を回した。しっかりとくびれていて、肌の下にはしなやかな筋肉の感触があった。


 なにより膝の上に乗った尻の柔らかさにびっくりする。たっぷりと実った双臀は、思わず感嘆のため息が出そうになるほどだった。


 そういえばさっき彩が部屋のなかの本棚に注目して前のめりになったときも、後ろから見ると大きなヒップが強調されていたことを思い出す。そこから太もも、ふくらはぎ、足首と少しずつ細くなっていく女性らしい体つきを見て、夕貴は実感したものだ。


 なるほどこれが安産型か、と。


「いま失礼なこと考えてなかった?」

「いやぜんぜん、これっぽっちも、まったく」

「じゃあいいけど」


 どこか納得していなさそうに言って、彩は夕貴の両肩に手を置いた。黒曜石を思わせる澄んだ瞳が、言葉ではなく視線で夕貴を促している。


 間近で見ると肌の滑らかさがよくわかる。こんなきれいなところに俺の口なんかつけていいのか、と思いながら眺めていると、目の前でごくりと白い喉が動いて生唾を飲み込んだのが見えた。彩も緊張しているらしい。


 その日常では何でもないはずの所作が、この上なく煽情的に見えてしまって、夕貴は心臓の鼓動が速くなるのを自覚した。


 しばらくして覚悟を決めた夕貴は、そっと彩の首筋に唇をつけた。ボディーソープの甘さに混じって、ほのかに汗の味がした。


「ん……」


 彩は身体を震わせる。強く吸う。そのまましばらくの間、彩は目をつむって耐えていた。唇を噛みしめて、声を漏らさないようにして刺激に耐えている。


 ちなみに夕貴はこの謎の状況にずっと脳内で疑問符が飛び交っていた。そうしていなければ色々と限界が訪れそうだった。


 唇を離すと、ほのかに唾液が糸を引く。彩の白い首筋にはくっきりと赤い痕ができていた。それを確かめるように、彩はまだ濡れた箇所を手で撫でる。


「ちゃんとついてるかな?」

「はい」

「よかった。ごめんね、変なことお願いしちゃって」

「どういたしまして」

「なんで敬語なの?」

「なんでだと思う? ちなみに俺にはわからない」


 とにかく彩が満足そうなのでそれでいいかと思うことにした。肺に溜まっていた空気を吐き出すと、それは思っていた以上に熱っぽくなっていた。


「……彩?」


 もう終わったはずなのに、いつまで経っても彩は夕貴のうえから退こうとしない。夕貴よりも少しだけ高い目線から見下ろす瞳は、ついさっきまでの怪しすぎる一連の流れとは異なり、真剣な光を灯している。


「一つだけ、夕貴くんに聞いておきたいことがあるの」


 夕貴は無言で続きを促した。しばし口ごもったあと、彩は言う。


「ナベリウスさんのこと、どう思ってるの?」

「へ?」


 予想していなかった一言に夕貴の思考が停止した。ぽかんと口を開ける彼を、しかし彩は真面目に見つめる。


「だから、ナベリウスさんのこと。どう思ってるのかなって」

「どうもこうもないだろ。あいつは悪魔なんだぞ。いや、むしろ悪魔より悪魔みたいな女なんだよ。あいつのせいで俺がどんな目に遭ったか知らないだろ」

「知らないよ。だからこそ知りたい。知っておきたいの」

「……いいか? あいつはな」


 どれほどの苦難を味わってきたか、夕貴は彩に語り聞かせる。同情を禁じえないはずの体験談。それなのに彩は、寂しそうに笑った。


「夕貴くん、やっぱり楽しそうだね」

「は?」

「羨ましいな。なんか、羨ましい」

「ちょっと待て。何をどう間違えたらそうなるんだ。明らかに俺はいま呪いを紡いでただろ」

「気付いてないかもしれないけど、夕貴くん、さっきからずっと笑いながら話してるよ」


 ありえない。夕貴は思わず自分の顔を触ってしまった。でも確かに頬は緩んでいる気がした。きっとバカバカしすぎて笑うしかないのだろう。そうだ、あいつは悪魔なのだ。ずっとそばにいるとか言い出したのも、ただの悪魔としての使命とか、父さんとの約束とか、そういう類のものなのだ。


 抱きしめられたことも、そのぬくもりにどうしようもなく安心を覚えてしまったことも、きっと一時の感情の迷いなのだ。


「あのね、わたしってこう見えても、けっこう女の子なんだ。でもそれはいい意味じゃない。きっと悪い意味でね」


 彩は自虐するように笑った。


「わたしにはわたしなりの夢があるつもり。初めて好きになった人と、初めて付き合って、初めて結婚して、初めて子供を産んで、そして、ずっとその人だけを想って、その人のことしか知らないで生きていきたいって思ってる。初恋の人と、一生を添い遂げられたらなって、そんな子供みたいなこと考えてる」


 瞳を閉じて少女は夢を語る。


「でもこんなわたしのことを選んでくれるなら、他の女の人のことはもう考えてほしくないかなって、そんな嫉妬深いところもあったりするの」


 彩は目を開けた。


「夕貴くんは、ナベリウスさんのことどう思ってるの?」


 もう一度、彩は繰り返した。夕貴はナベリウスのことを真剣に考えた。きれいで、自由奔放で、心が折れそうなときにはいつだってそばにいてくれて、わがままなくせに優しくて、何も言わないでも夕貴のことを理解してくれていて。


 もしナベリウスがいなくなったら、と考えてみると、わけもなく心にぽっかりと穴が空くような気がした。理由はわからない。なんとなくいつの間にかナベリウスが一緒にいてくれることが当たり前みたいに思っている自分がいた。


 きっと悪魔の魔術とか暗示っぽいやつを勝手に使われているのだろう。夕貴はそう考えることにした。


「やっぱり、やだな」


 彩の声がした。


「難しいね、人の心って。でもそれがいまはちょっと楽しいって思える。いっぱい努力して、もっと可愛くなって、みんなの特別じゃなくてだれかの特別になりたいってそう思える」

 

 知らなかったな、と彩は呟いた。


「諦めて、我慢して――その必要がないだけで、こんなにも人生がわくわくするなんて」


 屈託のない顔でそう告げる彩は、いままでの彼女より数段幼く見えて、だからこそ眩しかった。


 ここで一度、夕貴は自分の心を確かめてみることにした。


 彩のことは好きだ。人間としても女性としても。付き合ってほしいと言われれば頷くだろう。でもそれが唯一の愛と呼べるほど確固たるものかと聞かれれば断言はできない。


 ありえない可能性ではあるが、もしナベリウスに同じことを望まれたとしても、夕貴は死ぬほど悩んだり疑ったり迷ったりした上で、やはり頷いてしまうような気もする。


 そもそも好きとはなんだろう。愛とはなんだろう。


 命を賭けても守りたいと思えるのならその時点で愛なのか。しかし夕貴は、彩のときがそうだったように、たとえばナベリウスが危機に陥っていたとしても身を挺するだろう。


 極端な話だが、ほかの女性を見てもまったく性欲が湧かないようであれば、その人を愛していると胸を張って言えるのだろうか。ただ言い訳ではないが、実際に行動に移すかどうかは別として、欲情さえも抑えるというのは健全な男子にとって困難だと思う。


 だったら何が基準となるのか。考えれば考えるほどわからなくなりそうである。


 そのとき、ふと一つの疑問が浮かんだ。


 本物の《悪魔》だった父さんは、人間である母さんのどこを好きになり、愛して、俺という命を育んだのだろう?


「ごめんね。夕貴くんを悩ませるつもりはなかったんだけど」


 ぐるぐると当てもなく回る夕貴の思考を、彩の声が遮る。


「これはただ、わたしのわがままみたいなものだから」


 櫻井彩の望みは単純なものだった。


 いい加減な気持ちで返事をしてほしくない。その場の空気とか、雰囲気に流されたとか、そんな曖昧なものではなくて、確かな夕貴の心が欲しい。


 それが全てだった。


「わたしね、頑張りたい。ほんとうのわたしをもっと知ってほしいと思う。好きな人にはちゃんと見せたいって、いまなら心の底から思える。そして愛してもらいたいし、せいいっぱい愛したい」


 夕貴の目をまっすぐに見て、彩は微笑んだ。


「だからね。それまで夕貴くんには――夕貴くんにだけは、わたしの好きな人を教えてあげない」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。


 そこに夕貴の知らないはずの少女の面影が重なって見えた気がして、なぜか彼はそれ以上の追及ができなかった。


 やがて二人は離れる。時計を見ればもうすぐ日付が変わるころだった。その間、彩は鏡で自分の首筋を確認して「うわぁ……」とおもいのほか強く刻まれてしまったキスマークに顔を赤くしている。


「そんなわがままはもうさすがにちょっと勘弁してほしいけどな……」

「わ、わかってるよ……」


 自分がとんでもないことをお願いしていたのにいまさら気付いたのか、彩は目を合わせようともしない。


 そして夕貴はやっぱりバカなので口を滑らせる。


「まあそれ以外でよかったら、俺が暇なときかつ実現可能な範囲ならなんでも聞いてやるよ」

「……なんでも?」

「ああ。ナベリウスにしても響子にしても、人のわがままを聞くことなんてもう慣れて……」

「じゃ、じゃあね」


 夕貴の声なんて聞こえていないらしい。彩は軽く息を吸って、呼吸を整えている。


「今日だけ、今日だけでいいから」


 そうやって何度も前置きしてから、彩は告げる。


「夕貴くんと、一緒に寝てもいい?」

「…………」

「ち、違うの! だって夕貴くんが暇なときかつ実現可能な範囲でって言ったから!」

「…………」

「ずっと一人で寝てたんだよ!? これまで一人で! お母さんが再婚しちゃってから部屋も別々になって、たまに咲良ちゃんが泊まりにきたときぐらいしかだれかと一緒に寝ることなんてなかったんだもん!」


 その言い方はちょっとずるいと思う。


 でも夕貴を説き伏せようと――いや、そんな立派なものではなくて、必死に駄々を捏ねる姿を見ていると、なんだかもう仕方ないなって思えてきてしまう。より正確には反駁するだけ時間の無駄だと悟る。


「……わかったよ。今日だけだぞ。ていうか男と女、これ逆じゃないか?」

「ほんとっ? やった!」


 まったく聞いていない。彩は嬉々として表情を綻ばせている。さっそく何かもう髪を解いて寝る準備に取り掛かっている。


 夕貴は呆れている素振りを見せながら、狂ったように早鐘を打つ心臓をどうにか抑えて、これまでの人生で見たホラー映画を片っ端から脳内で再生して煩悩を殺すという作業に取り掛かっていた。まだ会ったこともないおばあちゃんからお年玉をもらうという妄想もついでに浮かべていた。


 その日、二人は寄り添って眠った。彩は甘えるように身を寄せてくる。いままで足りていなかった感情を、そして失ってきた愛を取り戻そうとするかのように。


 もう一つの桜の名を持つ少女は、母の胎内で眠るように丸くなって、少年の腕のなかに身を預けた。




 ****




 一人で満開の桜を見る。


 わたしはそっと首筋に手を当てた。まだうっすらと残った痕は、赤みが引いてくると、なんだか桜の花びらのような色合いになっていた。普段は髪で隠れるからよく見ないとわからないけど、よく見てくれる人なら逆に気付くだろう。


 消えてほしくないなって、そう思った。


 しばらく桜を眺めていると、少し遅れて彼が現れる。ごめん遅くなって。まるでデートみたいな台詞を口にして。


「ううん、大丈夫。わたしもいま来たとこだから」


 ほんとうは一緒に帰るのが楽しみで仕方なくて、もうけっこう前からここにいたけど、それは内緒。


 二人で満開の桜を見る。


 わたしはそっと彼の手に触れた。


 びっくりして顔を赤くする姿が可愛い。男だから動じてはいけない、とでも思っているのだろうか。無理やり冷静でいようとする様子が微笑ましい。


 ぬくもりを確かめ合って、それでもやっぱり恥ずかしいって気持ちはあることがくすぐったくて。


 付き合ってもいないわたしたちが公然で手を繋ぐなんて、おかしいかなって思ったけど、そんな気分になったのだから仕方ない。ちょっと不器用で照れ屋な彼は、まわりの目を気にして強く握り返してはくれない。なんだかおかしくなってわたしは笑う。


 寄り添うぬくもりは温かく。冬の余韻を残した風に当てられて寂しくなった肌も、だれかがそばにいるだけでこんなにも気にならなかった。


 どうして人は寄り添おうとするのか。なぜ一人では生きていけないのか。傷つくだけなら、初めから友達も恋人も家族もいらないはずなのに。


 なんで神様は、人を孤独では生きていけないように作ったんだろう?


 ずっと昔からそんなことを考えていたけど、手をぎゅっと握りしめてみれば、その答えがわかるような気がした。


 いつまでもこんな幸せが続けばいいと思った。永遠がほしくて、時間が止まってくれればいいと願った。でもやっぱり風は冷たくて、ずっと桜を見ていることはできなかった。


 帰ろうか、と提案する彼の手を、わたしは一度だけ引いた。


 握りしめた手に力を込める。なんだよ、と目線だけで問いかけられる。その穏やかな表情を壊したくなくて、また困らせてしまうんじゃないかって怖くて。


「どうした?」

「ううん、なんでも」


 首を傾げる仕草すらも可愛く見えてしまう。うん、病気だ。彼にしか治せないから病院いっても意味ないけど。


「なんでもない、けどね。でも」


 視界が滲む。


 目の前に広がる景色は夢のように美しくて。


 それはいつかお母さんと二人で見た満開の桜とよく似ていたから。


 あのとき口にできなかった小さなわがままを、いまこそあなたに伝えよう。


 大丈夫。今度は、きっと届くから。


「もうちょっとだけ、こうしていたいな」


 今年の桜が、こんなにもきれいで、よかった。






 [壱の章【消えない想い】 了]







 次回 弐の章【信じる者の幸福】

    プロローグ『高臥の少女』



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