第三章 魔王 躍動する

第24話『強欲』と『色欲』(1)

 大海を、その荒波に似つかわしくない小舟が滑っていく。


 それもそのはずで、本来は農民が川を行き来するためにこしらえた渡し舟なのだ。


 海どころか、大河を相手にするのも心もとない。


「商都ザンギスに入るのに、わざわざこんな手間をかける必要があるのかい? 普通に君の幻想魔法で遠い異国の帆船を港に出現させるだけじゃだめなのかねえ」


 レイは欠伸をしながら、風魔法で小舟を動かす。


 波を除けながら、異国の大型船にふさわしいそこそこの速度を維持するのは、大変ではないが面倒だった。


 そう。今、連れのアイビスの幻想魔法によって、小舟は異国から来た大型船であるかのように偽装されているのだ。


「0を1にするのと、1を100にするんじゃ、難しさが全然違うの! レイはわかってないなあ」


 アイビスが大人ぶった口調でいう。


 事実、アイビスはレイよりは年上なのだが、今の彼女はまるっきり人の幼女のような姿をしているので、背伸びしてお姉さんぶっているようにしか見えない。


 アイビスはまるで大きなぬいぐるみでも愛でるように、大金の入ったズダ袋を抱きしめていた。


 他の魔将が今のアイビスの姿を見たら、どう思うだろう。


 まあ、順当に幻想魔法で幼女の姿を装っているだけだと思うだろうか。


 実はこちらこそがアイビスの『本当の姿』だと知っているのは、レイと――おそらく、魔王だけだ。アイビスの日頃の『のじゃ』口調は、サキュバス全体の威信を損なわないための演技であった。


「そういう物かな。ボク個人は、この手の入国手続きで苦労したことがないんでね」


 レイの種族は『ドッペルゲンガー』と言う。


 生まれたその瞬間から、見た目も人のそれと変わりなく、魔族と示すような特徴は何一つない。当然、魔族を感知する聖銀や魔法の類もほとんど通用しない。


 レイは風魔法を得意としているが、それとて、たまたまレイの元となった人間の個体が『英雄』クラスの魔法使いだっただけのことだ。


 ただ、レイを魔族とし、普通の人間と区別するものは、ヒトでは持て余す長い寿命だけ。


 ああ、もう一つあった。


 はるか昔には、自身が『オリジナル』に抱く圧倒的な殺意も、レイが自身を魔族だと自覚する理由だった。


 だが、それも過去の話――いまや、その『オリジナル』はおらず、この世にただ一人、レイこそがレイであった。


「もう、しっかりしてよね。今回、私たちは異国の商人に化けて、たくさんの穀物を買い付けるんだから、大規模な取引をするだけの説得力が必要でしょ? そして、それを多くの人に納得させなきゃならない。だから、今もこうして船が海を走っている事実を、近くの他の船が見る。そして、私たちが正規の手順で入港するのを実際に見た人がいる。その『事実』が重要なの」


「……まあ、陸路で街に入る訳にはいかないからね。この戦時下で陸路を往復できる大商人は限られているし」


 行商人レベルならあり得ない話ではないが、これから果たそうとしているミッションを遂行するには、それなりの身代がある商人に偽装しなければならない。


 商人には商人同士のつながりがあるのだから、陸路でいきなり訳の分からない金持ちがやってきたら、当然警戒される。それでも金を出せば穀物自体は購入できるかもしれないが、今回のミッションは、魔族が取引したとバレる訳にはいかないのだ。


「そういうこと! わらわはお仕事を頑張って、お兄ちゃんといっぱいラブラブするんだから、レイも気を抜かないでね!」


 アイビスは鼻息荒く、そう意気込む。


「……随分と魔王様のことが気に入ったみたいだね。彼は、君の処女を捧げるに値する男だったかい?」


 驚愕すべきことに、アイビスはサキュバスでありながら、つい最近まで処女であった。


 よくそんなんでサキュバスの頭が務まってきたと思うのだが、彼女はサキュバスがヒトから迫害されずに効率的に精を採取する仕組み作り――娼館もその一環だ――が上手いので、同種族からの支持は厚いらしい。そして、サキュバスは、幻惑するのは得意だが、戦闘能力は低いのでヒトと直接戦闘になるのは困るのだ。


「えへへー。当たり前でしょー。お兄ちゃんは魔族の頂点なんだから、それ以上の男はいないよ? お兄ちゃんの『恋人』になれて私はとっても幸せ!」


「でも、君は今までの他の魔王の時は、配下のサキュバスをあてがうばかりで、全く興味を示さなかったじゃないか」


「んー、だって、今までの魔王って、馬鹿で乱暴で女の子を大切にしなさそうだったんだもん。そもそも、私のこの姿を見たら、大体興味をなくしてたし……」


 アイビスは、絶壁のごとき自身の胸を触って、沈んだ声で呟いた。


 レイは知っていた。


 生来、豊満な肉体を持つサキュバスが多い中で、アイビスは幼児体型であることにコンプレックスを抱いているということを。


「そこは君が相手の好みに合わせて幻想魔法で姿を変えればいいじゃないか。それがサキュバスの真骨頂だろう? 相手に都合のいい夢を見せて、精と一緒に魂を抜き取るのがさ」


 レイはなおも追究をやめない。


 レイは一度気になったことは、とことん気になる性格であった。


「嫌よ! 嘘ばかりのサキュバスだからこそ、わらわは真実の恋がしたいの! 幻想魔法で演出した偽物の肉体で愛し合っても嬉しくないの!」


 それはサキュバスとしては全く異端の考え方であった。


 しかし、まあ、魔将は往々にこうだ。


 他の同種族の個体に比べて、『特別』だからこそ、魔将になれる。


「だとしても、別に幼女趣味の優男はそこら中に転がっている――とまでは言わないが、探すのに苦労しないほどにはいるだろう?」


「違うの! はなっから幼女趣味の男に欲情されても意味がないの! 私は普通の性的嗜好を持った男の人に、ありのままの私を受け入れてもらいたかったの!」


「違いがわからないな。結局、やることはやるんだろう?」


「それは、やるよ? やるけど、わかんない? 下着を脱がすまでが本番なの」


「……過程が大事ってことかい? でも、君は魔王に報酬として恋人になることを要求した訳だろ? それって、君の娼館に金を払って一夜を過ごす男共と何が違うんだい?」


「違うよー。最初は契約から始まった恋人が、徐々に本物になっていくのがいいんだよー。レイは恋愛小説とか読んだことないの?」


「読んだよ。飽くなき知識への欲求が、ボクの『強欲』だからね。でも、考えても考えても『恋』という概念にはどうしても得心がいかない」


 レイには性欲という物が全くなかった。


 ヒトに近しいレイは感情もヒトのそれに似通っている。


 なので、家族愛や友愛までは分かるのだが、性愛だけはどうしても実感できない。これもやはり元の『オリジナル』がそうだったのだろう。レイの一存ではどうしようもできないことであった。


「レイは色々と考えすぎなんだよ。とりあえず、適当な男に抱かれてみればわかるよ!」


 アイビスはサキュバスらしい即物的な答えをレイに突き付けてきた。


 アイビス自身は相手にこだわるくせに。


「遠慮しておくよ。別にボクの貞操はどうでもいいけど、子どもでもできたら面倒だろう――そもそもさ。何で『お兄ちゃん』なんだい? ヒトの基準で言うと、一般的に兄と恋人という属性は並び立たないものだ。それに、魔王様の召喚前の年齢を加味したとしても、彼は君より圧倒的に年下だろう。せめて、『弟ちゃん』じゃないと計算が合わないよ」


「『お兄ちゃん』は血縁関係のことじゃないもん! 『頼りになる大人の男のヒト』ってことだよ! だから、年下のお兄ちゃんでもいいの! というか、年下のお兄ちゃんがいいの! いつもはクールなのに、二人っきりの時にふと見せる幼いはにかみとかが最高なんだよ!」


「不可解だ」


 レイは、本当に自分とアイビスは真逆だと思う。


 観念的なレイに対して、直情的なアイビスは、なんというか本能に従って生きている。


 思えば、アイビスと仲良くなったきっかけはなんだっただろうか。


 そうそう。確か、昔、偶然、彼女の『本当の姿』を見かけたのがきっかけだった。


 馬鹿にされると思ったのだろうか。アイビスは顔を真っ赤にして身構えた。しかし、性愛に興味がないレイにとってはサキュバスの外見はどうでもいいことだったので、特に反応は変えることはなかった。


 そしたら、懐かれた。


 アイビスと同じように、『女らしくない』身体をしたレイに、親近感を抱いたということもあるのだろう。彼女はちょくちょくちょっかいをかけてくるようになってきた。その後は、サキュバスは排他的嗜好のある魔族にしては珍しく、ヒトと接点を持つことが多い種族であること。また、知識を求めて諸国を放浪するレイも、魔族の中では異端であるという共通点が接点となり、交友関係が続いている。


 まあともかく、こうも真逆なのに馬が合うのは不思議なことだった。


「そういうレイは、なんでお兄ちゃんのために働くの?」


「……現状では、彼はボクに必要な示唆を与えてくれる貴重な存在だからね。ボクがボク自身の納得いく答えを見つけるまで、できる限りの協力はするつもりさ」


 レイは、初め、魔王に積極的に協力するつもりはなかった。


 なぜなら、レイの求める報酬を魔王が与えられるはずはなかったから。


『ボクは、ボクの存在理由が知りたい。ボクは、魔族というにはヒトに近すぎる。ヒトと言うには、与えられた時間が長すぎる。一般的な魔族のように力を求めることに、ボクは意味を見出せない。ヒトのように子孫を繋ぐことにも、価値は感じない。どちらもいずれ滅びる定めだから』


 学べば学ぶほど、レイにはこの世が無意味なものに思えてならなかった。


 太陽は沈み、月は昇る。


 歴史は繰り返し、この世に何一つ新しいことはない。


『……難しいですね。それは、あなた個人が見出すべきことで、私が与えられるものではありませんから』


『だろうね』


 落胆はしなかった。


 世界を放浪しつくしても、レイの納得をできる答えを与えられる者はいなかった。そもそも、真面目に取り合ってくれる者もあまりいなかった。


 盛り場でヒトに尋ねれば、赤ら顔の酔っ払いはこう答える。『なぜ生きてるか? んなもん、食って寝て、母ちゃんとやって、ガキどもを食わせるためだろ?』と。


 魔族ならば、『魂を集めて強くなるためだ』と迷いなく答えるだろう。


 比較的、真面目に話を聞いてくれる神官の類も、結論はいつも同じ。自身の宗派が一番素晴らしいのだから、レイも入るべきだ、と宣うばかり。


 魔王もやはり、彼らと同じ、答えを持たない者共の一人だと言うだけだ。


 しかし、魔王はそこでは終わらなかった。


『……ですが、ヒントならば与えられるかもしれません。あなたと同じように、実存に苦しんだ多くの先人たちの思索を私は知っています。例えば、私の世界の宗教の一つである仏教には『悟り』という概念がありまして』


 魔王の話は、興味深かった。


 この世界のヒトの信仰は、神徒のような一神教徒か、もしくは、アニミズムに近い精霊信仰しかない。どちらも、信仰することで、魔法という現世における実益があるので、仕方ないことと言えた。だが、実益に裏打ちされた信仰は抽象的な思考には強くないのだ。


 その点、彼が元いた世界には魔法が存在せず、それだけに信仰による救いを実感するには、深い思索が必要だったようだ。


『――非常に興味深いね』


 レイは魔王に興味を持った。


 『強欲』に知識を求める彼女としては、魔王が持っている知識を全て手に入れたいと思った。


『関心を示して頂けたようでなによりです。では、こうしましょう。あなたが私の仕事を一つこなしてくれる度に、私はあなたの知らない思想を一つお教えします。とりあえずは、先ほど申し上げた知識の代償に、一つ仕事を頼まれてください』


『おいおい。まだボクは雇用されることに同意していないのに、押し売りかい?』


『もちろん、断ってもらっても構いませんが――受けることをお勧めします。これは、経験則なのですがね。実際に身体を動かすことでしか見えてこないこともありますよ。あなたは《仕事》に打ち込んだ経験はないでしょう?』


『――確かにそうだ。……まあ、暇だしね。しばらく、働いてみるのも悪くないかな』


 レイは試しに魔王の下で働いてみることにした。


 魔王に対して忠誠心というものまでは抱けなかったが、少なくとも、レイの悩みに真剣に取り合ってくれた厚意に、報いるくらいのことはしてもいいと思ったのだ。


「レイの言うことは、いっつも雲みたいにふわふわしててよくわかんないなあ」


 アイビスはズダ袋に顎をのせて、退屈そうに呟く。


「ボク自身もそう思うよ。ま、ともかく、ボクも魔王様を気に入ったってことさ」


「お、お兄ちゃんはアイビスの恋人だからね、好きになっちゃダメだよ?」


「そういうのには興味がないって言ってるだろう。大体、魔王様には、『妻』や『娘』がいる訳だけど、それはいいのかい?」


「シャムゼーラもプリミラも別にお兄ちゃんに恋してる訳じゃないでしょ? 魔族内での立場を強くしたいから、ああいう立場を確保しただけ。私とお兄ちゃんの間には、本物の心の絆があるんだから!」


「そういうものかねえ……」


 レイは曖昧に頷く。


「あっ。港が見えてきた! ここからは、レイの仕事だよ。見た目の方は、わらわが上手い事いじってあげるから、しっかりね!」


「はいはい。アンカッサの街を支配している商人たちとは別の派閥と商談をまとめてくればいいんだろ? わかってるさ」


 口を酸っぱくして言うアイビスに、レイは頷いた。

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