第33話

 翌日の夕方。真治は久しぶりに日が出ている時間に職場を出た。

 仕事中、真治の動きは精彩を欠いていた。心ここにあらずといった様子で、書類を作れば誤字だらけ、投与する薬を間違えそうになるなどインシデントを起こし、患者にも心配されるほどだった。

 一日中まともに作業できていなかったせいで仕事は山積みだったが、上司も同僚も口をそろえて帰れと言った。お言葉に甘えて早引きした。

 そして今、真治は途方に暮れていた。


「……どうしよう」


 どんな話をするか考えておいた方がいいのではないか。

 健治が訪ねてくるのだから、健治から話したいことがあるのではないか。

 夜に来ると言っていたが、何時に来るのか確認しておきたい。

 健治は夕食をどうするのだろう。

 掃除くらいした方がいいか。

 自宅には掃除するほど物がないし、何を話すか考えておいた方がいいのでは。


 時間があるから考えてしまう。そして考えは堂々巡りを繰り返し、考えるばかりで結局何も手につかない。

 無駄な時間を過ごしすでに日は沈んでいる。

 健治はまだ来ない。今日は平日だ。仕事を早退したことは伝えていないから、もともと夜来るつもりだったのだろう。

 そう認識するとぎりぎりまで導火線が近付いているようで落ち着かない。導火線の長さが分かっていないとなおさらだ。


「よ、よし、何時に来るか聞いてみよう。それくらいならおかしくないよな、うん」


 せめてタイムリミットを知りたい。そんな気持ちが今日初めて生産的な行動を取らせた。

 何時ごろ来るんだ、とメッセを送信する。そしてすぐに後悔した。

 返事が来るのが先か、それともすでに家の近くまで来ていて返信より先にドアがノックされるのでは。そんな妄想じみた危惧をしてしまう。


「いたたまれない……」


 待っている時間さえ落ち着かない。

 やらかした自覚がある。

 これまで真治は健治を守ってきたつもりでいた。

 だからこそ健治がトラウマらしきものを抱えていても甘えと思った。守ってくれる人、そばにいてくれる人がいる健治が恵まれているように見えた。

 妬ましかった。反感があった。

 一目顔を見るくらいの時間ならすぐに捻出できたのに、そんな思いが拒絶させた。

 健治が自分に会いに来ようとして挫折したと聞いて、恩知らずとすら思った。

 だが、咲希から話を聞いて反感の方向が一斉に変わってしまった。

 なんて酷なことをしたのかと過去の自分が恨めしくて仕方ない。

 つくづく思う。最初にメッセが来た時、素直に会って終わりにしておけばよかったのだ。

 そうすれば嫌な真実を知らずに済んだ。


 そりゃあ俺の顔を見るのは怖いよなあ。

 今ならそう思う。むしろ、一番つらいタイミングでとどめを刺してきた相手に会おうと決心しただけで尊敬すべきだとすら思う。

 気を落ち着かせようと深呼吸しているとスマホがヴ―と鳴った。


『七時くらいに着くようにいくつもり。夕飯何か買ってこうと思うけど、食べたいものとかある?』

『ありがとう。なんでもいいよ』


 なんとかそれだけ返信して時計を見る。時刻は六時前。まもなく健治はやってくる。

 いたたまれないなんてものではなかった。心臓が不規則に脈打ち、呼吸が荒くなる。いっそ早くとどめを刺してほしいのに、こんな時ばかり時間の流れが遅くなる。

 苦しい時間にリフレインするのは家を出た日の記憶。

 言い訳にしかならないが、決して健治を傷付けたいわけではなかったのだ。もう健治が自分を頼らないよう振り払ったつもりだった。

 健治を思うやさしさのつもりが、健治にとって最も酷なとどめになっていた。当時の健治の心境を想像するだけで吐き気がする。


 せめて兄として、脂汗にまみれた状態での再会は避けたい。できれば息も整えたい。ギトギトの顔でハアハア言っている兄とか真治でも嫌だ。

 七時まであと十分。顔を洗う余裕はあるはずだ。


 そんな真治を嘲笑うようにインターホンがなった。

 ピンポンと気の抜ける音。しばらく前には仕事で訪れる人しか使わず、最近でも咲希くらいしか使わなかったもの。

 ざざっと一瞬ノイズがした。


『こんばんは、健治です。兄さんいる?』


 そんな声と共にがちゃっとドアノブをひねる音がした。


―――


「いいかげん、独り立ちしないといけない」


 学園祭の片づけを終えた日の夜。健治は自宅で呟いた。

 聞く者は誰もいない。考えを整理したくて口に出しただけだ。


「ずっと秀に寄りかかってきた。秀がいなくなってからは咲希にべったりだった」


 ずっと秀人の後をついて生きてきた。その背中を見ていた。

 幼い頃にはついて回って、話す言葉も真似ていた。

 物理的についていくことは減ったが、小学校時代にいじめから助けてもらい、最近ではデートコースを探すのに付き合ってもらっていた。

 咲希に告白できたのだって秀人のおかげに他ならない。秀人が背中を押さなければ、今でも一人で悶々としていただろう。


 ずっと咲希を目で追っていた。

 秀人の背中を見るばかりだった健治に、違うものがあると教えてくれたのが咲希だった。

 咲希に笑ってもらいたくて、秀人になくて自分が身に着けられるものを探すようになった。おかげで秀人が歩いた以外の道に目が行くようになった。

 咲希がいなければ、健治は秀人の劣化版にしかなれなかっただろう。

 咲希に自覚はないだろうが、ずっと導いてもらっていた。


「でも、そろそろ二人にぶら下がるのはやめないと」


 学園祭を回っている時のことだ。

 健治と回っている最中、咲希は秀人からメッセージが来たと目をそむけたくなるような笑顔で見せてきた。

 そして健治は納得した。

 咲希は秀人が好きなのだと。


 秀人に対して罪悪感があった。

 今となっては誰も信じないだろうが、もともと秀人は明るくて遊び好きの性格だったのだ。小学校でも一年生の頃には同級生に好かれ、たくさんの友達に囲まれ笑っていた。


 咲希が石を投げられた日、それは変わり始めた。

 上級生を殴り倒した秀人を、周囲は「あぶないやつ」と遠巻きにした。

 しばらくは何事もなく、ほとぼりは冷めつつあったのだ。

 ちょうどそんな頃合いに、同級生たちが異性を意識し始めた。

 咲希にちょっかいを出す男子生徒が続出した。それをやっかむ女子がいた。

 秀人は、咲希の手に負えなかったことごとくを振り払った。その頃から狂犬のような扱いを受け始めた。


 同じ頃、母から健治に対する当たりが強くなった。プールの授業で大きなあざを見られることがあった。遠足の日に弁当が用意されず、家に忘れてしまったと笑ってごまかしたことがあった。

 大人というものは無責任で、子供というものは残酷だ。親たちの口さがない噂は子供の耳に届き、裏付ける証拠を見つけた子供は容赦なく健治を責め立てた。

 自分でなんとかするから、と秀人をなだめたことが何度もあった。大事になったらもっとひどいことになるという直感があった。

 結局、健治にはどうすることもできなかった。暴力を振るわれた証拠、物を壊された証拠を集めたが、それを使って対決する踏ん切りがつかなかった。

 いじめが終わったのは秀人が大暴れした時だった。

 秀人がいきなり暴れて大勢に怪我をさせたという噂が流れた。


 ずっと感じていた居心地の悪さ。学園祭をきっかけにその正体に気が付いた。

 罪悪感だ。

 自分さえいなければ、この場所には秀人がいたのではないか。

 秀人の立ち位置を奪った後ろめたさがあった。


 もともと社交的で好奇心が強かった秀人なら、学園祭の実行委員をしていても全くおかしくない。

 みんなと笑いながら準備に精を出し、当日もめいっぱい楽しんだことだろう。


 秀人は健治が告白した翌日に旅に出た。

 まるで咲希の心が揺れる可能性を知っていて、邪魔にならないよう出て行ったようにも思える。

 佳花は咲希にとってもう一人の幼馴染と言えるほど長い付き合いだ。そんな佳花から見ても秀人と咲希はお似合いだった。

 健治の目にも、咲希と秀人が並んでいる姿は自然に見えていた。


 考えれば考えるほど秀人から奪ったものの多さに愕然とする。

 友達も、友達と過ごす時間も、咲希の隣も、誰かと旅をする楽しみも、すべて健治がいたことで秀人の手から零れ落ちたと思えて仕方なかった。


 早く独り立ちしなければならない。

 秀人はきっと帰ってくる。世界が終わる前に一度くらいは顔を見せにやってくるだろう。

 その時に秀人が本来の居場所に戻れるように。


 今にして思えば、きっと秀人も咲希が好きなのだ。

 秀人が最も大切にしているのは間違いなく咲希だった。

 だからせめて秀人がいない間は自分が守ろうと思う。

 決して寂しい思いをさせないように。悲しい思いをさせないように。暴漢が現れても立ち向かってみせる。

 秀人が帰って来た時に「僕はもう大丈夫」と笑って咲希と別れるのだ。

 十年以上かかってしまったが、それでようやくあるべき姿に戻すことができる。


 そう決めると心が落ち着いた。ふとした瞬間に秀人を思い出すことがなくなった。

 わずかにぎくしゃくしていた咲希との関係も昔のように落ち着いた。


「咲希に余計な心配かけたな。自分の問題くらい自分でどうにかしないと」


 ある日、メッセを開いた拍子に兄の名前が見えた。

 学園祭の準備期間中はあまりに忙しかったのでメッセを送らなくなっていた。

 どうせ返信はないと心が折れかかっていたが、咲希に兄の話をしていたことを思い出した。

 きっと咲希は覚えている。健治がもう気にしていないと言っても背を押そうとしてくれるだろう。

 咲希に気を遣わせたくないならさっさと自分で解決すればいい。

 これまでは自分からメッセを送りながらも返信を待っていた。一度は兄の家に行こうとしながらも途中で挫折した。


「中途半端はやめよう」


 今なら家までたどり着ける気がした。たどり着けなければいけないと決めた。

 メッセの画面を立ち上げ、兄に『明日の夜、会いに行きます』と送信した。

 いくら看護師が激務だと言っても夜ならいるだろうと思った。ダメなら今度こそ返信があるだろう。返信が無く、家にもいないなら家の前に居座ってやろうと思った。

 ちなみに健治は、夜勤という言葉を知っていても実際にどういうものか知らない。

 これまで度々送ったメッセは兄の予定を尋ねるもの。返信は来ないものだと思って送っていた。行動しているポーズで自分を誤魔化しているだけだった。

 ようやく自分から動き出すことができた気がした。

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