第32話

「最近、健の様子がおかしいんですよね」


 学園祭からしばらく経ったある日のこと。

 鈴片真治の家で、ご飯を口に運びながら、岩井咲希はそう言った。

 いかにも深刻そうな口ぶりだったが、肉厚な焼き鮭とご飯を交互に口に運ぶ手は止まらない。

 いきなりそんな話題を出され、深刻なんだかそうじゃないんだかよく分からない態度を取られ、真治は眉間にしわを寄せた。


「ンなこと俺に言われてもな。五年くらい会ってもいないんだぞ。俺より咲希ちゃんの方が健治のことは詳しいだろ」

「そうかもしれないですけどー。ちょっとくらい、どうかしたのかって聞いてくれてもいいじゃないですかー」


 ここ一年近く、咲希はこまめに真治宅に顔を出していた。

 真治は当初、どうせすぐに飽きると思っていた。咲希が家に来ることも歓迎しておらず、来るたび「また来たのか」と顔をしかめていた。

 咲希は気にした様子もなく、食材片手に真治の家を訪れた。歓迎してもしなくても家に来ることは変わらないと分かり、だんだんほだされた真治は、いつのまにか咲希と食卓を囲むようになっていた。

 気付いた日には愕然とした。気付けば咲希が食事を用意することも、一緒に食べることも当たり前のように受け入れていたのだ。生活を穏やかに侵食される恐怖を感じた。感じたのだが、その日のメニューだった夏野菜を大量に放り込んだカレーを食べているうちに忘れていた。

 そういった経験から、咲希は押しが強いと理解していた。意見をごり押ししてくるのではなく、真綿で首を絞めるように、外堀を埋めるように、自分の道理を押し込んでくるのである。積極的に拒否する理由に薄かった真治はいつの間にかしっかりなれ合ってしまっている。

 今日も、どうせ無視しても勝手に話し始めるのだろうと極めて正確な予測に従い、麦茶を片手にさっさと水を向けることにした。


「……健治がどうしたって」

「最近、デートに行ってもキスを狙ったりしてくる感じがなくなったんですよね」


 口に含んでいた麦茶を吹き出しそうになった。噴き出すまいとこらえたら気管に入り込んで激しくむせた。


「ちょっと前まであからさまなデートスポットに連れてかれたり、キスしようとする意志を感じてたんです」

「おい、ちょっと待て。激しくむせてる俺は無視か。そんで、自分の恋人の兄に相談する話題かそれ」

「真治さんくらいしか話せる人がいないんですよ」


 これまで何かあった時の相談相手筆頭だった秀人はいまだに帰ってこない。メッセを送っても返信は不定期だ。小百合はそういった話題を振ると無意識だろうかすごく嫌そうな顔をする。咲希は潔癖なのかなと思っている。

 佳花に相談しようとも思ったが、佳花に恋人はおらず、恋人がいた時期もない。それでいて佳花と健治の付き合いは浅いものなので、相談されても佳花が困ると思い自重した。

 そして白羽の矢が立ったのが、最近顔を合わせていないといえど、血を分けた実の兄弟である真治だ。最近の健治を知らないからこそ、過去の健治と照らし合わせ新たな視点からの意見をくれるのではないかと期待した。


「もともと行動がちぐはぐだったんです。それが最近はなくなって、微妙にかみ合わなかった会話もかみ合うようになりました。どう思いますか」

「会話がかみ合うならいいことなんじゃないか」

「それはそうですけど。ころころ態度が変わる理由も分からなくて気持ち悪いんです」


 健治との付き合いで、咲希が最もストレスを感じているのは、『よくわからない』ことである。

 咲希と健治の付き合いは長い。その安心感も咲希が健治に抱いている好意のひとつだ。告白された時のまっすぐなまなざしは咲希にとって心地よいものであった。

 付き合い始めてから健治の態度は徐々に変わっていった。

 最初はよかった。ふるまいは変わったが、それは関係が幼馴染から恋人に変わったことが原因とわかった。はしゃいでいるのも可愛げだと思っていた。

 いつからか、ふとした瞬間に考えこんでいることが増えた。咲希が楽しいと感じ、健治も楽しんでいるだろうと振り向いてみると上の空になっている。


 ここ最近は考え込むことが無くなった。話していると優しく笑って咲希の顔を見ている。笑う顔が嘘には見えないし、確かな好意を感じるのに、どこか遠い。

 恋人になったはずなのに、付き合う前のような距離に離れた。そのうえ咲希と健治の間には透明なカーテンがあるような触れなさがある。

 居心地が良い立ち位置に戻ったはずなのに、どうにも収まりが悪かった。


「じゃあ別れたらいいんじゃないか」

「弟が勇気を出して築いた関係をサラッとつぶそうとしないでくださいよ」

「だってなあ。恋人なんて結婚と違って法的な縛りがない関係だぞ? 嫌なら別れりゃいいじゃないか。気が向いたらまた付き合ったっていいんだし」

「それは……正論ですけど。私は別れたいわけじゃないので」


 健治が嫌いになったのではない。自分を大切にしてくれるし、趣味も合う。これ以上の恋人に巡り合うのは難しいだろうなと思う。一緒にいて気楽な得難い相手だ。


「やはりここは真治さんに、健の真意を問い質してもらうしか」

「どうしてそうなる」

「私から聞いたらカドが立ちそうですしー。かといって友達とか関係薄い人から行ったら余計なイザコザが発生しそうですしー。真治さんから会いに行く口実に使ってもらえれば一石二鳥かなって」

「……俺が咲希ちゃんからそんな話を聞いてるって知ったらそれこそイザコザが発生すると思うんだが。そもそも俺から尋ねてもあいつがまともに話せないんじゃないか? 家を訪ねようとするだけで貧血起こすくらい苦手意識があるんだろ」


 今でも健治と真治は会っていない。

 学園祭で忙しかったのか、近頃は健治からメッセが届かなくなっていた。

 真治にしてみれば平和で素晴らしいことだ。健治からメッセが来ると靴の中に小石が転がっているような気分になる。返事を寄越さない兄にメッセージを送ることに疲れたのか、それとも単純に飽きたのか。どんな理由にせよメッセが来ない方が心穏やかに過ごせる。


「どうして俺にそんな苦手意識があるのか分からないけどな」

「確かに、お母さんに会うならともかく真治さんにトラウマがあるっていうのもちょっと変な気がしますね」

「……は?」


 咲希がさらりと告げた言葉に真治は違和感を覚えた。

 意識して思わせぶりなことを言ったわけではないようで、真治の視線を受けた咲希は不思議そうに首をかしげていた。


「どうかしましたか」

「どうして、健治が母親に会うことでトラウマが刺激されるんだ?」

「どうしても何も、親に捨てられるって結構な衝撃だと思うんですけど。しかも別れ際にあんなこと言われたら……いくら虐待してきた親からでも、私じゃ立ち直れないかもしれません」


 咲希はおかずをつまんでいた箸をテーブルに置き、目を伏せた。

 沈痛な面持ちに心臓が不規則に鳴るのを感じる。


「虐待って……あの女がロクなことしないのは知ってるけど、トラウマになるようなことはされてなかったはずだぞ。少なくとも俺の前じゃあ甘やかされてた」


 健治が赤ん坊の時、母がカッとなって殴ろうとしているのを止めたことがあった。

 母が陰鬱な表情で健治を詰っていたので「うるせえババア」と矛先を変えさせたことがあった。

 そんなことを繰り返すたびに悪意の矛先は真治へ向くようになった。

 言うことを聞かない真治への当てつけのように健治を甘やかすようになった。

 腹の弱い健治に大量のアイスクリームを与えるなどお仕着せがましい優しさだったが、母から虐待らしい虐待を受けているところを見たことがなかった。


「真治さんが見ていないところでやってただけじゃないんですか」


 咲希がもたらしたのはとてもシンプルな答えだった。


「あの人と真治さんが立て続けに出て行ったあと、健は落ち込んでました。だから、秀と三人で出かけたんですよ」


 健治の父親は仕事で留守がちだった。母と兄までいなくなり、寂しいのだと思った。

 元気づけようと思って、秀人と一緒に遠出に誘ったのだ。


「普段、健は家のことを何も話しませんでした。けどあの日だけは、違いました。あの人や真治さんのこと、あの人が出て行った時のこと、話してくれました」


 三人で大きな動物園に行った。

 咲希が健治の手を引き、秀人が健治の背中を押した。

 はじめは戸惑いがちだった健治はだんだんと自分からどこに行きたいと言うようになった。

 夕暮れのベンチで、そろそろ帰ろうかと話している時に、健治は口を開いた。

 最初はぼんやりした笑顔で、次第に頬をひきつらせて、最後にはぼろぼろ涙をこぼしながら。


「あの女が、なんて言ってたって?」


 真治は言いようのない焦燥感に駆られていた。自分が致命的な誤りを犯していたと直感しながらも、聞かずにはいられない。

 胃がせりあがり、食べたばかりの夕食を吐き出しそうになりながら尋ねた。


「『お前なんかいらない』って言われたそうです」


 健治は真治によって守られていた。そのため母への感情は嫌悪のみではなかった。

 当てつけの優しさと暴力でしつけられた健治は家を出て行こうとする母に縋りついた。

 そんな健治を振り払いながらそう言い放った。実際には聞くに堪えない罵倒を重ねていたが、最初の一言によるショックで呆然としていた健治の耳には入らなかった。


「…………最悪だ」


 真治は、母に言われた健治にも劣らないほどの衝撃を受けていた。

 全身から力が抜ける。顔の筋肉が緩み中途半端な笑みのような表情になる。

 いっそ笑ってしまいたかったが、あまりにも笑えなかった。


「真治さん?」


 尋常でない様子に気付いた咲希が顔を覗き込む。

 真治は両手で自分の顔を覆った。


「ごめん咲希ちゃん、今日はもう帰って。食費入れからお金出していいから、タクシーで帰って。後片付けも俺がやるから」

「あの、大丈夫じゃないですよね」

「そーだよ。頼むからしばらく一人にさせて。近くにいられたら八つ当たりしちゃうかもしれない。そしたら多分俺は死にたくなる。だからお願い」


 それは懇願だった。床に額をくっつけそうな声音だった。

 とても八つ当たりができそうな気力を感じなかったが、きっと真治の精いっぱいの気づかいだ。


「失礼します」


 案じる気持ちは押し込めて、咲希は言われた通りタクシーを呼んで帰った。

 もし自分の身に万が一のことがあれば、真治は本当に自殺しそうなほど思い詰めてしまいそうだったから。


―――


 その夜。食卓に並んだ器もそのままに、真治はずっとうつむいていた。

 過去を振り返り後悔と自己嫌悪に苛まれていると、スマホが震えてメッセの着信を教えてくれた。

 とても誰かのメッセージに反応できるような状態ではなかったが、今すぐ確認しなければならないという強迫観念に襲われた。

鈍く光るディスプレイを見る。


『明日の夜、会いに行きます』

 弟からのメッセージを読み、真治は吐いた。

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