第34話

 翌日の夕方。健治は近所のデパートにいた。

 少し前に、真治から初めてメッセの返信があった。何時くらいに着くつもりなのかと問われ、とりあえず七時頃に到着するつもりだと伝えた。

 ついでに夕食の予定を尋ねると、なんでもいいとのことだった。

 一切返事がなかったこれまでが嘘のようにやりとりができた。


 夕食くらい自分で作ってもよかったが、健治の料理スキルは高くない。

 兄が家を出て、父も留守がちになり、料理を作っても自分ひとりが食べるだけだった。わざわざ手の込んだものを作ってもむなしいばかりで、雑な料理しか作ってこなかった。

 せっかくの再会だ。どうせならおいしいものを食卓に乗せたい。

 普段はデパートで買い物なんてしないが今日は別だ。自分に弾みをつけるためにも張り込もうと思った。


「兄さん、何が好きだっけ」


 健治には兄が笑って食事をしている光景が思い出せない。

 家で母の作った料理を食べる時にはいつも仏頂面だった。母がおらず兄が手ずから食事を用意した時は、義務的に料理を口にしているようだった。

 事実、真治が健治の前で笑って食事をしたことはない。

 母は料理が上手くなかったし、何か変なものでも入れてないか警戒しながら食べていた。自分で作る時にはただの補給として食べていた。そんな日常が続いたせいで、笑って食べるという習慣はなかった。父に外食へ連れていかれても淡々と食べていた。

 とはいえ、兄が自分で食べるものを選ぶ機会は何度もあった。選択の傾向くらいは分かるはず、と健治は必死に記憶をあさった。

 結果、選んだのはハンバーグ弁当と和風ローストビーフ弁当である。健治の記憶にある真治は、魚より肉を好んでいた。こってりしたものを食べていた記憶もあるが、激務で疲れた状態ならあっさりしたものが良いかと悩み、それぞれひとつずつ買うことにした。

 真治に選んでもらい、健治が余った方を食べればいい。どちらも弁当ひとつで健治の一日分の食費くらいの値段だった。


 早足で真治のアパートへ向かう。

 以前は緊張と不安で心臓が暴れだした。

 今日は違った。自分でも不思議なほど落ち着いている。

 メッセに返信があり、普通に迎えられると分かっているだろうか。それとも自分で決心がついたからだろうか。弁当を買って、喜ぶかななんて考えているからだろうか。

緊張はあっても、決して後ろ向きではない。それなりに手ごたえがあったテストの結果発表を待つ心持である。久しぶりに会ってどんな話をしようかと考える余裕があった。

 六時五十分。事前に連絡した時間より早く真治のアパートに到着した。

 駐輪場には見覚えのあるクロスバイクがあった。父が高校進学祝いと兄に贈った自転車だ。記憶にあるよりずいぶんぼろぼろになっていたが間違いない。

 誰かの家に行く際には予定より早い到着が好ましくないと聞いたことがある。しかし、相手は兄だ。時間が早いと言っても十分程度。許容範囲内だろうと思ってドアノブに手をかけた。


「こんばんは、健治です。兄さんいる?」


 ドアノブをひねろうとすると、がちゃっと音がするだけでドアは開かなかった。

 思っているより緊張していたことに気付く。在宅でも不審者対策に鍵くらいかけるだろう。健治だって普段は施錠しているし、友人の家に行った時にはノックしてからドアを開ける。

 念のためノックして、もう一度「こんばんは」と大きめの声を出した。あとはドアの鍵が開くのを待つばかりである。

 いよいよ兄と再会すると思うと心臓が高鳴る。兄はどんな姿になっているだろうか。高校の制服を着た自分は兄の目にどう映るだろうか。


 そんなことを考える健治がおかしいと思うまでに一分ほど時間がかかった。

 一向に鍵が開かないのである。それどころか家の中から物音がしない。

 パッと見たところ、真治のアパートはさほど高級な部類ではない。生活音が一切漏れず、外からの音が聞こえないほどの防音ではないだろう。ドアの前で耳をそば立てている健治に足音の一つも聞こえないとは考えづらい。


「兄さん?」


 先ほどより力を入れてノックすると、がたっと音がした。

 もしかして寝ぼけていたのか、と無理のある想像をしながら待ってみるが、鍵が開く気配はない。

 不安に思いスマホを取り出し兄の住所、部屋番号を確認する。兄が住んでいるのは目の前の部屋であり、間違った部屋を訪ねているということはなさそうだった。

 部屋から物音がしたということは、コンビニに買い出しに行ったりしているわけでもなさそうだ。


「もしかして空き巣か何か? 兄さん、兄さん!」


 弁当を廊下に落とし、大きな声を出してバンバンとドアを叩く。

 部屋の中からバタバタ音がする。それは来訪者を穏便に出迎えようとするような気配ではなく、慌てて家を飛び出そうとするかのような音だ。

 警察に通報するか、大家に頼んで鍵を借りるか、隣の部屋の人に頼んでベランダを伝って部屋に侵入するか。

 どうすべきか考えながらも決められず、いっそのことドアを蹴り破ってやろうと実行に移す直前のこと。

 どだん、と一際大きな音がした。

 まるで重いものが高いところから落ちたような音だった。

 脳裏をよぎったのは空き巣に抵抗した兄がベランダから突き落とされる光景。

 とっさに振り返った。早く裏手に回って、状況を確認しなければと思った。万が一のことがあればすぐに救急車を呼ばなければ、とワンタップで119番通報できる状態のスマホを握りしめて階段に向かおうとした。

 視界の端に人影が写った。

 成人男性と思しき人影は駐輪場へまっすぐ向かって行った。

 そしてガチャガチャと自転車をいじり、サドルにまたがって、猛烈な勢いで逃げ去った。

 人影が乗った自転車には心当たりがあった。

 まさか、と呆然としつつ駐輪場へ向かう。

 駐輪場から兄のクロスバイクが無くなっていた。近くには鍵のささった錠が投げ捨てられている。


「は……?」


 何が起きたのか、半ば理解しつつも信じられなくてアパートの裏に向かう。

 兄の部屋の窓は普通に開いていた。割られた形跡はない。

 もう一度、兄の部屋の前へ戻り、ノックした。何の音も帰ってこなかった。


「逃げた……?」


 それ以外考えられなかった。

 普通は急用が入ったくらいで二階から飛び降りたりしない。

 空き巣ならわざわざ盗みに入った部屋で自転車の鍵を探して、家主の自転車で逃げたりしない。

 いやでも、もしかすると親しかった人が強盗に、と現実逃避しそうになったところで右手に握ったスマホが震えた。

 おそるおそる見ると、兄からメッセが来ていた。

 そこにはひとこと。


『ごめん』


 とだけ記されていた。


「ざっ……けんな!!」


 やりきれない思いでもうドアを強く殴った。

 意味が分からなかった。

 兄には自分から逃げる理由がないはずだ。

 家にいる間はずっと助けてくれた。ふんぞり返って「来るのが遅かったな」と言われても笑って受け入れることができた。

 何時ごろに来るかとメッセをくれたのも、迎え入れてくれるからだと思っていた。

 意気揚々と尋ねてみたら慌てて逃げた。

 これが裏切りでないなら何だ。会う気がないならそう言えばいい。

 健治は今日会って、これで満足かと言われ絶縁されることすら覚悟していたが、会いもせずに土壇場で逃げられるとは想像していなかった。


 隣の部屋の人が現れて、いい加減うるさいんですけど、と睨んできた。

 ごめんなさい、と頭を下げて、視界に入った弁当を持ってアパートを後にした。

 丁寧に作られた弁当は袋の中に漏れ出して、見る影もなくなっていた。

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