第28話 「クリーニングに出したいな」

「……急にどうしたのさ」


 僕は冷静だった。自分でも驚くほど冷静だった。冷静じゃなかった。ただ頭が真っ白になっているだけだった。何も思考ができず取り乱すことも出来なかっただけだった。


 すると古賀さんはにこと笑って、「急じゃないよ」と言った。「急じゃないよ。ずっと死にたいんだよ、わたし」


「ずっとって」


「あ、ずっとって言っても、一樹くん程じゃないよ。具体的には――丁度一年くらい前。わたしが穢れちゃったときからだね」


 穢れちゃったとは、つまり――。


「ヤリ捨てられてさ。写真もいっぱいとられてさ。それが出回っててさ。ビッチなんて言われててさ。未だに色々嫌がらせされててさ。そんなの、耐えれる訳ないじゃんか。わたし、普通の女の子だよ。普通の女の子なんだよ。普通の女の子なんだよ?」


 最後の言葉は、僕に向けてじゃない、全然別の方向へと向いていた。


 古賀実は、穢れてしまったのだ。身体も。精神も。女も。その名前も。

 ……今になって、気付く。古賀さんがジャージを持ち歩いていた訳に。制服の汚れを落とす手付きは、随分と慣れたものじゃなかったか。学校指定の手提げ鞄じゃなくてリュックを背負っているのも、鞄も穢されてしまったからかもしれない。引き出しの中に物を入れて置きたくないから、大きなリュックが必要なのかもしれない。


「いじめはさ、もうほとんどなくなったけどさ、でも、終わってないの。いじめは終わっても、わたしの中で終わらないの。わたしはもういじめられっ子なの。わたしは普通の女の子なのに、みんなの中じゃあ普通じゃないの」


「……古賀さん」


 僕は彼女の名前を呼んだ。名前を呼んで、そして言葉を続けようとした。しかし何も出てこなかった。やはり――やはり、文芸部に入部する際と同じように、開いた口から言葉が出ることはなかった。僕は真っ白でからっぽだった。人間として、あまりにも薄っぺらかった。


 そんな僕を見て、古賀さんは笑った。また違った笑顔だった。それは蔑むような、何も言えない僕を憐れむような、そういうニュアンスが込められていた。


「ねえ、一樹くん」


「……なに」


「一樹くん」


「なに」


「だからね、わたし、優しくされたかったの。大切に思われたかったの。こんなになっちゃったけど、だから、普通の女の子として見られたかったの――大切に思われたかったの」


「……うん」


「あは、やっぱり分かってない。一樹くんの初恋童貞プロデュース大作戦、あれ嘘なの。本当はね、『古賀実ちゃんを大切な存在にしちゃおう大計画』だったの」


「大切な存在に……?」


「……ああ、だからさ」


 彼女の言葉の意味を察せられない僕に、古賀さんは苛立ったようにカッターを握る手に力を込めた。ぐっと、彼女の白い肌に、ナイフの無機質な銀色が食い込んだ。


「一樹くんが告白して来て、嘘って見破って、その理由を聞いて、その時、ぴんと来ちゃったの。なんかこう――適当なこと言って、わたしを頼らせて、一緒に居て、いろいろする、そうすればわたしに惚れてくれるって。優しくしてくれるって。大切に思ってくれるって。普通の女の子として見てくれるって――」


 古賀さんは一気に言葉を吐き出すと、カッターを持っていない方の手で僕のカフェラテのカップを乱暴に持ち上げ、その中身を口の中に流し込んだ。


 その隙にカッターを取り上げようとするけれど、「ダメ」、僕の顔の前に銀色が向けられた。古賀さんはコーヒーカップをソファの上に投げると、今度はカッターを自分の首筋にあてがった。


「――だから、気になる人を聞いた時にわたしの名前を出したのは驚いた、驚いて運命だと思った、咄嗟の思い付きだけどこれが正しいんだと思った。そうしろって言われてると思った。運命? 神様? 天使? とにかく、そう思ったの」


 ふう、ふう、ふう、早口で捲し立てる古賀さんは肩で息をしていた。しかしその早口と裏腹に、彼女の表情はいつもと変わらない。早口なだけで、口調もトーンもいつもと変わらない。


「その時点で、上手くいくはずだった。一樹くんはわたしを大切に思ってくれるはずだったし、もしうまくいかなかったら、わたしが一樹くんと心中してあげるつもりだった。どっちに転んでも、わたしの願いは叶うはずだった。なのに、なのに、なのに――」


「……あいつは、そういうのじゃないって」


「分かってる」きっぱりと、うなづいた。「分かってるよ。一樹くん、あの人と一緒に居て凄い嫌そうな顔してたし、そう言う関係じゃないって分かってる。でも、ダメなんだ。わたしが許せなかった。一樹くんが他の女の人と一緒にいることを、許容できなかった。わたし、自分で思ってたよりもずっと嫉妬深いみたいなの」


「黒川さんはどうなるのさ」


「黒川さんはいいの。わたしを大切にしてくれるから。でもあの人はダメ。いじめっ子みたいな見た目してるし、一樹くんを困らせてるし、っていうことはわたしも困るから」


「……僕は古賀さんを嫌わないよ。大切だって思ってる」


「こんなこと言って嫌わない訳ないでしょ」


「嫌わないよ」


「嘘」


「嘘じゃない」


「どうしてそう言い切れるの」


「死にたいって感情が如何に人を狂わせるか、僕は知ってるから」


「……でも、無駄だよ。古賀実ちゃんを大切な存在にしちゃおう大計画が無理だって分かっちゃったから、わたしは死ぬしかないんだ」


「……死んじゃだめだよ」


「それを一樹くんが言うの?」


「……死んじゃだめだよ」


 言いながら、こんなこと幾ら言っても無駄だと分かっていた。

 理論じゃない。理屈じゃないのだ。ましてや、死にたいの前に命の大切さを説くなんてあまりにも無駄なのだ。命の大切さを知るということは、その重みと責任と苦痛についても同様に知るということ。


 生が光なら死は陰だ。光が強くなれば陰も濃くなる。逆に、影が強くなるには光が光度を増すしかない。命を知るからこそ死に魅入られるのだ。死んじゃダメ。そんなの分かってる。分かってる。そんなの分かった上で、死にたいと、もう終わりにしたいと、何度も何度も思ってきたんだから。


 彼女は僕に愛されることを望んでいる。いや、それ以上だ。彼女は俺に依存してほしいのだ。髪の毛の一本、爪の一欠けら、良い所から悪い所、綺麗な所から汚い所、その全てを肯定されたがっている。でも無理だ。どだい無理な話である。彼女の学力が身に付くとしても、爪の垢なんぞ食べたくない。彼女の血なんて、飲めやしない。


「別に死んだっていいじゃない」


「……」


 僕は、思わず頷きそうになっていた。

 古賀さんは死んだ方がいいと、僕も思う。全くその通りだと、僕も思った。その方がきっと楽になれるだろう。


 でも、僕は止めようとしていた。

 死んだ方がいいと考えても、心は死んで欲しくないと叫んでいた。

 僕は、自分が何をしたいのか分からなかった。

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