第27話 「1190円也」

「おはよう」と、目を擦りながら廊下を歩く僕に、向こうからやって来た古賀さんは愛想よく挨拶をした。にこにこと、上機嫌そうに笑っていた。


「あ、あの、古賀さん……」


 しかし彼女は、僕の言葉がまるで聞こえていないかのようにすれ違った。


「続きは放課後、部室でね」


 こちらを振り向かずに言ったものだからいまいち聞き取れなかったが、多分そう言ったんだのだと思う。授業中も昼休みも、古賀さんは特に変わった様子もなく振舞っていた。


「古賀さん、本当にごめん……!」


 そして普段より倍ぐらいの長さに感じる授業をやり過ごし、部室で待っていると、十分ほどして彼女は現れた。僕の謝罪に、「どうして謝るのさ」と首を傾げながら、僕の向かいの席に座った。「あれ、黒川先輩居ないんだ」。彼女の定位置である窓際のテーブルには、どこにも刺さっていないパソコンの充電器がうねっていた。


「別に謝ることじゃないよ」


 古賀さんはリュックから三本のピクニックを取り出しながら、言った。


「だって、一樹くん、何か勘違いしてるみたいだけどさ、この一樹くんに恋愛を教えるプロジェクトは、その相手がなにもわたしじゃなくていいんだよ。っていうかわたしじゃない方が、色々やりやすい」


「いや……違うんだよ、古賀さん……」


「自分のことだと、やっぱり色々難しい難しかったからさ。これで、どうすればいいか困っちゃって停滞してたプロジェクトが進められるね」


「あいつは……そういうのじゃなくて……」


「でも……気がある子ができたのなら、そう言って欲しかったな。ちゃんと言って欲しかったな。わたし、ちょっと悲しかったな」


「だから古賀さん、俺は――」


「一樹くん!」僕の声を、古賀さんが塗りつぶした。「デートしようよ」


「……は?」突拍子もない話題の切り替わりに、僕はポカンと口を開けた。


「これから、デートしよ。暇でしょ、どうせ」


「……まあ」


 その通り僕には予定なんてない――テストの二週間前なのだから、その空き時間は暇では決してないのだけれど。


「どこ行きたいの」


「どっか」


「どっかって」


「……じゃあ、カラオケ。駅の方にあるとこ。知ってる?」


 そういうことになった。




*




 古賀さんは、中々の歌唱力を持っていた。彼女の美しい声が歌声に変換され、チープな音源に乗って部屋中に響く。僕は頭の中のどこか他人事な部分で「幸せだ」と思いながら、スティックシュガーを二つ入れたカフェラテをせわしなく飲んでいた。


「……ふう」


 曲を歌い終わると、古賀さんはやや上気した顔でマイクを置いた。聞いたことない歌だったし、その歌詞は頭に入ってこなかった。でも、多分、ラブソングだったと思う。


「次、一樹くん」


 そう言ってもう一本のマイクを僕の前にスライドさせる。「いや、僕、歌うの好きじゃないんだ」。特別音痴だとも思わないが、自分の歌声が嫌いだった。


「恥ずかしいの?」くすりと笑う古賀さん。


「違うよ」多分、その通りだった。


 そうこうしている間にカラオケのモニターが切り替わり、アニメの映像が流れる。このアニメに使われている曲の宣伝映像だ。その音と映像を煩わしく思いながらカフェラテに口を付けて、「古賀さん」、意を決して彼女の名前を呼んだ。


「なに?」


 やはり変わらず、にこにこと陽気な雰囲気を見に纏いながら、僕の方へと向き直った。


「急にどうしたの?」


「どうしたのって」


「とぼけないでよ。……デートだなんて」


「急じゃないでしょ。前に喫茶店に行ったし」


「……そうだけど、そうじゃなくて」


「じゃあどういう訳なの」


「そういう流れじゃなかったじゃん。このデートは、どういう意味があるの?」


「歌いたかったから、じゃ、だめ?」


「だったら、最初っからカラオケ行こうって言えばよかったよね」


「……」


「……言いたくない?」


「……わたしがさ」


「うん」


「もう、一樹くんとの例のやつ、続けられないって言ったら、どうする?」


「……相手は?」


「どっちでも」


 ……僕は慎重に言葉を考え、言った。


「しょうがない、って言う。……もともと、僕の我儘に付き合わせてる訳だし」


「……」やや間があって。「わたしが文芸部を辞めるって言ったら?」


「……僕が悪かった。色々としてくれてる古賀さんに対してあまりにも不誠実だった。ごめん、でも彼女は本当にそういうのじゃくて――」


「ちゃんと質問に答えて」有無を言わさない言葉だった。


「……しょうがない、って言うよ。でも、古賀さんが辞める位なら、僕が辞めるよ。そうすれば僕に合わずに済むでしょ?」


「……それだけ?」


「それだけ、って……」


「……」


 古賀さんは何か言いたそうに僕の目を見ていた。僕はじっとそれを見返して続く言葉を待ったが、「そっか」と言って、彼女はこのやり取りを打ち切ってしまった。


「ねえ、一樹くん」


 オレンジジュースを一気に飲み干してから、古賀さんは再び僕の名前を呼んだ。


「なにさ」


「わたしさ、ずっとやりたいことがあって」


「うん」


 すると古賀さんは、スカートのポケットからカッターナイフを取り出した。百均やコンビニに売っているような細いものではなくて、ホームセンターで売っているような、サバイバルナイフくらいの大きさのあるものだった。


「死にたいの、わたしも」


 そして、チキ、チキ、チキと、見せつけるようにゆっくりと刃を出すと、しっかりとロックを掛けてから自分の手首にあてがった。


「これは、一樹くん、止めてくれる?」


 そしてにこっと、やはりいつも通りの笑顔だった。

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