第26話 「ヤバヤバのヤバ」

 古賀さんの件とは違い、ウサユキとの詳しい経緯は黒川さんには話さなかった。ただ、「僕はあの子と恋愛関係にない」「古賀さんを騙している訳じゃない」とだけ伝えた。「うん、そんなに心配しなくても、分かってるわよ」。本心は分からないが、少なくとも黒川さんは、そう言って僕を安心させるように微笑んだ。本当に、本当に、この人はすごい。


 そしてコーヒーを飲み干したところで、僕は早々に帰宅することにした。気まずかったというのはもちろんあるけれど、今日はもう、数式やら年表やらが頭に入る余裕はないらしい。


 コーヒーカップを手に立ち上がったところで、「それ、私が一緒に洗っておくわ」と黒川さん。食い下がらず、「お願いしていいですか?」。やはり彼女は頷いた。僕は一度も、コーヒーカップを洗ったことはない。


 校門を出ると、声が掛けられた。先輩。僕は足を止めなかった。すると隣からもう一度。先輩。


「……学校には来てほしくなかったんだけど」


 足を止めずに、そう言った。


「たまたまですよ」


 彼女のブラウスの胸ポケットには、一万円札が透けていた。どうやら本当にたまたま、この学校の生徒と遊んでいたらしい。


「まあ、せっかくだからと思って先輩を待ってたんですけど」


「……どうして僕が学校に残ってるって分かったの?」


「だって先輩、人の多い時間に帰らないじゃないですか。『就業から、大体一時間半経ってから。この時間が一番人がいないんだ』。そう教えてくれましたよね」


「……」二年前の自分を恨む。「それで、なんの用?」


「はい、ちょっと聞きたいことがありまして」


 聞きたいこと。

 ……それはおそらく。


「先輩、なんでもサセ子と仲良くしてるって話じゃないですか」


 ……サセ子というのは初めて聞いた言葉だったけれど、まあ、なんとなく、意味は分かった。


「……今日遊んだ人から聞いたの?」


「はい。声かけたけど逃げられちゃったから、あたしに白羽の矢が立ったって感じですかね。……あ、そんな顔しないでくださいよ、本番はしてないんで。これもただのお小遣い稼ぎです」


 あまり一緒に居る姿は見せないようにしていたけれど、古賀さんは変に注目されてしまっている人ではあるから、いつかは知られる話である。

 それに古賀さんは、文芸部に入部したあたりからあまりその事を隠さなくなっていた。教室で話したりはないものの、人前でも軽い挨拶くらいをしてくるようになっていた。


「古賀さんはそういうのじゃないよ」


「はあ、そうみたいですね」と何故か残念そうにウサユキは頷いた。「その人も言ってました。噂されてる割には、やったやつは誰もいないって。まあでも、真偽はどうであれ、そういう噂って一度された時点でアウトですからねえ。正しさよりも面白さ、特に性に関してのことは、女の子はエグいですよお」


 あたしが具体的に何を言われてたか、聞きます? ニタニタ笑いながら、ウサユキが言った。


「ま、先輩はそう言うの聞きたくないと思うんで言わないですけどお。それにあたし、その噂よりも大体凄い事してるんでね」


「……ウサユキは、どうしてそんなにへらへらしてられるの?」


「え、どうして、ですか?」


「古賀さんはその事で悩んで……苦しんでたのに、ウサユキはどうして平気なの?」


 するとウサユキはあの笑みを浮かべて、


「死を受け入れて、開き直ることですよ」


 そんなこと、聞かずとも先輩は知ってるくせに。彼女の表情にはそう書いてあった。


「いつでも死ねるんだからと思えば、怖い事も、嫌なことも、全部その前に霧散しちゃいます。まあ、あたしの場合は、根も葉もある、身も蓋もある、火だってあるただの事実だから、ちょっと状況は違うんですけどね」


「……でもそれって、死を理由に色々なことから逃げてるだけだよね?」


「そうですよ? あたしはそういうことを言っているんですよ」


「……ウサユキは、僕と心中したいって言ってたけど」


「はい」


「僕がそれを拒み続ければ、ウサユキは死ぬまで死ねないんだよ」


 すうっと、ウサユキは目を細めた。僕のその言葉に対して、彼女は何も言わなかった。


 気が付けば、あの喫茶ふくろうのある通りのすぐ傍までやって来ていた。やり取りに気を取られ、ウサユキに誘導されるがまま進んでいたらしかった。


「休憩……していきますか?」


 わざとらしい吐息交じりの声だった。僕は首を振る。「コーヒーならさっき飲んだよ」。「紅茶だってありますよ」。「これ以上ウサユキと話してると、頭がどうかしそうだよ」。「心はもうどうかしちゃってるのに」。


 そうこうしている内に店の前まで辿りついていた。当然のように、ウサユキは扉を引こうとするが――それより先に、内側から扉が開かれた。ガランガランと耳障りな音が聞こえた。


「あ、一樹、く……ん……」


 喫茶ふくろうから出てきたのは古賀さんだった。


「あ……あの……電車間に合わなくて……それまでここで時間を潰してようと――ごめんなさい!」


 古賀さん。僕が名前を呼ぶより早く、彼女は背中を向けて走り出してしまった。追いかけようとする僕の手を、ウサユキが引いた。


「男女が一緒に居るだけで勘違いしちゃうなんて、可愛いですねえ。あたしもあーゆー時期あったのかな」


「離して」


「自分だって、一樹くんと二人っきりなんて経験してるだろうに」


「離して」


「別に、振りほどいていけばいいじゃないですか」


 そして彼女は手を離した。僕は一目散に駆け出して、駅の入場券を買って、ホームまで探したけれど、古賀さんの姿は見つからなかった。

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