第四章 ボーイ・ミーツ・ガール・ミーツ・スーサイド

第25話 「酸っぱいは英語でサワー」

 僕たちは部室に集まって、ほとんど会話もなく、黙々とノートや問題集にペンを走らせていた。どうすれば古賀さんを惚れさせることができるのか、それは一旦、皆の頭から消えていた。いや、消えていなかったかもしれないけれど、少なくとも意識の端に追いやっていた。


 どうすればいいか分からないから問題を先送りにしている訳ではない。生徒手帳を持ち、制服に身を包んでいる以上、僕たちはテストの三文字から逃れることはできないのだ。どんな悩みがあっても、幾ら死にたくても、この呪縛からは逃れることはできない。


 学生にとってテストとは恋よりも命より重いものなのだ。これは大げさに言っている訳ではない。この時期になると、学校中の自販機からエナジードリンクの在庫が姿を消す。皆、命を削って試験勉強に取り組んでいる。


 僕と古賀さん、黒川さんの三人で部室でノートを突き合わせているけれど、これは勉強会ではなかった。黒川さんは隈の刻まれた顔で「教えてあげられる余裕も学力もないのよ、ごめんね」と言っていた。


 古賀さんは、なかなかどうして成績は良い方らしい。本人曰く「だって、集中して授業を聞いてなきゃ眠たくなっちゃうでしょ」とのこと。眠気というのは、授業を聞かなければという気持ちを糧に成長するものだと思っていたけれど、少なくとも古賀さんにとってはそうではないらしい。


「古賀さんって、勉強はどれくらいするの?」


「全然しないよ。課題だって、提出ぎりぎりまでやらない」


 ……いわゆる天才型というやつなのだろうか。いやそれとも、授業をしっかり聞いていれば本来は勉強なんて必要ないのか。いつも舟をこいでいるせいで注意すらされなくなった僕には分からない。


 ただ、僕も勉強ができないという訳ではない。もちろん成績優秀ではないが、あの授業態度でほぼ平均点を獲得できている。まあ、僕の睡眠時間と健康という多大な犠牲の上に成り立っているものなのだけれど。


「……あ」


 ふと、古賀さんがプリントに走らせているシャープペンを止めた。ノックする所がキャラクターになっている使い辛そうなシャープペンだった。何のキャラかは分からないけれど、淡い色使いから、多分サンリオだと思う。

 そしてリュックを机の上に置き、中身をがさがさと弄る。飴の大袋、お弁当箱、飲みかけのほうじ茶と色々なものを並べ、「……忘れてた」。何を忘れたのと訊くと「課題のプリント」。


「ああ、世界史のやつ?」


 世界史の先生はテスト前になると毎週のように大量のプリントを課題にしてくる。今週は五枚、だけれど裏表しっかり印刷してあるから、実質十枚。確か提出日は明日だった。


「あー、あれね……」と、黒川さんがありったけ同情を込めた目を古賀さんに向けた。黒川さんもこのプリントの束に随分と苦しめられたらしい。


「うわー、あれ、結構時間かかるよね?」


「うん、まあ」


「どれくらいかかった?」


「……僕は……四、五時間くらい」ちょこちょこ進めたからはっきりしたことは言えないが、多分それくらいだろう。


 このプリントの最も憎いところは、答案は配られないというところだった。しかし空欄は許されない。つまり分からない部分は自分で教科書や資料集を活用して調べなければならないのである。


「うわ……やばすぎてやばいっていう余裕もない……」


「プリント、貸そうか? 教室の引き出しに入ってるけど」


「うーん」かちかちとシャーペンをノックしながら、考えるそぶりを見せる古賀さん。「……いや、いい、頑張ってやるよ」


 ……こういう気真面目さが、成績に繋がっているんだなあと感心する。まあ、感心するだけで見習おうとは思わないけれど。


「これあげる」と飴を僕と黒川さんの前に置くと、雑に荷物をリュックの中に押し込んだ。「じゃあまた、明日も来ますんで!」


 リュックサックを揺らして足早に去っていく古賀さんの背中に、僕と黒川さんはふらふらと手を振った。飴は三ツ矢サイダーキャンディ、僕はパイン味で黒川さんはグレープだった。これ舌がボロボロになるんだよなと思いつつ、有難く口に放り込んだ。


「ねえ、一樹くん?」


 黒川さんは飴をポケットの中に入れて、本棚に収められているティーセットを指さした。これは「私は一服するけどそっちは何かいる?」の合図だ。「あ、僕が淹れますよ」と、いつものように言葉を返す。そして更にいつものように黒川さんは首を振って拒み、「コーヒー淹れるね」と席を立った。


「いつもすみません……」


 僕はノートをペンを一旦避け、ウェットティッシュでテーブルを拭く。黒川さんはケトルの中身を確認すると、スイッチを入れ、ティーバッグとインスタントコーヒーの用意をする。「一樹くんさ」。おもむろに、彼女が訊ねた。


「この前、女の子と相合傘してたよね」


「……」


 僕は机を拭く手を動かさず、「見てたんですか」と返した。


「うん。一樹くんが先に帰ってから、一時間くらい経って、親が迎えに来てくれるっていうから。それで……たまたま、車から見えちゃって」


 そのタイミングだと、僕とウサユキが喫茶店を出て、彼女の家の近くまで送り届けている時だろう。「傘捨てちゃったから、一緒に帰ってくれません?」。「いいよ、傘あげるから一人で帰りな」。「まま、そう言わずに」。流石に雨の中、傘を持たない女の子に一人で帰れとは言えなかった。


「ごめんね、言うつもりはなかったんだけれど……なんか言っちゃった」


 コーヒーのにおいが鼻をくすぐる。ほどなくして、そこに紅茶の香しいにおいが混ざり込む――いや、混ざらない。それぞれがそれぞれ、混ざることなく主張をしてくる。


「いいんですよ。……こちらこそ、すみません」


「どうして一樹くんがあやまるの?」


「だって……嫌な気持ちになったでしょ」


「……否定はしないけどさ。でも、そういうのじゃないんでしょ?」


「はい。……中学の時の、まあ、腐れ縁というか……」


「うん、大丈夫、分かってるわよ。一樹くん、凄い微妙な表情してたから」


「……そんなにですか?」


「少なくとも楽しそうじゃなかったわね」


 黒川さんがコーヒーを机の上に置いたので、僕は席に戻り「ありがとうございます」と言ってからそれに口を付けた。苦くて酸っぱい。でも、やはりそれでよかった。

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