第29話 「わんわん」

「どうして自分が死にたいか考えたことはありますか?」


 コーラフロートのアイスクリームをスプーンですくいながら、ウサユキがおもむろに尋ねた。昨日、駅のホームで古賀さんを見失った僕は、当然のように改札の前に立っていたウサユキの「休憩しましょう」という誘いにふらふら付いて行った。古賀さんのウサユキと行動を共にした不用意さが原因なのだけれど、ほとんど自暴自棄というか、なるようになれという感じだった。


「あたしら、生まれた時から死にたいって思ってたみたいなこと言ってますけど、でもそんなことある訳ないじゃないですか」


「あるよ」


 僕は頷いた。まさかリヤ王でもあるまいし、おぎゃあと鳴いた時からこの世界に絶望していたなんてことがある訳ない。絶対、どこかに理由があるはずなのだ。

 ただそれは何かきっかけが有った訳でもなく、物心つく前から漠然と感じていた負の感情が肥大化してしまったからそう感じるのであって、必ず理由はあるはずなのだ。


「でも、その理由は結局分からない」


「ですよねえ」


「ウサユキでもそうなんだ」


「でもって何ですか。やっぱり先輩、あたしにちょっと失礼じゃありません?」


 そう言いながら、彼女は楽しげな様子だった。


「自分のことは自分が一番よくわかってる、みたいなの。あれって嘘っぱちですよね。ていうか真逆。自分のことはよく分からなくて、でも他の人のことはよく分かる。なんでなんでしょうかね、あれ」


 他人のことだから勝手に分かったつもりになってるだけ、っていう可能性も無きにしもあらずですが。ウサユキはある程度アイスを楽しむと、それにぐさぐさとスプーンを突き刺し、コーラに溶かし始めた。


「先輩はあたしがどうして死にたいのか、分かります?」


「……考えたこともないよ」


「じゃあ今考えてください。適当でいいんで」


「……」僕は薄茶色のコーヒーに口を付け、十秒ほど、言われた通りに考えてみる。


「ウサユキは、性悪説の人間なんだ」


「性悪説?」


 ウサユキは手を止め、首を傾げた。


「生まれつき性格が悪いってこと」


「はっ、言いますねえ」


 そういう彼女は、やはりどこか楽しそうだった。


 性悪説での”悪”というのは、罪悪ではなく弱さという意味らしいが――まあそれは置いておく。


「ウサユキは性格が悪いから、この世界とか人間のことが嫌いなんだ。クソ野郎、死ね、消えろって思ってる」


「今のところ、100点です」と頷く。


「……でも、その世界とか人間ってのは、自分自身も含まれてるんだよ。ウサユキは何よりも、性格の悪い自分自身が嫌いなんだよ」


「……」唾を飲む間があった。「それで?」


「だから、雪子は破滅的な行動をするんだ。わざと罪を犯して、人から蔑まれるようなことをして。性格の悪い自分が間違ってると思いながらも、それを正しいと思うために、それを見せつけるように、わざと自分を貶めるんだ。……その本心と行動の乖離が、どんどんと心を壊して――死にたいんだ」


「……」


 雪子は何も言わなかった。ただ黙って、僕の顔と、白く濁ったコーラを交互に見たり、じっと目を瞑ったりしていた。僕は辛抱強く彼女の言葉を待った。しかし彼女は、とうとう僕の言葉に対する感想は何も言わず、「あたしが思うに先輩は」と切り出した。


「先輩は、あたしの逆です。やっぱり逆なんです。あたしが性悪説なら先輩は性善説。先輩は優しいんです。……」


 コーラフロートに口を付け、またもやしばらく押し黙る。


「優しいから、生きるのが辛いんですよ。理不尽とか、不条理とか、合理的じゃない色々なことが許せないんですよ。そういうもので溢れてる世界が許容できないんですよ。だから絶望してる。ひっそりと、そんな世界に迎合することなく振舞って死にたいと思ってる」


「……」


 僕は何も言えなかった。

 彼女が先程、しばらく何も言わなかった理由が分かった。

 本音を言われることは。言われたくなかったことを言われることは。目を背けていたことを突きつけられることは――こんな感情なのか。


 口を開ければ、声を出そうとすれば、その拍子に嗚咽が漏れてしまいそうになる。わんわんと、みっともなく、恥も外聞もなく鳴きだしてしまいそうになる。僕は涙を堪えるために、もう湯気の立っていないコーヒーやシーリングファン、メニューなどに転々と視線を移す。


「だから羨ましいって言ったんですよ。だからずっと嫌いだったんですよ。同じ死にたいなのに、根っ子の方から違うんだから。そっちの方が、ずっと、なんて言うか、人間らしいじゃないですか……」


「……僕は気が小さいだけだから。そこで雪子みたいに、破たんしてても行動に起こすことなんて無くて……ただただくすぶって、腐って。そんなの、なにも良いことじゃないよ」


「……あの日、先輩が来なかったのって、あたしを死なせないためですよね」


「……何のこと」


「あのままじゃあ心中しちゃうから、あたしが死んじゃうから、約束、すっぽかしたんですよね」


「……ただ怖かったからだよ」


「……ねえ、先輩」


「……なに、雪子」


「あたし、死にたいです」


「……うん」


「でも、今このまま死にたくない」


「うん」


「絶望して死にたくない。泣いて死にたくない」


「うん」


「笑って死にたい。楽しく死にたい」


「うん」


「ポジティブに死にたい。逃げじゃなくて、前に進むために死にたい」


「うん」


「先輩」


「……なに」


「……せんぱあい」


「……だから、なんなのって…………」


「先輩――うっ、うあっ、あっ……」


 そして僕たちは、わんわんと、みっともなく、恥も外聞もなく鳴きだしてしまった。喫茶ふくろうの店主は何も言わなかったけれど、やはり、随分と迷惑に感じていただろう。本当に申し訳ない。でも、でも、僕たちの涙は、絶望は、どうしても止まらなかった。

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