第6話 朝稽古

「今朝はここまで!」

「ありがとうございました!」


 早朝の道場に締まった声を送ると、洋一がビッと頭を下げてそう返してくる。


 付き合ってから……ううん、付き合う前からの私達のルーティンになってる朝稽古を終えた。


 私はこの朝稽古を終えた後のちょっとした雑談時間が好きなんだ。付き合う前は愛菜の相談ばかりで、私が洋一の事を好きだと気付いてからは辛い時間だったけど。

 でも応援すると言った手前聞きたくないなんて言えるはずもなく、応援なんてしたくないのにアドバイスしたりして……本当にバカな事してたと思う。


 そんな関係が続いていたバレンタインデーの朝に、洋一が私に告白してくれた時は素直に喜べなかったんだ。だって……志乃が無理なら愛菜。愛菜が無理なら私って二番煎じならぬ三番煎じとしか見られてないって思ったんだもん。

 だけど、洋一は志乃にも愛菜にも好きだとは言ってなくて、私にだけ言ったって言う。

 それを手軽な女だからだと否定したら『違うって言ってんだろ! 黙って最後まで話を聞け!』と怒鳴られた。

 正直最初から頼りない男の子だという印象があったから、あんな顔を向けられた事も、あんな風に声を荒げられた事もなかった私は……ドキドキしたんだ。


『瑞樹だろうが加藤だろうが目じゃねえ! 俺はお前が好きなんだよ! 結衣!!』


 あの言葉を聞いた瞬間、洋一に心を鷲掴みされた事を自覚した。

 小さい頃から武道を習っていた私は、どうしても女の子らしい行動がとれなかった。

 他の女子達は男子達に容易に助けを求めたり、甘えたりするんだけど……私はどうしても男に頼らなくても自分で解決出来ると、周囲の女子達の思考を否定してしまっていたんだ。

 そんな可愛げのない女なんて男子達に相手にもされなくなったどころか、何故か女子に告白される始末。


 何時からだろう。もう誰かを好きになったり好きになってもらうなんて期待しなくなったのは……。


 そんな残念極まりない私に、これだけの想いをぶつけてくれる男の子が目の前にいる。


 名前を呼び捨てで呼ばれた時、志乃はともかく愛菜にだって苗字呼びしていた洋一の言葉に、私の中にあった蟠りが綺麗に吹き飛んでしまって――義理チョコだと渡そうとしてたチョコを本命のチョコだったと打ち明けて渡したら、凄く喜んでくれた。

 仏壇に供えようとしたのは全力で止めたけど……。


 そのまま洋一に抱きしめられて、私達は晴れて恋人同士になれたんだ。


「しっかし、ホントによく続いてるよね」

「はは、まぁな。最初は気弱な性格を直すつもりで始めたけど、すっかりハマったよ」

「ふふ、まぁそう言ってもらえると稽古つけてる方も嬉しいかな」


 私達は道場の端で草臥れた体を休めようと座り込んで、呼吸を整えながら毎朝続いてる朝稽古の話をする。

 付き合う前から好きな時間だ。


「それに、この時間が好きなんだよなぁ」

「……え?」

「稽古が終わって一休みして、結衣と話すのが好きなんだよ」


 付き合う前からなと付け足した洋一の顔を驚いた顔で見ていた事に気付いたのは、「どうした?」と問われた時だった。


「え? あ、はは、実は私も同じで、さ。稽古後のこの時間が好きだったんだ。洋一と付き合う前から、ね」

「マジで!? そっかー! なんか嬉しいね、そういうの」

「う、うん。だね!」


 こんな些細な事でもドキドキする日が訪れるなんて、色々と諦めていた頃の私に話して聞かせても、絶対に信じてくれないんだろうな。

 ガサツな性格は自覚してる。時によっては男勝りになってしまう事もある。

 だけど洋一と一緒にいる時だけは、こんな私でも女の子になれる。その事実がとても嬉しくて幸せだった。

 大好きな人が私の大好きな事を肯定してくれるどころか、一緒に楽しんでくれている。この現実がどれだけ私の心を躍らせているか、きっと洋一にだって分からないよね。


「……ねぇ、洋一」

「ん? なに?」


 にっこりと笑みを向けてくれる洋一に近付いて、そのまま彼の口を自分の唇で塞いだ。

 松崎さんの旅館で初めてキスを交わしてから、事あるごとにこうしてキスをしている。

 だけど、いつも洋一から求められた時にしかしなかったんだけど、今日は初めて私の方からキスをした。

 ホントに些細な事なんだけど、私にとってはとても大切な事で……。胸がキュッと締め付けられた感じがしたのと同時に、気が付けば洋一に了解をとらずにキスをしていたのだ。

 はしたないって思われたかな……。でも、どうしても我慢出来なかったんだから仕方がないよね。


 10秒。ううん、15秒くらい塞いでいた洋一の口を解放して閉じてた目を開けると、そこには少し真剣な顔をした彼の顔があった。

 やっぱりはしたないって思われたのかと不安になってどうにかして誤魔化そうと色々と思考を巡らせていると、そんな思考が一瞬で吹き飛ぶことが起こった。

 超至近距離だった彼の顔から距離をとろうと上体を戻そうとした時だ。少し離れた距離が一瞬で詰まったかと思うと、そのまま私達の距離がなくなった……だけではなく、重ねた唇から私の口内に当然何かが入ってきたんだ。


(え? こ、これって)


 口内に侵入してきた物の正体が彼の舌だと理解した時、驚きで目を大きく見開いた。

 その先には顔を真っ赤にして目を閉じる洋一がいて、そんな彼の顔を見ていると自然と目が閉じていき、気が付けば入ってきた彼の舌に自分の舌を絡めていた。


 お互いが初めてで上手いとか下手とか分からず、とにかく私の口内に入ってきた彼の舌を夢中で自分の舌で受け入れる。


 神聖な道場で一体何をやっているんだと思わないわけではないけれど、静まり返った道場の中にお互いの舌を絡め合う卑猥な音だけが聞こえてるんだと自覚したら、もう止める事が出来なかった。

 だって……深いキスがこんなに夢中になれて満たされるものだなんて知らなかったから。


 やがて彼の唇が私から離れると、2人に間に伸びた透明の糸が一瞬で途切れた。

 情けない事に、突然の深いキスに私は腰が抜けてしまってペタンと座り込んでしまったからだ。


 はぁ、はぁ、とお互いの呼吸が乱れている。それは稽古のせいではなく、お互いが興奮を覚えていた証明だった。


「ご、ごめん!」


 思考が纏まらないうちに、洋一が誤ってくる。


「そ、その……結衣の方からキスしてくれたのが嬉し過ぎて、その我慢出来なかった……」


 ペタンと座り込んで本当に申し訳なさそうに項垂れている洋一を見た私は、心が落ち着くのを待たずに下を向く洋一の頬に手を添えた。


「んーん、怒ってないよ。びっくりはしたけど、ね」


 こんな私を一番に考えてくれて、大切にしてくれる人がいる。


 こんな朝早くから稽古なんて大学を卒業して社会に出れば、出来なくなるかもしれない。

 それは仕方がない事だと思う。

 だからこそ、今を大切にしようと思える。

 日を追うごとに凛々しくなっていく彼を見ていたい。

 これだけは、この先どんな事があっても私だけの特権だから。


「ほら」と差し伸べてくれた手を握って立ち上がると、洋一はまたキスをした。

 今度は優しく……とても優しいキスを。


 ずっと大事にしたい。

 ずっと傍にいたい。

 ずっと好きでいたい人に、私は巡り合えたんだ。

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