第5話 お互いが気にしてる事

「うー……。気持ち悪いなぁ」


 6月の中旬に差し掛かったある日、東京も梅雨入りしたと発表されて雨がよく降る日が続いていた。

 今日はどんよりとした空色だったけど、辛うじて雨は降っていない。とはいえやっぱり梅雨独特のジメジメした空気は健在で不快感を隠せない。


(梅雨は嫌いだなぁ。ジメジメして髪も纏まんないし……)


「あれ? 早くないか?」


 決まり切らない前髪を弄っているところへ、聞き慣れた大好きな声でそう話しかけられた。


「えへへ! 何か家にいても落ち着かなかったから、出てきたんだ」

「んだよ、今日こそは俺が待ってる番だと思ってたのに」

「あーあれ? 待った? ううん、今来たとこってやつやりたかった?」

「そうだけど、口に出されると恥ずかしいから勘弁してくれ」


 私に声をかけてきたのは、私より一回り年上の松崎まつざき 貴彦たかひこさん。

 付き合って4か月になる、私の自慢の彼氏だ。


 貴彦さんは私の親友の恋人の親友で(2人は戦友とか言ってるけど)志乃達を介して知り合った人だ。

 初めの印象は軽そうな人だと思ってたんだけど、そんな言動とは裏腹に周囲に気を配れる優しい人。

 特に間宮さんの事になると、率先してどんなトラブルであっても無条件で助けにはいる友達想いの人なんだ。

 当時の貴彦さんは私を妹みたいに接してくれてたけど、そんな彼の意外な一面を1つ1つ知る度に惹かれていった。

 実は私は同級生の佐竹って男子の事が好きだった。

 だけど佐竹は私の親友の事が好きで、意気地の無い私は佐竹の恋の応援なんてしたくもない事をしていた。

 だけど、その子は佐竹の事を何とも思ってなくて……それでも諦めないで近づこうとしている彼の姿を見て、背中を押しながら心で泣いていた。

 そんな私の気持ちに気が付いた親友は、私を叱ってくれた。

 好きな人を他の人に明け渡すなんて馬鹿げてるって。

 親友の叱咤激励に心を打たれた私は、一目散にフラれてしまった佐竹の元へ駆けた。

 まだ親友の事が忘れられなくても、こうして傍にいればいつかはって希望を抱いて。


 それから佐竹は私に気持ちを向けてくれるようになって、花火大会の時に宣言までしてくれた。


 叶うかもしれない。


 私は確かにそう思ったんだ。


 これからお互いの気持ちが近付いていけば、近い内に私の希望が叶うって。


 だというのに、私は自分がこんなにいい加減な女だった事を思い知る事になる。


 ゼミの夏期合宿から帰ってきた駐車場で声をかけてきたのが、貴彦さん……ううん、松崎さんとの最初に出会いだった。

 軽い感じで如何にも『お調子者』といった言い草に、何でこんな人があの間宮先生とって思ったりもした。

 だけど、親友を助ける為に文化祭に間宮さんを呼んだ時に一緒にいた松崎さんは、そんな私の第一印象を覆した。

 まぁ、口調は相変わらずだったんだけど、私と佐竹の事を温かい目で見てくれたし、何より! あの平田達を間宮さんと2人だけでやっつけてくれた事を知った時は、本当に驚いた。

 そして後日、平田が松崎さんの義理の弟だという事で私達に深く頭を下げて謝罪してきたんだ。

 いくら義理の弟だったからって松崎さんが悪いわけじゃないのに、一切迷いなく高校生の私達に一回り年上の男の人が深く謝罪したのだ。

 その時、松崎さんの優しさと人としての大きさに感動した事を今でもハッキリを覚えてる。


 そして、あの日。電車で痴漢にあった私を松崎さんが助けてくれたあの日。

 実は男子トイレに痴漢達を引きずり込んだ松崎さんの声を聞いてしまっていた。

 この事は未だに話してないんだけど、あんな風に言われたら……。


『選りに選って……に汚い手で触れやがって……』


 怒りを隠そうとしない声で私の名前を呼び捨てにされた時、私の中にあった不貞腐れた感情の根元にある気持ちに気付いてしまった。


 私は、松崎さんに年の離れた妹みたいに扱われるのが嫌だったんだと。


 自分の本当の気持ちに気付いた途端、一刻も早くこの場から立ち去りたいと思った。

 だけど、自分の気持ちに反して体がいう事を訊いてくれない。

 まるで細胞が私の命令を拒絶するように、地面についた足が動かなかったんだ。


 やがてトイレの中が静かになったかと思うと、まるで普通に用を足したかのように松崎さんが現れた。

 松崎さんの姿を視界に捉えた瞬間、あれだけ言う事を訊かなかった足が動いて咄嗟に物陰に隠れる事が出来た。


 松崎さんは近くにあったベンチに座ると、お揉むろにスマホを取り出して耳に当てた。どうやらどこかへ電話をかけているようだ。

 遠目で松崎さんの姿を確認すると、とりあえず大きな怪我がないみたいでホッとした。

 だけど、スマホを持っている手が血で滲んでいるのが見えた途端、私は気が付けば隠れていた物陰から出ていて、電話をしている松崎さんに向かっていた。

 あれだけ逃げようとしても動かなかった足が、今は止まれと命じているのに松崎さんの元へ一直線に進んでいく。


 私がこの場から逃げたかった理由。それは自分の気持ちに気付いてしまったから、松崎さんの前でいつもの私でいられないと思ったからだ。

 でもそれが叶う事なく、もうすぐ松崎さんの元へ着いてしまう現状に、私は極力ついさっきまでの少し怒ってます感を出して何でもない風を装う事にする。


 そして驚いている松崎さんを余所に手の皮が剥けて出血している事を指摘して、今日は一度も使っていないハンドタオルとハンカチを準備して遠慮する松崎さんの手をとって、応急処置をした。

 それから助けてくれたお礼を述べると、松崎さんは私が間宮さんの友達だからと言う。

 心がチクリと痛んだ。

 分かっていた事だけど、直にそれを訊かされると心が沈んでいく。


 でもそれを悟られたくなくて、自虐的に痴漢にあったのが私でよかったって言ってみたら、松崎さんを本気で怒らせてしまった。

 あの時の松崎さんの顔はハッキリと今でも覚えてる。


 どれだけ私の事を心配してくれていたのか、どれだけ私が襲われた事を怒ってくれたのか……。それらが私の中に流れ込んだ時、『子供が大人にそんな気を遣う必要なんてないんだ。素直に気持ちを吐き出せばいいんだよ』という松崎さんの言葉で、我慢していた感情が一気に溢れ出してしまって涙を堪えられなくなった。


 そんな私の顔を松崎さんは優しく自分の胸元で隠してくれた。


 もう我慢の限界だった。

 松崎さんがあまりにも優しくて温かかったから、自分の中の劣等感を流れ落ちていく涙と一緒に外に追いやった私の中に残ったのは、松崎さんに対する想いだけだった。


 こんな事されて好きにならないわけがない。


 私は――ちょっと軽そうだけど、ホントは温かくて優しいこの人が好きなんだ。



 ジメジメした日だったから、雨は降ってないけど空調が効いてる屋内に向かおうと手を繋いで歩き出した時、ふと握っていた貴彦さんの利き手である右手が気になって回り込むように手を掴んだ。


「え? なに?」


 少し驚いている貴彦さんに「ん、ちょっと」とだけ告げて、右手を顔の高さまで上げてマジマジと見た。


「うん、もうあの時の怪我は完全に治ってるね」

「ん? あぁ、あの時のか。そりゃ治るでしょ」


 私がそう言うと、貴彦さんは何の事を言ってるのか気付いたようでそう答えたんだけど、何故かちょっと拗ねたような表情になっていた。


「あれ? どうしたの?」

「そりゃな……愛菜と違ってもう三十路だけど、そこまで回復遅くないし」


 最初は何を言ってるのか理解出来なかったんだけど、貴彦さんの拗ねた顔を見て年齢差からくる回復具合の事だと気付いたら……。


「ぷっ! あはははは!」

「んだよ! 笑う事ないだろうが」


 笑わないでか!


 私が子供だからと劣等感を感じてるのと同じように、貴彦さんも同じ理由で私とに違いを気にしてたんだから。


 ホント――私は、この人が好きだ。

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