第8話

 スマートフォンでのメールチェックを終え、斜め前方のガラス張りの壁の向こうに目をやると、七月の快晴の空のもとロータリーを周回するバスが見えた。

 周辺の駅前広場にはまばらに人が行き交い、明るい陽射しのせいか、彼らの表情には皆どこか生気が満ちているように感じられる。人々の纏う服のほとんどは半袖で、そのことが季節の移り変わりとともに、この三ヵ月の月日を思わせた。

 視線を店内に戻すと、今日も昼時の駅の喫茶店内には穏やかな空気が流れ、休憩を取るサラリーマンやOL、買い物中の中年女性、学校をサボっているのであろう女子高生が思い思いに時間を過ごしている。

「おまたせ」

 その声に反応し、顔を自然と目の前に戻す。

 ベーグルとアイスコーヒーの乗せられたトレーが丸テーブルの上に置かれ、佐々木美和が向かい側の椅子にゆっくり腰を下ろした。

「久しぶりだね。昨日からこっち来てるんだっけ?いきなり連絡きたからビックリしたよ。亮くんの方から誘ってくれるなんて初めてじゃない?」

 佐々木美和は口許に笑みを浮かべて言うと、アイスコーヒーをストローから吸い込んだ。今日の彼女は以前と比べて心なしか薄化粧で、その言動やしぐさからも力みの抜けた軽やかさが感じられる。

「いろいろ一段落したから、佐々木さんにも一度ちゃんとお礼が言いたいなと思ってさ」

 佐々木美和はやや俯けていた顔を上げ、目を見開いて少しのあいだ静止した。

「ほんとどうしたの。嘘みたいに素直になっちゃって」

「俺もあの日以来、いろいろと心境の変化があったからね」

 佐々木美和はしばし真顔でこちらを見つめたあと、視線を斜め下に向け軽く二回ほど頷いて、再びアイスコーヒーを飲んだ。

「もうすっかり夏って感じだね」

 佐々木美和が顔を横に向け、ガラス壁の方を見つめて不意に呟いた。

 その言葉に促されて同じ方向に顔を向けると、テーブルを二つほど挟んだガラスの向こう、駅前広場を行き交う人々の上方に雲のほとんどない真っ青な空が見えた。

 晴文が飛び降り騒動を起こしてから三週間が経った。当初は近県のマスコミなどに大きく取り上げられたものの、報道は三日も経つ頃にはなくなり、今やこの街の光景にそんな騒動があったという面影はまったくない。近隣住民や生徒への目立った影響もなかったことから、事態はそこまで大事になることなく収束し、今では地元の町もすっかり平穏を取り戻している。

「今こうやって俺らが懸念なくお茶してられるのも、あの日の佐々木さんの的確な対応のおかげだよね」

 俺の言葉に佐々木美和が顔を正面に戻し、こちらを見る。

「あの時佐々木さんが晴文を発見してすぐに通報をしてくれてなかったら、最悪の事態もあったかもしれないわけだし」

 あの日晴文が屋上から落ちた時、地上には消防隊員によって敷き詰められた救護マットがあった。その上に落下した晴文は、数カ所を打撲した程度のケガで済み、現在では何事もなかったかのように元気に生活している。

「それに最後にあのタイミングで晴文に詰め寄ったのだって、騒音で救助が到着したのを確認した上で、事態を収束させるためにああしたんでしょ」

 佐々木美和はじっとこちらの目を見つめたあと、ふっと眼を逸らした。

「深読みし過ぎ。通報したのは咄嗟にそうしてただけだし、詰め寄ったのだって、晴文くんの煮え切らない態度にこらえ切れなくなったのが、偶然救助が到着した後だったってだけよ」

 佐々木美和は再びコーヒーを飲み、一拍間を取った。

「それより最近晴文くんとは連絡取ってる?順調そう?」

 照れ隠しからか、佐々木美和が話題を変える。

「ああ、丁度さっきもメール来てたよ。何しろ初めてのことだから大変そうだけど何とかやってるみたい」

「それにしても驚いたよね。検査入院から退院したら人が変わったみたいにすっきりして、すぐに一人暮らし始めて働き始めちゃうんだから」

「親父さんにもちゃんと一旦は司法試験を諦めること伝えて、落ち着くまでの金銭の援助をお願いしたみたいだしね。あまりの変化にこっちが戸惑ったよ」

「でもなんかちょっと残念だな。晴文くんが弁護士になる夢諦めちゃうの」

 佐々木美和がやや顔を俯けて言った。

「何言ってんの今さら」

「だって中学の時はみんなあんなに夢を語ってたのに、徐々に現実的になって、もう今いきいきと将来について語る人なんていないじゃない?だからなんか晴文くんまで諦めちゃったら自分たちの夢が叶う可能性が本当になくなっちゃう気がしてさ。さんざん諦める方向に働きかけといて勝手だけど」

 わずかなあいだ会話が途切れ、二人の間に沈黙が流れる。

「ごめんごめん、これで良かったんだよね。あの騒動で色々整理されてみんな新たな一歩を踏み出せたわけだし」

 気をとりなおしたようにそう言って、佐々木美和が何気なく右手で左手の薬指を触る。その薬指には、小さなダイヤの付いたシンプルなシルバーのリングがはめられている。

「そうだね。あの一件のあと、佐々木さんも一年半付き合った彼氏との婚約が決まったしね」

 俺がそうちゃかした調子で言うと、佐々木美和は

「まあね。あれで私も色々振り切れたからね」

 とにやけた顔で言って、左手を顔の高さまで持ちあげ、甲を正面に向けてわざとらしく指輪をひけらかして見せた。


「この後すぐ東京帰るの?」

 一時間ほどの歓談を終えてコーヒーを飲み干すと、佐々木美和が訊いた。

「いやまだ実家に整理したい荷物とかあるから、これからもう一回戻って色々作業して、明日帰るつもり」

「そっか。なにはともあれ一区切りって感じだね」

 佐々木美和は一度斜め下を向いて数秒間なにごとか思い巡らすような表情をしたあと、再びこちらを向いて口を開いた。

「たった三ヵ月だったけど、私このタイミングで二人に再会できて良かったよ。二人と関わっていく中でずっと見栄とかしがらみとかに隠れて見えなかった今の自分の本音が分かって、ようやく自分の在り方を選ぶことができた気がする。ありがとう」

「ううん、こちらこそありがとう。俺も二人と再会して中学時代の『将来』に今立ってるってことを感じられたから、自分がこれまで実際に足元にある世界をおざなりにしてたんだってことに気づけた」

 佐々木美和に真っすぐに視線を向けなおす。

「俺は遠くに見える蜃気楼みたいな理想ばっかり眺めて嘆いてたんだよね。そんなことしてる間も豊かで意外性に満ちた出来事がいつも目の前で起こってたのにさ。現に佐々木さんとこんな風に話すことだって中学時代はもちろん、三ヵ月前ですら思ってなかったわけだし」

 佐々木美和が小さく息を呑んだ。

「だから今は、自分が目の前の世界を見つめ続けていけば、きっとこの先の『将来』も思いもよらない現実がいっぱい広がってるんだと思ってる」

 佐々木美和は数秒間まばたきもせずに固まり

「そっか。そうだよね」

 とつぶやいて目を伏せ口許に笑みを浮かべた。

 そしてしばらく間を置くと

「そろそろいこっか」

 と言って大きく伸びをし、俺のコーヒーカップを自分のトレーに乗せ立ち上がった。下げ口の方へと歩き始めたその足取りは軽やかでしっかりとしていた。


 駅前で佐々木美和と別れると、ロータリーのタクシー乗り場に停まっていたタクシーに乗り込み、実家の住所を告げた。走り始めた車のシートに体を預け目を向けた窓の外を、この三カ月の間いくども目にした景色が流れていく。

 見慣れた街並を眺めながら、ふとあの騒動以降の自身の現状と周囲の変化に思いを馳せた。

 騒動の後、警察の聴取を終えて東京に戻ると、俺は会社を辞めた。

 建前としては、会社のカメラを故意に破壊し映像素材を消失してしまったことの責任を取るというのが理由だったが、内実は単純な依願退職だった。慢性的な人手不足に悩む業界ゆえ上司には強く引き止められたものの、新人を一人紹介することで納得してもらい、最低限の引き継ぎ事項だけを後任に伝えて、申し出から二週間あまりで退社した。

 そこから今日までの日々は慌ただしく、荷物整理や役所の事務手続きなどをこなしている間に一週間ほどが過ぎ、それらが落ち着いたところで、実家にある物品の整理や機材の引き取りなどの為、昨日地元に帰省したのだった。

 何となく手持ち無沙汰になり、スマートフォンを取り出し電話帳アプリを開く。こうやって改めて眺めてみると、登録されたほとんどの人物が仕事の業務以外で連絡することのない人だと気づく。連絡を取るよすがのない名前を無造作にスクロールするうち、ふと岡本の名前に目が止まって、もしやと思いダイヤルボタンをタップしてみる。しかし、スピーカーからは機械的な女性の案内が聴こえるばかりで、やはり電話は繋がらなかった。

 岡本とは騒動の前日に渋谷の居酒屋で飲んで以来会っていない。退職後、近況を報告しようと連絡してみたが、電話はすでに繋がらなくなっており、業界内の共通の知人を何人か当たっても行方を知っている者はいなかった。その知人らによれば、岡本には以前から借金の噂があり、それで何らかのトラブルを起こしたのではないか、というのが彼らの共通認識らしい。

 最後に居酒屋で飲んだ時、ガラスのドア越しに見た幾つものカードを手に会計をしていた岡本の姿を思い出す。そう思って改めて考えてみれば、一緒に食事をしてもだいたい俺が仕事で先に店を出るため、岡本が現金で会計をしているところを見たことはなかった。いつも威勢良くビールを飲み干していた明るい岡本の表情の裏にあった悲哀に想いが及び、やるせない気持ちになった。

 再び意識を窓の外の景色に向ける。タクシーは、すでに地元の町に入っていて、母校の中学のジャージを着た男子三人が、少し離れた場所からこちらに向かって歩道を自転車で駆けて来るのが目に入る。すれ違う瞬間に見えた彼らの表情が屈託のないものに映り、小さく胸が疼いた。


 実家の前でタクシーを降り、家に入ってバックを上がり口に置くと、再び外に出て、家の裏手からドラム缶を車庫の前の広いスペースに運び出した。用意しておいた古新聞を手に取り、マッチで火をつけてドラム缶の中に入れる。その上に少しずつ枝をくべて火が大きくなるのを待ちながら、久しぶりに周囲の田畑の風景を見渡すと、不思議な清々しさが胸に広がった。

 なんだか自分は、少年時代から今までずっと、この場所に立ったまま空想に耽っていたような気がした。

 火がある程度大きくなったところで、足下に置いておいたダンボールを開け、そこから中学の頃のノートや教科書を取り出した。ノートの表紙に書かれた鉛筆書きの自分の名前や、教科書の表面の艶やかで滑らかな質感に懐かしさが沸き上がる。ひとしきり感慨に浸り、ゆっくり息を吐き出すと、それらを一冊ずつドラム缶の中に放っていった。

 昨日三年ぶりに帰省した実家で両親と向き合った俺は、会社を辞めたこと、これからしばらくは自主映画の制作を生活の中心にしていくことを告げた。

 父親は終始険しい顔をしていたが、想像していたような叱責はなく、たった一言「お前が決めたならそうしろ」とだけ言って席を立った。

 母親は四年前と同じくずっと口を噤んだままだったが、今回は顔に物悲しげな表情はなく、目を赤くしながらもその瞳は真っすぐ俺に向けられていた。

 思わず斜め後ろを振り返り、約二十年前にローンを組んで建てられた一軒家を仰ぎ見る。俺は顔を正面に戻すと、一瞬沸き上がった感慨を振り切るように、残りの教科書とノートを投げ入れ、燃えゆくその様を見つめた。

 書籍類がおおむね燃えきり火が落ち着いてきたところで、ダンボールの脇に置いてあった中学の卒業文集を手に取り、パラパラと目を通す。四つある各クラスの企画ページの趣向は様々だが、全てのクラスの冒頭のページには必ずクラスメイト全員の将来の夢が記されたコーナーがあった。

 ここに夢を綴った時間、あの時間こそが夢だったのだと今思う。

 大学の時、俺が自分を見失ったのは、和成との間に力の差があったからでも、両親が進路を否定したからでもなく、夢の中で紡がれた物語に縋り続け、自分の手で物語を綴っていく覚悟を持てていなかったからだ。

 所属もなく身一つでこの場所に立っている今ならわかる。両親だって自分のことしかわからないのだ。そしてそれがいくらか歪なものであれ、自分がわかることの中で最大限子どもの幸福を願ってくれてはいたのだ。

 俺に必要だったのは、物語のその先を自らの手で綴っていかねばならないという現実に真っすぐ向き合うことだったのだ。

 炎のなかに文集を放った。投げ込まれた文集は身をくねらせて次第に茶色くその身を焦がしていく。ほとばしる火の中で、どこかのページの『夢』という文字が炙られ灰となって消えていくのが見えた気がした。

 全てが燃えきったのを見届けると、水をかけて火を消した。

 灰は一瞬焦げ臭い水蒸気を発して小さくしぼむ。

 ドラム缶の底に溜まった黒く湿った灰を呆然と眺めながら、しばらくその場に佇んだ。

 これからは貯金を切り崩しながら、映画を制作する日々が始まる。おそらくしばらくは手探りの日々が続くだろう。

 組織を離れ類型的な進路から逸脱したこの場所に寄る辺はなく、与えられた役割も、それらしい区切りをしつらえてくれる行事などもない。評価されるかどうかもわからない作品を作り続ける姿は、見る人によっては、年甲斐も無く妄想にすがり続ける痛々しいものに映るかもしれない。

 それでも俺は決めたのだ。未熟さと幼稚さを携えた自分のまま、今心の思う道を進むことを。そうやって目の前の物事に取り組み続けることで自らの生き方を紡ぎ続けることを。

 ズボンのポケットに震えを感じ、スマートフォンを取り出す。画面には以前の職場の上司からメールが届いている旨が表示されていた。

 メールを開くと、そこには『歓迎会』というタイトルと供に、どこかの居酒屋の座敷と思われる場所で撮られた集合写真が添付されていた。その写真にはこの三年間毎日のように顔を合わせていた制作会社の見慣れた面々の顔が写っていて、いざ離れるとそれらの顔がやけに愛おしく感じられるのが不思議だった。

 そして、その写真の中央、仮眠用ソファでよく寝ていたむさ苦しい先輩の横に、満面の笑みを浮かべる晴文の顔があった。

 上下関係の厳しい職場だけに、晴文が馴染めるかどうか危惧していたが、余計な心配だったようだ。画像の下には『良い人を紹介してくれてありがとう。元気の良い挨拶が評判でみんなに可愛がられています』と添えられていた。

 スマートフォンを再びポケットにしまい、バケツとドラム缶を持って、物置の脇にある外水道の洗い場に向かって歩き始める。

 甲高い歓声が聞こえたので近くを通っている道路の方に目を向けると、制服姿の女子高生が二人、イヤフォンを片方ずつ分け合って楽しげに何かを話しながら通り過ぎていった。

 制作予定の映画は、冒頭のシーンのイメージと、ぼんやりとした全体の構想以外、脚本もキャストもロケ場所も決まっていない。この片付けを終えて東京に戻ったら、近所のコンビニで新しいノートを買い、喫茶店で脚本の構成を練り始める予定だ。

 洗い場に着き、バケツとドラム缶を地面に置いて、家の裏に広がる畑を見やった。ちょうど母親がカゴいっぱいの野菜を持って畑から家の方に歩いてくるのが目に入る。

 俺は目を逸らさずにその姿を見つめ、軋む胸の痛みを感じる。

 構想中の作品のタイトルは『はたらかない息子』。

 冒頭は、友人が階段を上り、主人公の部屋の扉を開くシーンから始まる。

 少年時代の夢を真摯に追い続け一人部屋で力を養ってきた青年が、就職活動を通して自らの輪郭を知り、その体で現実に踏み出していくまでを描くストーリーを考えている。

 それはある誠実な青年の人生の記録であり、俺がこの手で綴る最初の物語だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はたらかない息子 佐藤 交(Sato Kou) @yuichiro7212

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ