第7話

 改札口を出て階段を駆け下り駅の西口を出ると、目の前のローターリーに市役所の公用車を見つけて駆け寄った。慌ただしく助手席に乗り込みドアを閉め、それと同時に運転席に座る佐々木美和が車を発進させる。

「やっぱりまだ見つからない?」

 バッグからビデオカメラを取り出し、シートベルトを閉めながら佐々木美和に訊ねる。

「晴文くんただでさえ知り合い少ないから、探そうにも訊くあてもなかなか思いつかなくて……」

 佐々木美和が消え入りそうな声で呟く。

 フロントガラスから見える路肩の街路樹の枝が強風に煽られ激しく揺れている。

「やっぱり私が亮くんと二人でごはん食べたこととか言ったのがいけなかったのかな。それで晴文くん私たちの関係察してて、就職試験ダメだった時に余計に孤独を感じて追い込まれちゃったのかも」

「え、それいつ言ったの?」

「ほらこの前初めて一緒に駅でランチした時。職場に戻ったら調度晴文くんから面接の報告メールが届いてたから、『今まで亮くんとランチミーティングしてたから、もう少しで晴文くんのとこ行くと思うよ』みたいなメール送ったんだ。少なくとも亮くんが向こうに着く五分前には私のメール届いてたんじゃないかな。あの時は本当にランチしただけだし別に良いかなと思ったんだけど……」

 あの時質問に「昼ご飯を一人で先にすませてきた」と俺が答えた瞬間の晴文の笑顔が浮かぶ。

 わざわざ人数を確かめるような質問をしてきたことから考えて、おそらく晴文はうすうす俺と佐々木美和がなんらかの男女関係であることには気づいていたのだろう。そして、単に食事をしたことに関してすら見え透いた嘘で隠す俺の姿を見て、その直観が正しかったことを悟ったのだ。

「晴文くんほんとにあそこにいるかな」

 佐々木美和が狼狽えた声で言った。

「もう俺に思いつくとこはあそこしかないよ」

 からまる後悔を振り切るように声を発する。

 気づけば周囲は田園風景に変わり、その田んぼに挟まれた道の先に少し小高くもられた場所に立つ中学校の校舎が見えた。

 学校に着くと、校門の前に車を止め、二人で車から出て一旦校舎全体を見渡せる校庭側へ回る。

 校庭に立ち校舎の方を見上げた瞬間、佐々木美和が声を上げて斜め上を指差した。

 その指の先、四階建て校舎の屋上に、胸の辺りまでの柵を掴んで遠くを見つめる晴文の姿があった。

 どこかへ電話をかけ始めた佐々木美和を横目に、俺は駆け出した。

 昇降口から土足のまま校内に入って、階段を一段飛ばしで上っていく。創立記念日の校舎には人の気配がほとんどなく、緩慢な空気が満ちる中、吹奏楽部の練習する楽器の音色だけが耳に届く。四階まで辿り着いたところで、一度記憶を辿って逡巡し、屋上へ続く階段の場所を思い出す。そして再び廊下を走り、一際薄暗い階段を駆け上がって扉を押し開けると、そこには灰色の雲に覆われたあの頃と同じ大きさの空が広がっていた。

「晴文」

 視線の先に見えた後ろ姿の人影に向かって声をかける。息が上がっているせいで情けなくひずんだ声しか出ない。俺の声にゆっくり振り返った晴文はすでに柵を越えた向こう側の狭い足場に立ち、柵につかまって静かな表情でこちらを見つめた。

「晴文、面接落ちちゃってショックなのはわかるけど、そのぐらいでそんな早まらなくてもいいんじゃないか」

 呼吸を落ち着かせながら、穏やかな口調で語りかけつつゆっくり晴文の方へ近づいて行く。後方から、遅れて屋上に辿り着いた佐々木美和の「晴文くん」と言う声が聞こえた。

「法学の知識を活かせるところなら他にもきっとあるし、ほら、なんなら番組の取材が終了しても、たまにこうやって地元帰って来て就職活動サポートしてもいいしさ。とりあえず柵のこっち側に戻ってきて、もう一回落ち着いて話そうぜ」

 晴文は俯いて小さく何度も頭を横に振った。

「ちがうんだ」

 晴文の声が屋上に響く。

「断ったんだ」

 俺はその言葉の意味が飲み込めず、柵まで五メートルほどのところで歩みを止めた。

「俺、法律事務所の採用辞退したんだ」

 俺と佐々木美和が同時に驚きの声を発した。不可解な想いに捕われて次の言葉が出て来ない。

「実は昨日の夜、法律事務所の方から一日早く採用の連絡があったんだ。もちろん最初は嬉しくて入社を快諾したよ。でもそのことを父さんに伝えようと一階に降りてリビングに足を踏み入れた時、母さんの遺影と目があってさ。その瞬間母さんの笑顔が知らない他人の顔みたいに見えたんだ」

 晴文が唾を飲み込んで一呼吸おいた。時折吹きつける強い風に晴文の髪がなびく。

「そしたら急に自分が取り返しのつかないことをしようとしてるような、自分が自分じゃなくなっていくような感覚が猛然と沸いて怖くなって、そのまま二階に引き返しちゃってた。そして気がついたら法律事務所に辞退の連絡してたんだ」

 唖然として一瞬声が出なかった。

「じゃ、じゃあいいじゃないか。お前がそうしたかったんだろ。何もこんな思い詰めたことする必要ないじゃないか」

 必死で絞り出した俺の言葉に晴文は激しく首を振った。顔を上げこちらに向けられたその眼は真っ赤に充血していた。

「でも今朝リビングで父さんと朝ご飯食べてたら父さんが『今日いよいよ採用発表の日だな』って嬉しそうに言うんだ。『今度のとこは合格しそうだって言ってたもんな。受かったらお前も社会人だな』って。父さん優しい人だから、俺がただずっと家にいて勉強してる数年間もハッキリ咎めたりはしなかったけど、やっぱりスゴく思い悩んでたんだなって感じた。その顔見てたら、俺まさか辞退したなんて言えなかったよ。弁護士を諦め切れない俺は、もうこのままここにはいられないんだなって思った」

「そんなことないって。ちゃんと話せば親父さんわかってくれるって」

 晴文の眼差しがより一層鋭くなる。

「お前に何がわかるんだよ。東京で就職して、仕事もできて、収入もあって、女にもそこそこモテて。そんな普通の生活送れてるお前にこんなどうしようもない、どうすることもできない俺の何がわかんだよ。いつもそのカメラ構えて、モニター越しに人のこと見下しやがって。今回俺を取材しようと思ったのだって、どうせレールから外れた俺を助けるふりして優越感に浸りたかったからだろ」

 俺は晴文に指摘されて初めて自分が左手にカメラを持っていることに気づいた。

「今だって内心バカにしてんだろ。弁護士にもなれない、二十七歳まで普通に働いたこともない、しまいにはせっかく巡って来たチャンスまでフイにする。いつまでも甘えたこと言ってんなよって、素直に働けよって思ってるだろ。俺だってそんなことわかってるよ。自分で働いてお金稼いで暮らすのがまっとうな生き方だってことも、弁護士になるのが自分の力じゃどれくらい遠い目標かも重々わかってるよ。でも……」

 晴文の眉尻が下がり、口がへの字に歪む。

「でも俺、弁護士になる夢諦めたら、母さんの息子じゃなくなっちゃうんだよ」

 両目から大粒の涙が湧き出て晴文の頬を伝う。

 その打ちひしがれた悲愴な姿に胸が締め付けられた。

「弁護士になるしかない。でももう弁護士を目指すことのできる場所もない。そんな俺はもうこうするしかないんだ」

 晴文が俺から視線を逸らし、斜め後ろに立っている佐々木美和を見た。

「佐々木さん、この二ヵ月間本当にありがとう。せっかく採用されたのに、こんなことになっちゃって、最後まで迷惑かけてごめん。もうやっぱり俺には居場所なんてないみたい」

 晴文はそこまで言うと、おずおずと体を反転させ、こちらに背中を向けた。後ろ手で柵を握っている腕が震えていた。

「さようなら」

 顔を少しだけ横に向けて晴文が言った。

 そして再び顔を前に戻すと、手の震えが止まり、一瞬音が消えた。

 柵を掴んでいる指先がわずかに開いた気がした。

「ふざけんなっ!」

 叫び声と同時に晴文の頭上を黒い箱のようなものが越えていき、落下して視界から消えた。

 それが自分の投げたビデオカメラだということに気づいたのは、数秒後、地上から小さく何かが砕ける音がした時だった。

 晴文が驚いた表情でこちらを振り返る。

「わかるよ」

 声が微かに震えた。

「俺も同じだったんだよ」

 呼吸を整え目に力を込めて晴文を見据える。

「俺もどうしようもなくなって実家に引きこもってたんだ」

 晴文の目が見開いたのがわかった。数台の車が近づいてくる物々しい騒音が少し離れた場所から聴こえる。

「俺、大学四年に上がる時進路のことで悩んじゃってさ、ある日自室のベッドの上から動けなくなっちゃったんだ。それで親に実家に連れ戻されて、それから一年間は学校休学してずっと実家にこもって療養してた。ほら、俺ら今年で二十七歳だろ?でも俺はそのせいで一年卒業が遅れたから、まだ社会人四年目なんだよ」

 晴文は再びゆっくり体を反転させ、柵を掴んでこちらに向き直った。

「その時は本当にどうして良いか分からなくて、何もしない、外に出ないっていう意味では晴文より酷い状態だったと思う。ただ俺の場合、一年が経って気力が回復した頃、改めて映画監督を目指したいって親に伝えたら、父親に『お前いい年してまだそんな夢みたいなこと言ってるのか。男は仕事して家族を養ってこそ一人前だぞ』って言われてさ」

 父親の顔つきと口調を思い返して、胸が痛んだ。

「俺、ずっと『夢』を応援してくれてたはずの親に突然真逆のこと言われたから面食らっちゃって、それまで彼らの言葉を支えに築いてきた『自分』が崩れてパニックになっちゃったんだ。理解者だと思ってた母親も父親の隣で物悲しい顔でこっち見てるだけだし。そんで結局次の年大学に復学して、何かに追い立てられるように慌てて就職活動して、映画への未練を残したまま今の会社に入ったって」

 佐々木美和が「そうだったんだ」と呟いた。

「お前の言う通りだよ。俺、就職活動に苦労してる晴文の姿モニター越しに見ながら『自分は間違ってなかったんだ』ってずっと言い聞かせてた。そもそもこの番組のスタッフに立候補したのだって、あの時夢を諦めた自分の生き方への疑念を打ち消したいって気持ちからだったんだぜ。無職の人が苦労してる姿を見れば、自分の現状を肯定できる気がしてさ。でも途中から、本心をおざなりにして就職活動してる晴文の姿があの頃の自分と被ってすごく苦しくなった」

 いつの間にか俯いていた顔を上げ、改めて晴文に目を向ける。

「だから同じなんだよ。夢に囚われたままなのも、その理想に追いつけなくて、自分の在り方に自信が持てないのも。俺と晴文は少し条件が違っただけなんだ。社会的には体裁を保ってるように見えても、俺だって本当は他人にも自分にも胸を張れるものなんて何もないんだよ」

 少しずつ近づいて来ていた車の騒音が止んだ。それまで黙って俺の話を聞いていた晴文の顔が再び苦しげに歪む。

「じゃあ尚更、こんな条件でここまで来ちまった俺はどうすりゃいいんだよ。そっち側に戻ってみても、また俺に待ってるのはあの息の詰まるような毎日の繰り返しなんだぞ。一体どうすりゃいいんだよ」

 晴文の切実さに気圧されて俺が言い淀んでいると、横を佐々木美和が足早に通り過ぎた。

 そして晴文の前に立ち、間を置かず金網の隙間から手のひらを差し入れて晴文の頬を張った。

「いつまでグダグダ言ってんのよ」

 晴文が唖然とした顔で佐々木美和を見た。

「いい加減目を覚ましなさいよ。もうお母さんはいないんだから、あなたが自分で決めるしかないでしょう。死ぬの?生きるの?どっちなの。あなた自分でなんでもできるじゃない。私だってねえ、自分がどうするかで精一杯なんだから、あなたがどうすれば良いかなんてわかるわけないでしょ」

 佐々木美和の突然の剣幕に晴文はまばたきを忘れて固まっている。

「これだから男は嫌なのよ。こっちがわかりやすく手を差し伸べてるのに、ウジウジウジウジ言い訳ばっかりしてはっきりしないんだから。どんだけ自分高く見積もってんのよ。こっちにだって都合ってもんがあるんだからやるならやる、やらないならやらないでハッキリしなさいよ。もう付き合ってらんないわよ」

 佐々木美和はそこまで言って晴文に背を向けると、すたすたと俺の横を通って校舎内へ続く階段の向こうに消えていった。

 柵の向こう側に立つ晴文は、頬を押さえたまま茫然とした表情で立ち尽くしている。

「なんだったんだろいまの」

 晴文が呟く。

「いやわかんない」

 二人で見合って、首を傾げて笑い合った。束の間ぎこちない笑い声が空中を漂って消えた。

 しばしの静寂が俺と晴文の間で流れた。

「でも、痛いんだね」

 晴文が頬を手でさすりながらおもむろに言った。

「女の人に叱られるのってこんなに痛いんだ。今の俺を見たら、母さんもあんな風に言ったのかな」

 しばらくすると、晴文の目の端から涙が流れ、声が涙声に変わった。

「でもさ、今まで散々期待しといて、いきなり自分で考えろって言われたってさ、今さらどうしていいかわかんないよ」

 晴文はそれから少しのあいだ時折嗚咽を洩らしながら泣き続けた。

 俺はその場に立ちつくし、痛いほどの共感を憶えながらも掛けるべき言葉を見つけられず、悲嘆に暮れる晴文の姿を見つめた。

 あの日父親の隣で俺を見つめていた母親の瞳が浮かぶ。不意に今の晴文の姿とあの日の自分の姿が重なることに気づいて、俺はあの時の母親の心情を理解したような気がした。

 にわかに視界が鮮明になったので、自然と上空に目を向ける。視線の先、うす灰色の雲の隙間から淡い陽射しが漏れていた。

「わからなくたって良いんじゃないか」

 俺は、目をこすっている晴文に向けて言った。

「万事確かな答えがある夢みたいな世界なんて最初からなかったんだよ。親も、佐々木さんも、そして俺ら自身も、きっと誰も他人に対して示せる正解なんて持ってないんだ。でもだから俺たちは、それぞれ自分のやり方でどうにか生きてさえいれば、他人に恥じることなんて何もないんだよ」

 柵に歩み寄り、晴文の前で立ち止まる。

「あの時はお前の話もちゃんと聞かないで、無理させちゃってごめんな。偉そうなことは言えないけどさ、お互い簡単に自分の未来を結論付けたりしないで、出来る限り目の前のことに取り組んでいけばそれで良いんじゃないか。なんなら紹介できる仕事思い出したから、取っ掛かりとしてそこ紹介したっていいしさ」

 晴文がゆっくり顔を上げてこちらを見た。

「何をしてても、たとえ何にもしてなくてもさ、またこうやって話ししてくれよ」

 真っすぐ向き合って柵の隙間から手を差し出すと、晴文はぎこちなく手を握り返した。晴文の瞳にみるみる涙が溜まり、彼は再び俯いて目をこすった。近くで見る晴文の頭髪には何本か白髪が混じっていて、うっすらと射す光を反射して髪が鈍色に輝いた。

「とりあえずこっちこいよ」

「うん」

 晴文はそう言って、柵を越えるために持ち手の場所を変えようと柵から手を離した。

 その瞬間だった。強く吹いた横からの突風に煽られ晴文の体が揺れ、あまりの強風に俺も顔を伏せた。

 突風が止んで伏せていた顔を上げると、晴文が茫然とした顔をして後ろ向きに倒れていくところだった。

 ゆっくりと晴文の姿が視界から消えていき、俺は反射的に目を閉じて顔を斜め下に向けた。

 下から数人の女性の悲鳴が聞こえ、数秒後、何かにめりこむような鈍い音が地上で鳴った。

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