第20話 持ち物

 あたしはビニールシートの上に痩せてふるえる体を横たえた。


 ランタンに手をのばすと、灯を消した。暗闇がまっ黒な絵の具のようになって、あたしの周囲を塗りつぶした。あたしは息を大きく吸い込み、吐きだした。あたしの心臓がことことと鳴った。もう、なにも聞こえなかった。あたしが聞きたいと思うものは、なにも。


 ビニールシート越しに、ごつごつとした岩肌が横たえた肩と腰にあたった。しばらくして我慢できないくらいに痛くなった。ビニールシートとリュックに会えたことはうれしかったけれど、ここにいればあたしの心は落ち着いたけれど、でも、この痛みだけはどうにかしたかった。


 あたしは起き上がるとふたたびランタンを灯し、リュックに手を伸ばした。中から着替えを取りだし、ビニールシートの上に敷こうとした。これで少しは痛みを和らげられる。でもこのままでは着替えも汚れそうだった。あたしはリュックの底に、この前のピクニックで使わなかったビニールのゴミ袋が何枚か残っているのを思い出した。これで包もうと思った。着替えをいったん全部だして、丁寧にビニールシートの上に置くと、リュックを覗きこみながら手をつっこみ底をあさった。あたしの手は何枚かのゴミ袋をつかんだ。ふと、それ以外に何か硬いものがあたしの手に触れた。


 取りだしてみるとそれは何の変哲もない小さな白い封筒だった。


 触ると少し厚みのあるものが中に入っているようだった。あたしは眉根をよせると、封筒からそれを取り出した。手に持つと大きさの割にやや重かった。そして黒くて少し分厚い長方形をしていた。あたしは思いだした。これは、あの怪物のいた部屋から出ようとしたときにリュックの底に触ったもので、後で調べてみようと思ってそのままにしていたものだった。


 もっとよく見ようとあたしはランタンを近づけた。あたしは気づいた。それはフロレンの持ち物だった。あの女はこれを何かをするときに使っていた。なんだっけ? 何かちょっとした時に使っていたように思う。使わない日もあれば、一日に二、三回使っていた時もあった。


 あたしも触りたかったが、フロレンは決して触らせてくれなかった。何か端っこを押して、それから数字のようなものを打ち込んでいたっけ? それが今どうしてここにあるんだろう? どうしてあたしのリュックの中に入っていたんだろう? これをリュックに入れたのはフロレンに違いなかった。あたしはそう思った。じゃあどうしてあの女はこれをあたしのリュックの中に入れたんだろう? あたしは考えた。おそらくあの女は、きっとこれがあたしの役に立つと思ったに違いない。


 それはあの女がいなくなったこととつながりがあるのかもしれなかった。あの女は自分がいなくなっても、あたしがひとりでやっていけるようにこれを残していったのかもしれない。あたしはもう一度封筒の中を覗いてみた。封筒の奥に何か紙切れが引っかかっているのに気づいた。取りだしてみると、かなりあわてて書かれたようなメモだった。メモには一続きの数字が並んでいた。


 あたしはフロレンがそうしていたように、長方形の隅っこを親指でそっと押してみた。するとそいつは一瞬身震いするように振動すると、黒い表面に何かを映し出した。一から九までの数字と零の合わせて十個のボタンだった。あたしはメモに書かれていたとおりに数字を押していった。最後の数字を押し終わるとそいつは再び震えてから、ひとそろいの数字を映し出した。数字の左側には見慣れた記号がついていた。それはお金を示す記号だった。


 あたしはそれを手に持って少し口を開けたまま、その数字を見つめていた。数字の桁はとてつもなく大きいように思えた。これがもし本当のお金なら、そしてもしフロレンがそのお金を持っているのなら、あの女はどうやってこんなにたくさんのお金を集めたんだろう?


 とてもオペラハウスの掃除で何年働いても稼げるようなお金じゃない気がした。あの女は何か悪いことでもやっていたんじゃないだろうか? 銀行強盗? まさか。フロレンにそんなことができるとはとても思えなかった。大人たちがよく話していた、株とかいうもので儲けたのだろうか? あの女がそんなことが上手にできるとも思えなかった。じゃあ、何かの冗談だろうか? いや、自分がいなくなろうとするときに、あの女がそんな冗談を残していくとも思えなかった。それじゃあ、いったいこれはなんなの?


 わからなかった。あたしは、わからないことは、そのままにしておくタイプだった。だからもうこれ以上考えるのはやめにすることにした。あたしが再び端っこを押すと数字は消えた。あたしはそれを封筒の中に大切にしまうと、封筒をリュックのポケットに入れた。


 あたしは着替えをゴミ袋で包むと体の当たるところに平べったく並べた。そしてそこに体を横たえた。ランタンを消すとしばらく休もうと目を閉じた。


 落ち着いてみると空腹感がまたやってきてあたしをさいなんだ。あたしはできるだけ無視して、それにつきあわないでおこうとした。でも無理だった。あたしは子どもだったから、がまんするということがまだうまくできなかった。


 あたしのお腹は親鳥に餌をおねだりするひな鳥のようにさえずりつづけていた。親鳥が行動を起こすまで、泣き止まない覚悟のようだった。あたしはついに根負けした。目を開けて、上半身を起こすと、ランタンの明かりを点けた。あたしはリュックのポケットをあけるとチョコクッキーを取り出しながめた。あたしが持っている最後の食べ物だった。これを食べてしまうと、もうあたしにはなにも食べるものがなかった。


 なんであたしはさっきあの家でパンとチーズを食べてこなかったんだろう? あたしはそんな自分の馬鹿さ加減をののしりたくなった。この、唐変木! そんなんだから世の中をうまく渡って歩けないのよ! あなたは、どろぼう猫になるって決めたはずじゃなかったの? 石にかじりついてでもあの女の人を守るって気持ちはどこへ行ったのよ?


 たしかにそうだった。でも、あの時あたしは気が動転していた。心の中でナイフのような言葉があたしを切り刻んでいた。だからあたしはこうするより他はなかった。ここでこうしていようと思った。ここでこうして静かにしていようと心に決めたんだった。


 でも、あたしのひな鳥たちは、あたしの体の中心で餌をもとめてさえずり続けていた。あたしはとてもそれに抵抗できそうになかった。あたしはチョコクッキーをつかむと噛みついた。チョコクッキーは一瞬にして喉を通ると胃袋の中へ落ちた。少しの間だけひな鳥たちは鳴き止み、クッキーをついばむのに忙しそうだった。


 次の瞬間、ひな鳥たちはふたたび大きな口を開けてさえずり始めた。心なしかさっきよりも声が大きくなったような気がした。あたしはどうしようもなかった。とても面倒なんかみてられない。口の中にはまだチョコクッキーの味と香りが残っていた。あたしは口中のつばといっしょにそれを飲みこんだ。それはひな鳥たちに何の効き目もなかった。


 あたしはあの家にもう一度もどって、食事にありつくべきだろうか? いや、そんなことをしたらあたしはあたしの気持ちにさらにひどい目にあってしまう。あたしはその気持ちが、あたしがそうなるのを今か今かと待ちかまえているような気がした。


 そいつは、その瞬間にあたしをきっとたたきのめそうとするだろう。それをはねのけられるほど自分が強いとは思えなかった。あたしは再びあんな目に会うのはいやだった。あのときの気持ちを思いだすと、とても怖かった。


 じゃあ、いったいどうすればいいんだろう? あたしはふと、リュックのポケットに手をのばすと、白い封筒の中から黒くて少し分厚くて長方形をしたものを取り出した。これが何かの役に立つだろうか? あたしはその端を指で押し、再び番号を入れた。


 さっきと同じ一揃いの数字がお金の記号とともに映しだされた。それはくっきりと光ってそこにあった。それは次の瞬断には消えてしまう光だった。でもそれが指し示しているものには何か役にたつことがありそうだった。これはあの女が残していった、たったひとつのものだったから、あたしの味方になってくれそうな気がした。


 あたしは少し考えていた。そしてあることを思いだした。


 あたしにできるだろうか? でもためしてみよう、あたしはそう思った。あたしはすべての荷物をまとめてリュックに詰めた。長方形をしたものは、ジーンズの前ポケットにしっかりと入れた。


 あたしの気分は少しよくなっていた。


 ひな鳥たちはまだ騒々しくさえずっていたけれど、体はぶるぶると震えて足取りはおぼつかなかったけれど、あたしは自分の心をおおっていた雲の絨毯が少しちぎれて、そこから青空がのぞいているような気がした。青空の下の梢ではかっこうさえさえずっていた。あれは何の歌だろう? もう、あの気持ちに文句は言わせない。たとえこれが自分の力でなくっても、今あたしができることをやるんだ。あたしはそう考えると、ひな鳥たちもあたしを応援してくれているような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る