2-⑧.


「僕も、何一つとして変われなかった」

 ――あ、泣きそうだ。

 栞はその時、葉桜が涙を堪えていることに気づいていた。いつもと何が違うと言われれば説明に困るくらいに無表情なのだけれど、栞にはそれが涙を堪える顔に見えた。

「もう、気づいているんでしょ……僕が泣き虫のままだって」

 葉桜は泣きそうな顔で笑った。丘に吹く風がいっそう強まった。

「僕は困っているから泣いていたんじゃない。逆だよ、勝手に涙が出るから困ってるんだ」

 葉桜は顔を下に向けた。垂れた前髪で葉桜の表情は見えないけれど、足元のかわいた地面にぽた、ぽた、としずくが零れた。丸い滴は、土を湿しめらせて胡桃くるみ色から黒茶色に変えていた。風は丘の上に吹き続けている。びゅうびゅうと、大きな音を立ててすさぶ風はまるで栞を威嚇いかくするみたいだった。

「私に冷たくしていたのはそのせい?」

「ごめん……知られたくなくて、君にひどいことばかり言った」

 葉桜の肩は小刻みに震えていた。地面に丸い染みがどんどん増えていく。

「子どもの頃からそうだった。感情が高ぶると、泣きたくなくても泣いてしまう。高校生になってもなぜだか治らなくて、自分の意志では涙を止められない。今日も、君の朗読を聞いていたら、なんて哀しい話だろうと思ってしまって、気づいたら涙が溢れそうだった……」

「だから慌てて屋上に行ったんだね……」

「泣きそうになると屋上に逃げるんだ。人に見られたくないから。君が転校してきた日もそうだった。びっくりして、でも嬉しくて、涙が出た。嬉しくても哀しくても泣いてしまう。なんでだろう、皆はちゃんと大人になっていくのに、自分だけ子どものままみたいだ」

 二人を辛うじて照らしていた夕陽は次第しだいに細くなり、山の影へ退いていく。空は深い赤とい青が混ざった色になっていた。昼と夜の狭間はざまおとずれる。

「強くなるって約束したのにな」

 その切ない声に、栞が泣きたくなった。

「私のことなんて、もう忘れているのかと思ってた」

「僕は君をずっと待ってた。忘れていたのはそっちでしょ。六年も音沙汰おとさたなしで、突然とつぜん帰ってきたくせに」

「忘れたことなんかない。ずっと、ずっと、会いたいって思ってた……だから、帰ってきたんだもん」

「がっかりした? 僕が六年経っても相変わらずで」

「そんなわけない!」

 葉桜の語尾ごびかぶせるように、栞は即答した。葉桜は驚いて口をつぐむ。

「再会してからずっと、葉桜くんは知らない人みたいだった。でも、今日初めて私の知ってる葉桜くんに会えたよ。泣き虫でも強くなってなくてもいいよ。優しいままの葉桜くんと一緒にいたいよ」

 葉桜は涙でれた顔を上げた。幼い頃の彼と今の彼が重なって見えた。

「本当は僕も……栞ちゃんにずっと会いたかった」

 一つのうそもない言葉だった。

「やっと……昔みたいに栞ちゃんって呼んでくれた」

 栞は葉桜の手をぎゅっと握った。声が掠れて、裏返って、栞は自分もまた泣いているのだと自覚した。葉桜は泣き出した栞に驚いていた。

 ただ名前を呼ばれただけでこんなにむねが痛い。初恋が帰ってきたような気持ちだった。胸の奥の感情は何年経っても消えてはいなかった。

「私にもっと頼ってよ。幼馴染みでしょう?」

 栞の真剣な気持ちが涙と共に葉桜の胸に届いた。緊張していた葉桜の肩からふっと力が抜ける。葉桜は栞の手を解いて「ありがとう」と優しく言いながら栞の涙を制服の裾で拭った。

「……僕を助けてほしい。僕が涙を止められないまま春が来たら大変なことになるんだ」

「大変なこと?」

「僕にはずっと誰にも秘密にしてきたことがある。きっとすぐには信じてもらえないような話だと思う。でも、栞ちゃんに聞いてほしい」

 一体どんな話だろう、と栞はごくりとつばんだ。葉桜は真剣な顔で言った。

「僕が泣くと、この町の桜は散ってしまうんだ」

 言葉の意味が理解できず、栞の涙は止まった。

「それって、どういうこと?」

 葉桜はそっと桜の幹に触れた。

「僕が泣くと春の終わりを告げる風が吹いて、桜が、桜の花が散るんだ。そういう魔法まほうなんだよ」

 魔法、という単語に眩暈めまいがした。栞は葉桜の涙が風に運ばれていくのを視界にとらえながら、これは夢かもしれないとついに考え始めていた。

「どうして桜なの?」

 困惑した栞の口から出てきたのはそんな素朴そぼくな疑問だった。

 葉桜の答えはシンプルだった。

「それは、僕が桜の魔女まじよの子どもだから」

 桜の魔法しか使えないんだよ、と薄く笑った葉桜の頬に一筋の涙が伝う。その時、二人の間を風がいっそう強く駆け抜けた。桜の大木が枝葉をざわざわと揺らした。

「桜の、魔女……?」

 栞は繰り返すように呟いて、読み聞かせのために練習していた絵本のことを思い出していた。美しい女性とあざやかな桜がえがかれた表紙。それは、さくら町では知らない者はいないと言われる、この地域に伝わるとても有名な昔話。


 絵本の題名は『桜の魔女と庭師』

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【書籍版】僕の涙がいつか桜の雨になる 犀川みい/ビーズログ文庫 @bslog

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