2-⑦.


***


「たしか、雪間の家はさくら町だったよな。このプリント、吉野の家まで届けてやってくれないか。明日、どうしても必要なんだよ」

 終礼の後、担任に呼ばれた栞は差し出されたプリントを受け取るのに躊躇ちゆうちよした。あんなことがあったのだ、葉桜はきっと会ってはくれないだろうとさすがの栞にも分かっていた。

「何? 用事でもあるのか」

「あ、その、今日は図書当番で少しおそくなるので……」

「大丈夫、大丈夫! その後で届けてもらえれば問題ないよ! それじゃあ、よろしくな!」

「え、ちょっと、先生! 私、行くって言ってな……ああ、逃げ足の速い! 教師のくせに!」

 栞は足早に教室を出た担任に悪態をつき、しつけられたプリントを手に肩を落とした。

 図書当番の間も、気になって気になって仕方なく、仕事が手につかなかった。

 当番を終えて、栞はげんなりしながら通学路を歩く。

「はあ、どうしよう……私だって本当は様子を見に行きたいけど、でもなあ」

 葉桜がなぜ泣いていたのか、栞は心配でならなかった。けれど、それと同じくらいに拒絶きよぜつされたことがショックだった。会いに行きたいけれど、これ以上拒絶されたらもう立ち直れないかもしれない。

 栞が頭の中でぐるぐる考えて歩いているうちに、自宅の前に辿り着いていた。

「どうしよう……」

 行っていいのかとまたなやみそうになって、栞ははたと気づく。

 なんて贅沢ぜいたくなことで悩んでいるんだろう、と。

「葉桜くんに会えるのに行かないなんて、一年前の私が聞いたらきっとおこる。もう時間がないんだから、行かなくちゃ」

 陽は暮れようとしている。

 栞は自身を奮い立たせていつもの脇道に入った。丘に続く坂道をせかせか歩いた。

 夕陽が丘一面を茜色あかねいろに染め、桜の木々は影を長く伸ばす。いつも栞が寄り道する町一番の桜はことさら大きな影を作り、いつもと同じように町を見下ろしていた。栞は丘の上にぽつんとたたずむ吉野家を目指して歩いていたが、もしかしたら、と目を凝らすとあの桜の下に人影を見つけた。

 逆光で顔は見えないのに、栞はそれが葉桜だと確信していた。栞は整えられた道を外れて、桜の木へとそっと近づく。葉桜は立ったまま桜の幹に背を預けて、遠くの町並みをじっと見つめていた。

 その横顔は物憂ものうげで、声をかけるのは躊躇ためらわれた。葉桜が足音に気づいて栞に振り返ると、一瞬で場の空気が固まる。

「……こんばんは、吉野くん」

 栞は遠慮がちに挨拶した。

「……何しに来たの?」

 風にさらわれそうなくらい小さな声だった。葉桜はバツが悪そうに栞から顔をそむけ、決して栞を見ようとはしなかった。

「先生からプリントを渡すように頼まれて、届けに来たの」

 栞はこちらを見ようともしない葉桜に勇気を出して近づいた。鞄からプリントを引っ張り出して、差し出すと、葉桜は黙ってプリントを受け取った。

「明日、必要なんだって」

「そう……わざわざありがとう」

 葉桜は短く礼を言って、プリントを制服のポケットに仕舞うとその場を立ち去ろうとする。

「待って!」

 栞は葉桜のうでを掴んだ。

「まだ何かあるの?」

 葉桜は分かりやすく迷惑そうな顔をする。

「こんなこと、聞かれたくないって分かってる。分かってるんだけど……今日、どうして泣いていたの?」

「分かってるなら、聞かないでよ」

「だって、心配なんだもん!」

 栞は怒鳴どなるように言った。

「泣くほど辛いことがあったんでしょう? 私のことなんか、嫌いかもしれないけれど、でも、私にとって葉桜くんは、大切な……幼馴染みだから。心配になっちゃうんだよ」

「……泣くほど辛いこと、か」

 葉桜は自嘲じちようするようにわらった。

「何も辛いことなんかない」

「でも……苦しそうだった。困っていることがあるから泣いていたんじゃないの? 私、何ができるか分からないけど、それでも助けになりたいよ」

「無理だよ。本当に笑いたくなるくらい、馬鹿ばかみたいな話だから」

 葉桜はやっと桜色の瞳を栞に向けた。いつも逸らされる瞳が今は栞を映している。どこか不安げな瞳は子どもの頃の泣き虫な彼を思わせる。

「私、笑わないよ」

 思った言葉がそのまま口をついて出た。

「葉桜くんが困っているのにどうして笑うの? 馬鹿だなんて思うの? そっちのほうが変だよ」

 栞はそうでしょ、と葉桜を見つめた。

「雪間さんは本当に変わらないね。昔と変わらない、素直で優しくて強いままだ」

 硬い表情のまま、声だけは隠し切れずに震えていた。それと同時に急に丘に弱い風が吹き始めた。

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