第14話 「青い空の下、毎日毎日球の追っかけっこだけするのが俺の楽園なんだがなあ」

「それでおにーちゃんとはちゃんとお別れできた訳かい?」


 浴室から声が飛んだので、ノブルははっと顔を上げた。考えに沈みそうになっていたらしい。


「ああまあ。奴は奴で忙しい上に、結局予定よりずいぶん遅れる羽目になったからなあ。慌ててたぜ」


 ふうん、と呑気な声が飛ぶ。


「そう言えば、あんたのスタジャン、クリーニング出しておかないといけないんじゃないか?」

「あ! そうだった。……あーでも、明日もう出るだろ。……間に合うかなあ」


 言いながら、マーティは腰にタオルだけを巻いて、まだ髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら出てくる。絨毯に染みが所々できるが、この男はそのあたりにはあまり構わないらしい。


「うーんやっぱりこれはひどいかな」


 広げてみる青のスタジアムジャンパーは、胸と言わず肩と言わず、べっとりと黒ずんだ染みができていた。


「どう見たってひどいぜ。捨てちまったほうが良くないか? 血の染みってそう簡単には取れないぜ?」


 ストンウェルはベッドにうつ伏せに寝そべりながら、彼の敬愛する男を見る。本当にまあ、いい身体をしているものだ。背中についた筋肉といい、腰のあたりといい、足といい。

 ただやはり、彼が昔知っている男とは、やや筋肉の付き方に違いがある。

 一年少しのこのチーム生活で、野球選手的な筋肉を取り戻しつつはあったが、やはりライでの労働生活のうちについたものというものがマーティの身体を構成している大半のものなのだ。

 俺は生まれ変わったんだよ、と「再会」したばかりの頃、マーティは言っていた。

 それを良い意味で取っていいのか、そうではないのか、ストンウェルには判らない。ただの事実を言っているだけなのかもしれない。

 ただそれに伴って、少しばかり貧乏性の習性もついてきたようだった。


「んーでもなあ、着られる服を捨てるってのは」

「あんた年収幾らもらってるんだよ」

「それとこれとは別。物は大事に使おう」


 ストンウェルはぱっと起きあがると、水に浸けて置けばいいかなあ、なんて呑気に口走る男から服をもぎとった。


「何するんだよお前」


 ストンウェルは何も言わず、備え付けの大きなビニル袋に押し込むと、ぎゅっ、とその口を縛った。


「見てる方が心臓に悪いんだよ、ああいうものは」

「そう…… かな? ああ、そうかもな」


 マーティは自分のそんな感覚が鈍磨していることは知っていた。

 慣れとは恐ろしいものなのだ。苦笑する。

 ああやはり、あれは素人には、衝撃が強すぎたかな、と。


「判った。あれは捨てる。その代わり、ストンウェルお前、新しいの、頼んでおいてくれない? 今のうちに」

「俺がかよ?」

「俺まだ風呂の続き。このままじゃ風邪引いてしまうじゃない」

「それは、そうだねえ」


 ストンウェルは言いながら扉を開けた。

 別室のチーフ・マネージャの部屋は何処だったか。そう思いながら廊下を行くと、本日の勝利投手とすれ違った。


「あ、ストンウェルさん、マーティさんは?」

「部屋だよ。ああでも今風呂入ってるから行っても無駄だぜ」

「そうですか」

「何、奴に何か用事?」

「いえ、用事って程ではないですが」


 ふうん、とストンウェルは頬を人差し指の爪でひっかく。


「あのひとは、平気なんですね」

「何が」

「俺は、びっくりしました」

「俺だって、びっくりしたさ」


 ルーキー君は、弾かれた様に顔を上げた。


「何お前、俺がびっくりしていない、って思ってる訳?」

「い、いえ……」

「まあいいけどさ。だから生半可な気持ちで奴に近づくなよ」

「え」


 ぽん、とストンウェルはダイスの肩に手をおき、にやり、と笑った。何のことを言われているのか判らない、という表情のダイスに彼は付け加える。


「と言う訳で、お前に一つ使命を与えよう。チーフマネージャのとこに、マーティの新しいスタジャンを頼んできてくれねえ? あれもう着られねえからさ」

「は? はい」


 首を傾げながら、ダイスは言われるままにチーフ・マネージャの部屋の扉を叩いた。



「そう。サンキュ。わざわざすまなかったな」


 構わないさ相棒、と向こう側の相手は言った。それでもまだ、端末越しにしか、自分に会う気は無いらしい。そして、レーゲンボーゲンに帰る気も。


「じゃあ。また頼み事するかもしれないけれど」


 たまには俺の頼み事も聞いてよね、と向こう側の声が届く。

 聞ける頼み事だったらな、とマーティは返すが、そう言うと、あの相棒は、今は無いよ、と笑うのだ。

 通信を切ったら、いいタイミングでストンウェルが戻ってきた。


「あれ、何、どっかと通信してたの?」

「まあな。俺も結構忙しいものでね」

「ふうん」


 既に髪が結構乾いている。風呂から出て時間は経っているようだ、とストンウェルはにらむ。


「それにしてもさ」

「何だよ」

「今日のあんたは、結構怖かったぜ」

「そうか?」


 そうだよ、と言いながらストンウェルは対面のベッドに座り、そのまま靴を飛ばすように脱ぐと、手枕にして寝ころんだ。


「あんたああいう生活、してたんだな」

「ああいう生活ばかり、じゃないけどな」


 それでも、日常的に血を見慣れている女と違い、男がそれに鈍感になるには、それなりの状況が必要だ。

 実際、ストンウェル自身、マーティが浴びているのが返り血であって、彼自身から出ているのではないと判っていても、くらりとしたものだ。


「その頃のこと、聞いても構わないかい?」

「聞いたって、面白くないさ」

「俺には、興味深いよ」


 危険信号が、マーティの中に走る。次に来る言葉が、彼には多少なりとも予想ができたのだ。

 だから、彼はこう返した。


「話してもいいさ、おいおいにな」


 言われた方が驚いたようで、ぴょん、と身体を起こす。


「ただし」


 マーティはぴしりと言った。


「お前の空白も、俺に教えろ」


 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。

 そしてやはり、負けたのはストンウェルの方だった。くしゃ、と笑顔を作ってみせる。


「判った判った。お互いに、おいおいに、ということだよな」


 ああ、とマーティも笑った。だが目は笑っていない。

 彼が釘を刺しているのだ、ということはストンウェルにもよく判る。

 きっとその「おいおい」の間は、マーティは絶対にある一定以上の距離を自分に取らせないだろう、とも。


「俺は、できるだけ平和に、ベースボールをやっていたいだけなんだがな」


 マーティはつぶやく。


「それは無理だよ」

「青い空の下、毎日毎日球の追っかけっこだけするのが俺の楽園なんだがなあ」


 独り言のように、マーティはつぶやいた。

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マイ・ブルーヘヴン~兄貴来襲。そしてまたまたトラブル。 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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