704号室 片平桃香と江木亮介


 眠りの森で目を覚ました姉は、制服姿だったと言う。私もちょっと憧れていた、襟に青いラインが入った、紺色のセーラー服。みぃの話を聞く限り、姿は高校一年の頃の様だ。姉の時間は、やはりそこで止まっていた。


「ごめん、桃香。私、ひとをころしちゃった。ごめん……」


 紙みたいに真っ白な顔でそう呟いて崩れ落ちた、あの日のまま。



 その後の話を聞き、姉は眉を寄せたまましばらく表情を凍らせていたという。

 それはおそらく、姉が考え事をしているときの癖だ。空中の一点を見つめて瞬きすらせず、表情筋はピクリとも動かない。しかし頭の中では様々な情報が超高速で駆け巡り、点と点、線と線を結び合わせ、様々に取捨選択と構築を繰り返して状況を整理しているはずだ。


 昔から、姉は状況判断とその先の予測に優れていた。一を聞いて百を知る、とまでは言わないけれど、結論を導き出すのが異常に早いのだ。

 姉に悩みを相談すると、話していない事まで言い当てたり、一見突飛にも思える答えが返ってきたりで、私はよく混乱したものだ。でも、順を追って説明してもらうと、なるほどと納得出来る。

 一瞬でそんな芸当が出来る姉は、当時の私にはまるでエスパーみたいに見えたものだ。とはいえ、時々思考が突っ走りすぎて妄想の域に突入してしまうことも多かったけれど。


 とにかく、その姉が、「一旦時間が欲しい」と目覚めるのを拒否した。拒否というより、保留というべきか。とにかく、みぃを独りで帰したのだった。



 10年。とてつもなく長い時間だ。特に、17から27歳という、本来人生が大きく変わるであろう期間を、まるまる過ぎてしまっているのだから、飲み込むのに時間が欲しいというのも当然だろうと思う。


 しかし、さすがと言うべきだろうか、あの姉だ。姉はみぃに、私への伝言を託していた。


「もっと栄養を。糖分を。そしてとても喉が乾いているので、経口で水が飲みたい。それと、両親亡き後の我が家の現在の経済状況を教えて欲しい」



 それをみぃから聞かされた時、姉は姉のままだと思った。とてもあの人らしい、現実的で前向きな考え方だ。数々のショッキングな知らせを聞いた直後でさえ。


「あいつ、ゾンビ並みの精神力だな……」


 呆気にとられたように、江木くんは呟いたけれども。彼は、知らないのだ。姉の、本当の姿を。



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 逸る心を抑えつつ、病院の廊下を足早に進む。

 昨日肩を落として帰ったその廊下を、江木亮介は、競歩かというほどの勢いで片平梨花の病室を目指し猛然と突き進んでいた。

 会社の定時を過ぎた頃に届いた、一通のメールのせいだ。


「梨花がまた目覚めたよ。思ったより、って言うか、ものすごく元気」



 もちろん、メールを読んですぐに桃香に電話した。

 聞けば今朝早く、梨花は碧の助けを借りることなくひとりでに目を覚まし、自らナースコールを押してスタッフを呼び、水を飲ませてもらったのだと言う。500ミリのペットボトルを空にした直後、今度はスポーツドリンクを飲みたがり、これも500ミリ完飲。すぐさまゼリー飲料を2パックたいらげ、コトンと落ちるように再び眠ったらしい。

 桃香はこの段階で連絡を受け、急いで店を閉めて病院へ向かったとの事だった。


 通い慣れた殺風景な廊下を進み、ドアを開け放った病室の入り口が見えてくる。と、何やら騒がしい。騒がしいと言っても、切羽詰まった感じは無く……楽しげで賑やかな、笑い声だ。




「謎の外人って、何よそれ」


 息も絶え絶えになりながら笑っている、桃香の声だ。


「私にもわかんないよ。ミィちゃんから話聞いてたら突然さ、脳内アメリカ人が『ヘ~イ、ベイビィ』とかって……」


 小さくて弱々しくかすれているけれど、聞き覚えのある声。片平梨花の声だ。胸の中がぎゅっと熱くなり、亮介は思わず拳で胸元を押さえつけた。鼓動が、早まる。心臓が胸から飛び出してきそうだ。



「梨花ちゃん、私が喋ってるあいだピシーッて顔固まってたくせに、頭の中ではそんなこと考えてたのぉ?」


 碧も声を上げて笑っている。



 最後の数歩を我慢できず、亮介は走って一気に飛び込んだ。


「梨花!!!」




 見知った顔が一斉に振り向く。ベッドの向こう側、枕元に院長。手前側には桃香と碧。そして、背を起こされたベッド上には……キョトンと目を見開いた、片平梨花の小さな顔。


 一歩踏み込んだきり、動けなかった。その場に蹲ってしまいたい気持ちと、ベッドの足元に飛んで行ってひれ伏したい気持ち、ようやく目覚めた梨花を思い切り抱きしめたい気持ちが同時に湧いてせめぎ合い、その足を止めてしまったのだ。



「梨花……ああ、本当だ。梨花が」


 胸の中で喜びに跳ね回る心臓に引っ張られるように、そろそろと足を踏み出す。



「え、誰?」


 梨花の怪訝そうな声で、亮介の足はまた、歩みを止めた。






「えー、ウソだぁ……これが江木亮介ェ? ゴツイおっさんじゃ…あ、ごめん」


 木製の丸椅子の上で、先ほどから江木亮介は言われるまま頷いていた。何を言われても構わない。梨花の声を聞いているだけで、幸せだった。

 桃香が慌てながら小声でとりなしているが、梨花はそれを意に介さずしゃべり続ける。


「江木くんって背は高かったけど、もっと細くてこう……しなやかなイメージあったのに。何これ、男子の成長って壮絶。マジ、スマートなゴリラだ」


 院長が吹き出したのを誤魔化すために咳払いをし、碧は「だから言ったでしょ」とでも言いたげに鼻を高くしている。桃香はもう、諦めた様子で苦笑いするばかりだ。



「ってか、なんか自然に名前呼び捨てされてるし。別にいいけど」


 ハッと顔を上げ、弁明しようとした矢先に、桃香に先を越された。


「それはさ、あの、私の呼び方が移ったの。江木くん、ずっと梨花の」


「いや」

 桃香の上ずった声を、梨花が遮る。


「いいの、いいの。ちょっと驚いただけでそれはいいんだけど、やっぱこう……私の知らない10年、過ぎたんだなぁって思って」



 軽い口調にもかかわらず、その言葉は病室の空気を変えた。賑やか過ぎるほどだった病室が、しんと静まる。



「桃香」


 呼ばれて、桃香は背筋を伸ばし梨花を見つめ返した。みるみる目が潤み、唇が小さく震える。


「10年もの間、ありがとう。しんどい思いさせて、悪かったね。本当にごめん」


 膝にくっつきそうになるくらい深く頭を下げた梨花から目を逸らし、桃香は大きく首を振った。目を瞑り歯を食いしばる。堪えきれずに流れ出た涙が、両膝を濡らしていく。大きく揺れる肩を、碧がそっとさすった。



「江木亮介くん」


 亮介は椅子から滑り落ちるように跪き、床に両手をついた。頭を下げようとしたその時、思いもよらぬ言葉がそっと差し出された。


「生きててくれて、ありがとう」


 中途半端な姿勢のまま、亮介は固まった。

 謝ろうと思っていたのに。散々罵倒されて、憎まれる覚悟をしていたのに。大切な10年を奪ってしまった、拓けていた未来を潰してしまった、その償いを、やっと始められると思ったのに。



「さっき桃香から聞いたよ。ずっと、助けてくれてたんだってね。私のことも、家のこととか親の……お葬式のこととか、そういうの。君が居てくれたから、桃香は一人ぼっちにならずに済んだ。桃香の側にいてくれて、ありがとうね」




 梨花にしがみつき、大声でわあわあ泣きじゃくる桃香と、ベッドの足元に蹲っておいおいと号泣する亮介を誰が止められるわけもなく。


 碧は病室のドアを閉めに立った。嬉しいのは自分もだし、この状況で大泣きするのはわかるけど、この騒音は他の病室の迷惑になる。


 ドアを閉めたついでに、洗面台の戸棚からタオルを二本取り出した。ベッドの脇に戻り、片方を桃香に、もう片方を院長に手渡す。床に蹲る亮介に阻まれて動けない院長が感謝の笑みを浮かべてタオルを受け取り、亮介の傍に跪いた。

 桃香はタオルに顔を埋めていて、梨花がその頭を撫でていた。碧とふと目が合うと、柔らかに笑った。梨花は泣いていなかった。




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