第10章

梨花の朝


「お姉ちゃん、起きてよぉ! さっき起きたんじゃなかったの?! なんでまた寝ちゃうのよぉ!」



……騒がしいな。なんだ、桃香また泣いてるのか。全く、すーぐ泣くんだから………



「ねぇぇぇ、お姉ちゃぁん、おき……起きてよぉ……」



……わかったよ、起きるよ。今起きるから………ん、なんか仄かに消毒の匂いが………あ、そうだった。ここ病院だ。そんでこれは、昨日の夢だ。桃香に枕元で泣き叫ばれて起きた時の、あの場面を夢で見てるんだ………



 そうそうそう。私、一旦起きて水とか飲んで、すぐにまた寝ちゃったんだよね。それで、連絡を受けて飛んできた桃香が寝ている私を見て、号泣してて………うん、そうだった。



 よし、起きよう。片平梨花、起床、起床。暗闇から抜け出そう。目を、開けて。



 睫毛の隙間からまず見えたのは、白い天井。薄い掛け布団から手を引き抜き、目の前にかざしてみる。こんなに細いのに、腕が重い。細い枯れ枝が五本ずつくっついたみたいな手の甲を眺め、ひっくり返して掌を眺め……うん。私の手。ちゃんと生きてる。

 手を握っては開き、握っては開き。腕を突き上げたままグーパーを繰り返しながら、私は部屋の様子を確認した。

 ベッドの左手には、ぴったり閉じられたベージュ色のカーテン。うんと淡いミントグリーンの壁。ベッドの向こうには、白木のローテーブルと、ちょっとシミのついたグレイベージュ色のソファ。部屋の隅には、重ねられた丸椅子が幾つか。右手の壁際、頭側にはちょっとした棚が取り付けられ、その横には小さな洗面台。


 この見慣れぬ部屋で、私はおよそ8年もの間死んでいたのだ。いや、正確には眠っていたのだけれど。




 たしか、一昨日になると思う。

 9歳の女の子、碧ちゃんが、私を彼女の眠りの森に連れ出した。そこで様々な話を聞いたが、私はそれを受け入れられずに眠りの世界に留まった。現実を受け入れるのに、時間が、そして更なる情報が欲しかった。碧ちゃんにまた来るよう頼み、彼女を一人で帰した。

 でも。私は彼女を待たず、自力で目を覚ました。だって、考え出したら気になってたまらなかったんだもの。

 全ての原因となった江木くんが、両親亡き後桃香と同居してるって、なんで? お父さんのお豆腐屋潰して花屋になったって、どういう成り行きで? 私の入院費用はどう工面してるの?

 既に両親が他界したと言われても実感は無く、悲しみも湧いてこない。ただ湧き上がるのは、たくさんの疑問。


 考えているうちに身体がカッカと熱くなって(これはきっと、碧ちゃんへの伝言を聞いた桃香たちが、眠っている私にスポーツ飲料なんかをちびちびせっせと飲ませてくれたせい)、もう待てない! 起きて直接聞く!! と思ったら、自然と目が覚めたんだ。


 夢の中ではほんの短い時間だったけれど、実際にはさらに一晩、私は眠っていたのだ。

そして朝になってひとときだけ目を覚まし、自力でナースコールして栄養を補給したのちに、再びコテンと眠った、と。



「おはよ」


 声に出して言ってみた。昨日よりも、ちゃんとした声が出た。


 短い眠りから覚めてそう言った瞬間、桃香は涙と鼻水まみれでしがみついて来たっけ。26にもなって、相変わらず泣き虫だ。

 今日は朝一で来るって息巻いてたけど、また泣くかな。綺麗にお化粧していて、大人っぽくてびっくりしたけど、泣くと子供の頃とおんなじ顔になる。ああ、桃香だって思う。

でももう泣かないといいな。


 勢いをつけて寝返りを打ち、うつ伏せになる。ゆっくりと体を起こし、ベッドへ腰掛ける形に。ふぅ。疲れた。たったこれだけのことなのに、体が重い。全身に砂でも詰まってるみたいだ。でも、まだイケますよ。私はやりますよ。桃香が来る前に、やっておかなくちゃ。

 そろそろと足を下ろす。うぅ。床、冷たぁい。あちこち掴まりながら、じわじわと洗面台へ。我ながら、スローモーションのパントマイムみたいだ。よし、到着。ああ、怖いな。見たくないな。でも、見なくちゃ。自分の、今の姿を。ちゃんと確認しなくちゃ。



 そぉっと顔を上げる。部屋が薄暗くてちょうどよかった。電気は点いてないけど、カーテンから透ける朝日でギリギリ見えるくらい。



 思い切って直視した私の顔は、そんなに変わってなかった。いやむしろ、拍子抜けするくらい同じだった。そりゃそうか。ずっと寝てただけだもんね。だいぶ痩せたね、って感じだけど、もっとずっと痩せこけてゲッソリとやつれてるのかと思ったから、ひとまず安心。そこそこ元気そうじゃない?


 私は全然覚えてないけど、昨日目覚めるまでは体に色々な管繋がっていて、水分や栄養は点滴で入れてたらしい。

 院長先生によれば、生命維持に必要な最低限の活動のみを保つよう管理していた、ってことだった。逆に言うと、きっちり管理されてなかったら衰弱死していたってこと。病院ってすごいな。医療万歳。

 でもインチョー、「君、かなり上手く死んでましたよ」って物言いは、どうかと思うんだ。まぁ、私が言うのもなんだけどさ。ハハ。



 よし。安心したところで、お腹が空いた。ベッドサイドに置いておいてもらったゼリー飲料でも……と、その前に。ちょっとシャキっとしなきゃね。



「窓を開けよう。風を、浴びたい」





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